2020年6月30日火曜日

孫娘の入社面接予行演習

孫娘の就職も決まりそうだという。

今年のコロナ禍による社会混乱での就活

不燃である。

準備している想定問答集に入社者が父母

のイメージをどう捉えているか?に関する

父母への聞き取り集、例えば「お父さんの

若いころの目標は何でしたか?」とか、

「今の関心事は?」とか、

「将来への心配事は?」など。

「お父さんお母さんに聞いても、本気で

答えて呉れそうもない」と階下のジジババに

助けを求めて来たのだ。

父母の代わりに答えは出来ないので、と

前置いて父親のつまり息子の生い立ち

からの出来事など、ババと共に思い出し話。

今まで伝えてこなかった家族の歴史なども。

(コノゴロナミダモロクナッタジジハ 

縁側デ♬笑イナガラ、ナミダシナガラ、

語ッター♬)。

お父さんが好きな言葉は?にかこつけて

孫娘への講談など。

「この頃エライ人が(忖度)といういい

言葉を誤用して評判が落ちたが、本来

他の人の思っていること、希望している

心情を暖かく察してあげる」ことだよ、

よく気が付く女性になりなさい。とか

説教臭い。

お父さんが幼児に遊んだオオジジババの

山陰ナガトの綺麗な海、山陽ヒカリの浜

の自慢話。

しかし、孫娘も最後まで熱心によく聞いて

くれた。ありがとう。

2020年6月28日日曜日

[生]と[死]について(後編)

    [生]と[死]について(後編) 

札幌徳洲会病院名誉院長 佐々木英制先生の、

同病院の夏の研修会で、職員と一部患者さん

を対象に語られた録音テープの筆録を、

同院の創立10周年記念誌に掲載された

原稿です。

僕は同病院や佐々木先生と知古、師弟関係、

友人関係もありませんし、感想を書くお許し

を得たわけでもありません。

ただ頂いた本の読後感を語るという感覚で

あることを、まず申し上げます。

先生は先ず、常に患者の生死を分ける戦場に

あるお医者さんをはじめ、医療従事者たちに、

「生と死」という大問題を提示されます。

人間の「生と死」は誰も自分の意志ではどう

にもなりません。

死というものは「他人の死」であるが、最大の

意外事「自分の死」です。

江戸中期の禅の太田蜀山人が、死に際に

「今までは、他人の事だと思いしに、おれが

死ぬとはこれはたまらん」と詠んだことや、

作家の加賀乙彦の『死刑囚・無期囚に心理』

の引用とか、哲学者の三木清のノート

『人生と旅』などを語られた後、僧侶空海の

「的面の今」(てきめんのいま)と

「究意方便」(くぎょうほうべん)という

言葉を語られます。

「的面の今」が大事で、手段である「究意方便」

は究極の目的に達するに必要なことだ、と。

同様な言葉に道元の「而今」(じこん)を紹介

されます。

次いで、先生の自らの心得として「人を原寸大で

捉える目」を養うことが大切だ、と語られます。

また「プラス思考」「感性を磨く」ことが人を

幸福にすることを例を挙げて語れました。

インドのニューデリー郊外の聖地公園の壁にある

ガンジーの言葉として「人間が犯してはならない

7つの罪」を提示されます。

①「原則なき政治」、②「労働なき富」、

③「良心なき快楽」、④「感性なき智識」、

⑤「道義なき商い」、⑥「人間性なき科学」、

⑦「犠牲なき信仰」を語られ後、先生にも

わからない、あの孔子でさえ弟子に答え

なかった「死とは何か」について話されます。

シェークスピアが『ハムレット』の中で独り

ごとを言わせている「一人として帰ってきた

旅人がいないあの未知の国」、谷崎潤一郎の

『瘋癲老人日記』の一節「死が目前に迫って

いる。そう思うことが恐い。」、渡辺淳一の

『冬の花火』の中のモデル歌人・中条ふみ子の

「生」の燃焼の話、西洋哲学のデカルト、

ヘーゲル、パスカル、キルケ・ゴール、達の

人間的存在の実存的な円熟も死に向かう哲学で、

東洋の孔子、老荘思想、道元の『正法眼蔵』

などに及んだ所で、

この地球への唯一回の招待である、素晴らしい

人生の一刻を大切に生き、でき得れば、

十二分に生かしていただいた、という

感謝と平安の境地で静かに死を迎えたいもの

です、と締めくくられました。

無力の駄馬の駆け足で寸足らずになりました。

昔のお寺の日曜学校で聴いた、お坊さんの

語りを思い出しながらの試みです。

お許しください。

2020年6月27日土曜日

[生]と[死]について(前編)

