2020年7月14日火曜日

㉑ 故M。貞雄先輩からからの手紙 

故 M.貞雄 先輩からの手紙

このお手紙を戴いてから程なく M先輩のお世話で

 R・Tさんを誘い 2000年8月9日18:00から新横浜

の「うなぎ大黒屋」で櫻ケ丘同窓会合として初会合を

しました。

Rさんは奥様送迎付き添いでした。

ところが翌年にはRさんが急逝され その翌年には残念

なことに 今度は M先輩が急逝され 第2回同窓会

は実現しませんでした。両先輩のご冥福をお祈りします。

 Rさんは東京放送(株)を定年退職された、桜ケ丘

国民学校で1年上級生。

手紙は 時代の手記の一つとして どなたかのお役に

立つこともあろうかと あえて公開させて頂きます。

Mさん Rさん も 喜んでいただけると信じます。

お許しあれ!

拝啓

梅雨が終わりに近づき、暑い夏が目前に来ております。


初めてお手紙を差し上げますが、私は昭和二十五年

明専の機械科を卒業したものです。

この度配布された本年6~7月会報の「明専会報」を繙

(注:ひもとい)ております時、「私の一句」の「龍山」の

俳号が私の目に止まり、貴方の寄稿文を読み始め、

私の歩んだ道と、貴方の歩んだ道があまりに似ている

ことに驚くと共に、大変懐かしく追った次第です。


と言いますのは、私も終戦による京城からの引揚で、

終戦時京城の龍山中学の四年生在学中でした。

京城時代の住所は龍山中学からは少し遠い、城東区

新堂町で卒業した小学校は、櫻ヶ丘小学校でした。

龍山中学は遠かったですが、将来軍人になろうと考え

ておりましたので、選んだ次第です。


従って貴方の俳号の「龍山」の文字が目に入ったわけです。


そして引き揚げて最初に落ち着いた処が、私の母方の

里に当たる油谷町河原(人丸駅から貴方の人丸神社

とは反対の方向)でした。

(原文注記)私たちが引き揚げた当時は、未だ「油谷町」

ではなく「大津郡菱海村であった様に思いますが、

自信はありません。

父は萩出身でしたが、終戦直後の食糧難を考え、少し

でも田舎の方がということで母方の里に落ち着いた

次第です。


昭和二十年の十一月に引き揚げ、十二月に大津中学

の四年に転入し、山陰線で人丸の駅から通学し,

昭和二十二年三月に卒業(旧制中学5年卒)、四月に

明専機械工学科に入学、昭和二十五年三月卒業し、

小野田セメント(株)(現在の太平洋セメント(株))に入社、

その後全国を転勤して歩き、関係会社等も経て、

平成九年六月より全くの自由の身にとなり、現在は、

若い時代に取得した技術士の資格を活用し、時々

コンサル的なことをして頭の体操、足腰の体操のため

ゴルフを楽しんだりして、古稀を過ぎた体の健康保持

に努力する毎日です。


更に、「私の一句」の文面より貴方も大津高出身では

ないかと思い、大津中学、高校の同窓会名簿を見ます

と、昭和三十年卒に貴方のお名前を発見した次第です。


私の時代、大津より明専に合格する人数は、毎年

0~1人程度でした。

多分貴方の時代も、ほぼ同様かと想像しております。?


私と貴方が歩んだ道で違うのは、大雑把に言うと、機械と

電気、小野田セメントと東芝、と言うことでしょうか。

人丸神社のお祭り、油谷湾の風景、新鮮な魚、等々が、

この手紙を書きながらも、いろいろと目に浮かんできます。


私は短歌や俳句の嗜みや、才能の持ち合わせがありま

せんが、貴方は若い頃より、今日まで継続して嗜んで

おられることに敬意を表します。


貴方のアドレスも横浜となっており、私は昭和五十六年

より港北区菊名に住んでおり、この点も符合しております。


とにかく突然、拙文、悪筆のお手紙差し上げますが、

前述の通り符合する点が多く、また懐かしさのあまり、

筆を取った次第です。


向暑の候、ご自愛下さい。


二〇〇〇年七月十日