2008年12月28日日曜日

平成元年のころ

 居酒屋えびすやのカウンターで焼き鳥を肴に飲んでいた。頭上の小テレビが昭和天皇の病状を伝えている。夜な夜な飲み歩いて・・・・・・、小遣いには不自由しなかったが、仕事も家庭も問題ばかりで、心は暗く救いもなかった。えびすやのママさんは浅草生まれ、女学生当時の空襲で命からがら生き延びた話をよく聞いた。店を手伝う気心の優しい高校生の娘さんは日産に就職が決まったと笑顔一杯だった。

 テレビは天皇の容態が重いことを伝えていた。繰り返す輸血でほとんど望みがないと思えた。仕事の上では、すでに装備の配備が進んでいて、JDA各部隊の幹部との会合が多かった。

 他社がプライムのSAM-Xの配備も始まっていた。われわれの経験を開示し、交換のようにしてM工場を見学した。

 どういうわけか、平成元年の頃の印象はそんなものだ。平成20年(2008年)の暮れになって、はるかな昔を思い出すてみるのも一興か?

2008年3月15日土曜日

戦友再会


 3月2日~8日まで京橋で開いた自分たちの水彩画の展覧会に往時の仕事仲間fujituの「タモツちゃん」と「モリカワさん」が来てくれた。タモツちゃん夫妻には数年前相模湖畔の道志村への道の側の「ふれあい農園」に参加したところ、偶然彼も農場を借りていて再会した。磯子からは最低車で1時間半かかるから退職して暇な私でも、トマトや茄子や葉ものを栽培して農園に頻繁に手入れや収穫に行くわけに行かないから、通常はカボチャやサツマイモ、サトイモなど、ほとんど手入れをしなくても済むものを作っていた。それでも収穫時には車に積みきれないほどの収穫があり、ご近所に分けるほどだった。特にサツマイモの茎は戦後の食糧難の時代を思い出させるとともに、キンピラにすると美味しくて近所の奥さん方にも評判だった。

秋には収穫祭があって赤組だの青組みだのに分かれて収穫を競う収穫祭や、ビール会社の協賛で皆でわいわいやって楽しんだ。その会が主催者の側の人事によって中心編集長が更迭されて、解散同様になったが仲の良い数組の夫婦が自然発生的にそれぞれの家庭に集まって、懇親会を開いた。

自分が脳梗塞に罹って自然に間遠になってしまったが、ご近所に在住のオオツジさん宅には度々伺った。広い庭を「開墾」して野菜を作っておられたが、トラブルで隣家が次々に代わる場所だったらしく、家を売って別の市のアパートに越し、いずれは奥様の実家がある宮崎に越して農家になりたいそうである。偶然私と同じ会社に勤めたエンジニアーである。

 話は逸れたが、色分け組みは違ったが、みどり組のタモツちゃんはクロオト裸足の立派な野菜を作った。僕の病気で別れて以来、4年ぶりの再会である。

連絡が取れたモリカワさんを連れてきてくれた。彼とは随分会っていないのだ。ウン十年だろう。我慢強い彼は下請けの立場の会社代表エンジニアとしてよく頑張ったが、会社からは優遇されなかったように思う。その一端はわれわれプライム社にも責任があると今になって思う。兎も角タモツちゃんが入社して以来延々と開発に携わってきた殆ど二十数年はわれわれは戦友だったといってよい。

 新橋の焼き鳥屋に出向いたわれわれ(タモツちゃん夫妻、モリカワさん、わが夫妻の5人)は丁度ハナ金曜日で入れず、すし屋も入れず、別の焼き鳥屋で待ってようやく潜り込んだ。

 積もる話は延々と、明石時代の須磨のホテルでの設計会議の様子、奥様が眼科医の電子管エキスパートエンジニア・Aさんの話、亡くなったSさんMさんの話などなど、この人たちがいなければ自分でも忘れてしまう話が生き生きと現れる。

 ほんとうに青春そのもの、今となっては会社など違っていても共有する戦いの記憶がアフィニティだ。まだ現役であろう若い人たち(もう老年であろうが)の思い出も数々、次回はモリカワさんは夫妻で来ることを約して別れた。

 電車に接続するバスはも早なく、タクシーで帰った。バスだと酩酊が心配だった。

2008年2月12日火曜日

九州宮崎は酒造元隣の旅館

 マイクロ波を使ったレーダーの苦労することの1つに低空目標の探知がある。
原因はいろいろあるが、一般に使用周波数が高いほど難しくなると言われている。アンテナで作る電波のビーム幅は、光学レンズで作る光の束に似て、細くなるほど地面からの反射エコーと目標機からの反射エコーは見分けやすくなるのだが・・・・・・・いろいろの設計上のトレードオフがあるのだが、それをさて置き、一般にはMTI(移動目標識別技術)というのがある。これは移動目標からの反射電波は、必ずドップラー周波数偏移があるからこの違いを検出するのである。ところが低空になればなるほど、航空機などからの反射は地面からの反射に比べて圧倒的に相対量が小さくなってしまうので識別が難しくなる。
 その頃国の研究機関の試験に「労務借り上げ」であちらこちら試験条件が整った場所に出張してデータを取っていた。試験機は我々が納めたトラックに搭載された移動用のレーダー。レーダーといってもランチャーと連動して小型地対空誘導弾の発射制御をする機能を備えている。
 目標機を識別する試験をする航空機はかっての花形練習ジェット機T33、パイロットはかなり低空を飛ぶのでベテラン航空隊長I大佐が自ら飛ぶそうだ。機材の展開試験は宮崎県新田原(ニュウタバル)基地。天気の日もあり、雨の日もあり、あるときはハチの巣別れの大群にであったり広い飛行場の中で何週か過ごしたものだ。
 中でも思いで深かったのは会社員試験隊が泊まった駅前の旅館であった。老舗の旅館の隣は宮崎が誇る焼酎の醸造元、朝から焼酎の匂いが流れてくる。まだ若かったので今のようには呑む習慣はなかったが、今となってはもっと呑めばよかったと残念。というのは店先に並べてある一升瓶が驚くほど安かった。
 試験の打ち上げを旅館でやったとき、旅館の台所でよく切れるプロの包丁でO君が指先を大きく切って失神した。丁度休日だったが近くの医院に連れて行き、老先生に縫ってもらった。焼酎を少し飲んでいたので「危ないな」とは思ったが、手元が狂ったらしい。
 飛行場は駅前のいわば海岸レベルから坂を上って上の台地にあり海上から見れば「航空母艦」に見えるような立地であろう。雨が降ると飛行場に降る雨水を直接下に流すと水害になるらしく、一旦大きい貯水池に溜めてから徐々に放水する調整池方式になっているらしい。基地前の一っ軒家が酒店で焼酎が置いてあり、親父さんが家の前の松の新芽を摘んでいるのを見て、なるほど家の松もこういう作業が要るのかと思ったのを妙に覚えている。
 新婚の部下U君に来た奥さんからのラブレターを「みどりちゃんのラブレター」と皆で囃したのも昨日のようだ。お子さんももう社会人になっていることだろう。
 なにはともあれ、懐かしい日々である。