  [生]と[死]について(前編)

恵み野病院副院長・佐々木英制さんから頂いた

講話記録からから 


僕は北海道に単身赴任してから糖尿病に罹った。

入社して以来、試作開発、装備開発、実用試験、

部隊配備、と一つのシステム装置の言わば一生に

関わってきた関わってきた者として技術者冥利に

尽きる。

配備に続く責任には、補給整備という段階がある。

使った消耗機材の補給とメインテナンスである。

専門工場が必要になり、北海道恵庭市にあった

関連会社の敷地に土地を買い足して作った。

毒食えば皿まで、手を挙げて川崎の工場から

70名を連れて恵庭工場に単身赴任したのが、

1月初め。

大きい部屋の、十分過ぎるマンション、新鮮

富な食べ物は美味しいし、好きな材料を買っては

自炊、美味しい店も探していた。

5月になって従業員健康試験をやった。

委託病院は地元の総合病院恵み野病院。

のほほんと受験した僕は、いきなり「即入院」

を言い渡された。

初めて聞いた血糖値というのが500だという。

入院したその日から、病院で朝検診・朝食、自車で

工場出勤、昼は工場から病院に戻り病院食、再び

出社して夕刻退社して病院隣のスポーツセンターで

水泳、病院食、夕検診という生活をした。

別格の勤務だった。

当時の恵み野病院の副院長は佐々木英制先生、

工場医を委託をお願いしていた。

入院が長かったから、ある日呼ばれて副院長の

お部屋に伺がった。

一つ書棚があるだけの広い大きい部屋だった。

話をしながら、本棚にあるいろいろな本の中に

仏教書が多いのに気づいた。

僕にも関心があったので先生と2、3、その頃

聴いていた紀野一義の講話テープ「正法現蔵

隋聞記」の話をして、後ほどテープをお貸しした。

先生が返却とお礼を兼ねてか、先生の札幌徳洲会

病院名誉院長時代の病院研修会で講話された

録音テープから筆録の講話記録([生]と[死]に

ついて)の細字でA4の8ページ余のコピーだった。

知った被りの自分を恥じた。

2020年6月26日金曜日

左手のピアニスト舘野泉さんのこと

   ピアニスト舘野泉さんのこと 
今、国内で話題呼んでいる左手のピアニスト
舘野泉さんとは、一度だけ演奏会の司会を務
めさせていただいた思い出がある。
平成8年1996年11月10日北海道恵庭市民
会館ホールで「舘野泉と素敵な仲間のコン
サート(ノルデックライト in ENIWA)」を
やった。
フィンランドから舘野泉さん、スエーデンから
オーボエのヘレン・ヤーレンさんとフルートの
若いトビアス・キャロンさん、地元北海道の
国際音楽交流協会(ハイメス)のピアノと歌で
あった。
ヒョンナことからその頃の飲み友達、恵庭市の
悪友(博酔会)の近藤春夫さんに司会役を乗せ
られたのだ。
もともとこのコンサートはハイメスと恵庭市の
婦人クラブの主催だった。
その恵庭市側の唯一人の男性世話役だった春夫
さんが司会を持て余して、僕を口車に乗せた。
コンサートは舞台装飾や花束やすべて手作り、
舘野さんのシベリュウスピアノ曲CD販売など
ですべてで140万円位の温かい市民コンサート
だった。
舘野さんの紹介の僕、舘野さんのピアノ演奏、
僕の次曲の紹介、舘野さんのピアノ演奏、小
休止時間の楽屋での短い会話など、無我夢中で
過ごし、何を話したか全く覚えていない。
丁度その日は舘野さんのお誕生日で、フィンラ
ンドから歌手のご夫人と、バイオリニストの
ご子息も、滞在中の札幌から駆けつけられて
暫しの演奏会打ち上げパーティの後、別グルー
プとの誕生パーティに行かれた。
僕はスエーデンのオーボエとフルートの二人
ヘレンさんとトビアスくんを案内して恵庭の町
にあった老舗陶器店の日曜休みを無理に開店
させて二人のお土産を工面したリ、食事に案内
したり大奮闘。
そんなことがあってから、舘野泉さん演奏の
シベリュウスのピアノ曲CDを買い求め楽しん
でいた。
舘野さんは僕と同じ年齢の芸大ピアノ科トップ卒。
直ぐフィンランドに渡り、研鑽されアイノラの
森のシベリュウスの遺品ピアノ演奏を許された
唯一人のピアニストになった世界的な演奏家で
名高い。
平成になってからのある日、片麻痺になった
僕はインターネットで、舘野さんも脳梗塞で
倒れられていることを知った。
ネットで調べてみると、僕が新橋で倒れた年
の2年前に舘野さんは北欧の演奏会ステージ
で倒れられたという。
2002年くらいだろう。
僕が気が付いたころ、舘野さんはピアノ世界
を失って失意のどん底にあったようだった。
左手だけのピアノは、やがてご子息が持ち
帰られた左手だけの演奏曲に希望を見出され、
諸井誠さんらの新進気鋭に左手曲を生まれさせ、
左手だけの新しい音楽性の開発に取り組んで
おられるようにお察しする。
病気でも先輩の泉さんの(諦めない魂)を胸に
刻んで生きよう、と鞭打つ昨今である。

真鍋さんのこと(4)

    真鍋さんのこと(4) 
   最大の心配事  
一難去ってまた一難、ボツホールドさんの
痛手が去ってから、僕も恵庭から離れて
東京勤務になって、北海道に行く機会も
少なくなった。
北海道新聞(道新)の千歳恵庭版紙面の
「せせらぎ」という600字の小さな
エッセイ欄は、道新千歳支局の記者が
監修して、千歳市と恵庭市の市民筆者が
担当を持ち回って書いていた。
千歳市の真鍋達夫さんや、恵庭市の
近藤春夫さんなどのベテラン文化人、
サッポロビール恵庭工場長、キリンビール
千歳工場長、サントリー千歳工場長、近郊
市のアサヒビール工場長など、僕も含めて
20人ほどのライターがいて、それぞれ思い
通りのエッセイを書いていた。
真鍋さんも戦前戦中の海外生活の豊富な
話題を書かれるので、僕も教わることも
多く、真鍋さんの投稿を期待したもので
ある。
僕が北海道を離れても、毎年年賀状の
交換は続けていた。
年賀ハガキいっぱいに、小さな活字で
前年の出来事を集約した独特な年賀状
を毎年貪るように読んだ。
97歳に達したと年賀状にも書いておら
れたが、2017年の正月には出したが、
来なかった。
その前年からか、僕ら夫婦は毎夏に電車
やバスが同ビルから発着する千歳ステー
ション・ホテルに2週間ばかり滞在して、
手押し歩行器を持ってバスや電車で北海道
住人時代馴染みの温泉や店を楽しんでいた。
その年も、真鍋さんのお宅を訪ねようと
思ってはいたが、ホテルから手押し歩行器
で行くには遠く、タクシーで乗り付けるのも
ためらわれた。
一度電話は掛けたが、昼間は応答が無かった
ので、遠慮した。
2018年夏の北海道行きは億劫になり、それ
以来北海道行きは老齢化中止になって、今度
の16年振りの2次発症でカートに乗ったまま
しか行動できなくなって御名御璽。
もう真鍋さんは100歳は越えたと思われる。
安否を問うのも非常識に思われてためらう。
僕は自分自身にもつぶやく「老兵は死なず、
消え行くのみ」そっと時に任せるのみか。

2020年6月25日木曜日

 真鍋達夫さんのこと(3)

     真鍋達夫さんのこと(3) 
    エピローグ 
日本に帰国後、それまでの様に真鍋さんとの
手紙やはがきの交流に、ワシントンからの
ボツホールドさんの手紙が加わったトライ・
アングル交流が続いた。
その間、お二人のいろいろな友情の歴史を知る
ことになった。
敗戦後の進駐軍時代に、ボツホールドさんが
進駐米空軍千歳基地の総司令官であったこと、
語学の達者な真鍋さんが彼の補佐をしてきたこと、
家族ぐるみの友人になっていたこと、ボツホールド
さんが、真鍋さんの奥様が亡くなった時からの
理解者として、心の支えになってきたことなどで
ある。
その後数年経って、僕の会社定年も近くなった
1962年だったか?日本の防衛産業企業協会に
米陸軍退役軍人協会の記念総会への招待が来て、
企業協会も世界の防衛産業会社視察を兼ねる旅程
の最後に、ワシントンのホテルでの総会に参加
することになり、わが社からも僕ともう一人が
参加することになった。
先ず、ロンドンのロールス・ロイス社に始まり、
ロンドンの退役英空軍軍人会への参加、ピサ郊外
の自動車会社、ローマの自動車産業社などを歴訪
の後、米国テキサス州ダラスの半導体社のTI社を
訪ね、ワシントンに着いた。
直ぐに、ホテルからエバーグリーン社の
ボツホールドさんに電話をいれた。
電話口にはボツホールドさんはなかなか出ず
女性が「あなたはどなたですか?」と聞くから、
変だな?と思っていると
「Sorry, He had already passed away 
1ーmonth ago.」
(彼は一カ月前に亡くなりました)と、女性が
答えてくれた。
直ぐに千歳の真鍋さんに国際電話を入れると
「ここの所、音信が無かったが、そうだったのか」
と言われた。
ご存じなかったのだあ。
古今、無常と言うが、パリ以来お会い出来なくて残念。
一行はワシントンのワシントン旧家をたづねた後、
退役軍人会総会に出席した後、一夜サンフランシスコ
のバーでジャズセッションを聞いて帰途についた。

真鍋達夫さんのこと(2)

      真鍋達夫さんのこと(2)
     奇跡的な奇遇 
1989年、パリで世界的な航空産業展示をする
パリ・エアショウがパリのド・ゴール空港で
催されされた。
ソ連がまだ健在で米ソ両国がスペースシャトル
に代表される宇宙開発や、最新鋭MIG戦闘機に
代表されるジェット戦闘機の技術でツバゼリアイ
を演じていた頃である。
代表的な話題の展示はアメリカの宇宙船スペース
シャトル、ソ連の新MIG戦闘機、ソ連の宇宙船を
そっくり乗せて運ぶ超大型空輸機などだった。
当社も国産初の短SAM(地対空)ミサイル(誘
導弾)システムを通じ、ショウに参加するように
なっていた。
飛翔体技術部のKN部長とMK副部長とレーダー技
術部のYD部長と僕が参加した。
広大なド・ゴール空港内の航空機展示や各所での
展示品するをを見て回り、合間にパリ市内で催さ
れる各国各社のレセプションに招かれる。
ある日、二つの会社のレセプションが重なって、
分担しての参加になり、スエーデンのSAAB航空
機社のレセプションの方にKN部長と僕がSAAB
方に行った。
会場は凱旋門のエトワールから、シャンゼリゼ通
りの反対側に下った、ブローニュ森林公園の外れ
地区に借りたらしい、富豪の大邸宅で行われた。
グランドピアノなどが置かれた大きい社交室や、
壁一面にガラス戸本棚に昔のエンサイクロペディア
を思わせる分厚い皮背表紙の本が並んでいる図書室
で、各机に置かれたオードブルやワイングラスを手
に、大勢の紳士淑女たちが談笑している。
日ごろから、早稲田理工出身のKN部長と東大院出身
の僕のYD部長は仲が良いとは言えなかったので、
KN部長は僕を置いて、どこかへ消えていて、僕一人
ワイングラスを手に立っていると、3、4人の男女に
囲まれた白交じり坊主頭の老紳士が、真っすぐ僕の方
へやってきて「君は日本人かい?」と聞いた。
頷くと「タツオを知らないか?」と、トッピな質問だ。
「タツオと突然言われても・・・」咄嗟に真鍋さんの
ことを思った。
しかし内心(まさか、広い日本の中でタツオは一杯
居る、分かるもんか。でも、ひょっとして?)。
「僕の知っているタツオと言う友達は、マナベだけ
ですが?」「イエス、イエス、タツオ・マナベです
よ」「オーマイゴッド! なんだって?! 奇跡だ
パリで初めてあった人が、真鍋さんの名を言うなんて!
貰った名刺を見ると、そこにはエヴァー・グリーン
社の顧問ボツホールドさん、とある。  
エヴァー・グリーン社は世界でも名の知れた、航空
運輸の大企業である。
宝くじが当たったような確率だ。
何を話したか、覚えていないほどショックだった。
ホテルに帰ってから千歳の真鍋さんに国際電話報告
したのは言うまでもない。
真鍋さんも奇遇に驚いた。
翌日の空港では、新しいMIG戦闘機が高速で法線的
垂直に上昇し、ほぼ頂点で垂直の姿勢で停止し、一
瞬翻って降下向きに反転し、高速で急降下するという
超高耐Gの対地攻撃の離れ業を見せた。
しかし、僕らがパリを去る日にニュースでこの飛行で
失敗してMIGが地面に突っ込んだという大事故を伝え
ていた。

2020年6月24日水曜日

真鍋達夫さんのこと(1)

    真鍋達夫さんのこと(1)
  奇跡の出会いのプロローグ
千葉の四つ街道という町はずれに、陸上自衛隊高射
学校がある。
戦後アメリカからホークという対空ミサイル供与を
受け、これを運用する生徒の教育を担う。
初期には、多くの自衛隊員が技術習得に渡米して
学んだ。
その頃の為替は、1ドルが360円というほど日本が
貧しかったから、学生たちのアメリカでの生活も苦
かった。
その時カルフォルニアで医師だったDr.古賀が影に
日向に学生たちを自費で助けたという。
高射学校の入り口左横にはDr.古賀の胸像がある。
お世話になった感謝を学生たちが捧げたのだ。
その頃、僕は高射学校に導入されていたL-90高射砲
システムの人力可搬型対空捜索レーダーの改良を
手掛けていて、よく出張していた。
その後、国産初の地対空短距離ミサイルシステムの
技術開発試験に北海道千歳市の空自基地に毎年の
ように通っていて、千歳基地の基地祭に招かれるよう
になっていた。
基地祭には米軍関係者や提携先のカナダ・バンクー
バーのミス・カナダ勢も大挙招かれて参加していて、
千歳市民も町を挙げてビール祭りを催し、第2空団
本部がある松島基地のBlue Impulse 飛行隊の展示
飛行もあった。
その中でバンクーバーのミス・カナダ一行をエスコート
して参加していたのが真鍋達夫さんだった。
東京外大のスペイン語科を戦前卒業され、商社の
ボリビア支店に行っておられて、戦時中の敵国日本人
が捉えられてカルフォニアの強制収容所に閉じ込められ
ていたということはよく知られている。
英語も堪能な真鍋さんも、大戦中の収容所でDr.古賀と
入魂になっていた。
運命の糸は思わぬいたずらをする。
僕は、その真鍋さんと千歳基地の航空祭ですっかり仲良
になり、真鍋さんの戦中の記録が掲載されていた
週刊誌特集を見せてもらう機会が出来たのだ。
そして僕の知っていた高射学校のDr.古賀の胸像の話を
伝えるに及んで、すっかり意気投合して以来、親子以上
に先輩の真鍋さんと深い付き合いになり、北海道新聞の
恵庭千歳版のエッセイ・グループに参加したり
札幌狸小路の、小さなフラメンコバーでフラメンコ・
ダンサーたちとスペイン語で歌ったり、
本格フラメンコを見せて貰ったりしたものである。
僕はスペイン語はだめなので、スペイン語の名曲は
丸覚えで歌った。
真鍋さんのその頃の本業は、千歳の町はずれの有名
だった本格的な西洋料理のマナベ・レストラン経営者
だった。
ご尊兄は千歳市の医者で有力一族だ。
程なく、高齢化でレストランを畳まれ、90歳を超えて
もなお、札幌でスペイン語学校で教育をしておられた。 

2020年6月23日火曜日

やっぱりモーツアルト

今朝4時前、起き抜けに用を足して、
PC見たらバッテリー灯点滅。
昨夜切らずに寝たらしい。
ブラウザを開いたらyoutubeのテロ
ップ。
デトロイトの市民アンサンブルだった。
気分が乗らないのでモーツアルトの
軽やかなモノをと、行きついたのが
韓国Sonの#21K467, 馴染みが無いSeoulQESというアンサンブル。
Leeという若い人の指揮。
自分はソウル生まれなのにハングルが
全く駄目だから、ハングルを見ただけで
ジンマシン。
ケド、Sonさんのピアノは良かった。
ヨーロッパでの演奏youtubeは何度か
聞いたが、地元ソウルでの演奏は、
また自信が見えた余裕の演奏に見えた。
アレグロ・ビバーチェ・アッサイ、
ヨカ、ヨカ !

2020年6月22日月曜日

今朝はベル響・アバドのベートーベン交響曲#7

朝早くと言うか、深夜と言うか目覚めて
用をやっと済ませて寝着かれずPCを
入れたらまたyoutubeテロップ。
ベルフィル2001年のクラウディオ・
アバドでベートーベンの交響曲#7。
アバドの額を見ると、大学でメンネル
コール部で指揮した同室で、ラ・サール
出身の故釜三夫君を思い出す。
小倉魚町外れというか室町入り口というか、映画館前にあった音楽喫茶コロンビア
で、交響曲を聴きながらタクトを振って
いた。
新日鉄入社、転じて高専教授。
音楽の道に進みたかったんだろうなあ。
学生結婚の音楽の先生の奥さんを残して
早世。合掌!

2020年6月20日土曜日

今日はアリス・サラ・オットーのベートーベンPC#3

珍しくフランス放送交響楽団
ピアノ・コンチェルト#3
の演奏が飛び込んで来たので、
聴いた。
ピアノは、初めて聞いた
アリス・サラ・オットー
という日本人に似た風貌の
美女ピアニスト。
フランスとドイツのコン
サート雰囲気はかなり違う
ように見受けた。
ピアノのサラは、若い割には
堂々としてオーケストラを
リードしていた。

2020年6月16日火曜日

処方薬が切れる

新たな後遺症で、階段がある医院に

薬処方や診察に行けなくなった。

遠くの医院には近所の家庭医にバト

ンタッチをお願いする(手紙を投函)

近くの家庭医は階段はあるが、車椅子

スロープがある。

しかし、前回試したら登りは行けたが、

下りはスロープの曲がり角に植え込み

花壇がせり出していて、カートの回転

には余分だ。お願いしたいが・・・。

カートはまだ世間にはぜいたく品だと

思われているようだが、車椅子を押し

てくれる人が居なくなる時代、必需品

になること間違いないのに。

2020年6月14日日曜日

今日はアルゲリッチのベートーベンピアノコンツエルト#1

今日は朝からyoutubeのテロップが

飛び込んで来たので、乗っかる。

マルタ・アルゲリッチのピアノと

ガロッタ指揮のネーザーランド

(オランダ)響のベートーベン・

ピアノコンチェルト#1。

我を忘れて楽しんだ。

アルゲリッチ(僕はアルゲリッヒ

との発音が好きだが)さんは若い

ころは大型の鬼才の美女の風貌だ

と思っていたが、年は取っても

鬼気迫るような知的な風貌は変わら

ない。

内田光子と年は違うだろうが、よく

似て来たと思う。


2020年6月12日金曜日

久しぶりアルゲリッチ・デトア・N響・ショパンピアノコンチェルト1番

今日は何カ月振りかのケアマネ田中君が来た。

実直な若者で僕の介護保険は保険金詐欺論を


聞いてくれる。


今までは、実際にデイケアやリハビリサービ


スを実際に受ける羽目になろうとは思ってい


なかったので、持論も机上の空論に過ぎな


かったが、実際に身に利用が具体的に迫って


いれば、呑気なことを言っておられない。


安倍政権で捻じ曲げられた介護保険は当初


の理想像から、後出しジャンケンを使って


大きく逸脱して、保険金詐欺になってし


まった。


年金が少し他の人より多いからと言って、


介護保険のサービス利用料を3割負担に


追いやった。


例えば電動カートの介護保険を利用する


レンタルは、僕の使っている機種の場合、


月額2100円であるのに、年金が3倍も


あるわけでもないワシに月6300円の


3割負担を課している。


介護保険が発足した当時は、3割負担


なんてなかった。


詰まりは、政権の後出しジャンケンで


保険金詐欺である。


並みの人が一日デイケアサービスを


1500円で受けられるのに、一日4500円


も払わないと受けれれない。


こんなベラボウな差別が行われて平気な


のだ。


ワシがこんなに困っていても高い介護保険


掛け金を払わせておいて、介護保険サービス


を事実上受けられないのは、介護保険詐欺


だと断定できる。


政権は自分の身の回りは疑惑だらけなのに、

民の困窮の様子には無関心な政権を許せない。


腹いせに、youtubeでアルゲリッヒとデトアの


N響のショパンのピアノコンツエルト第1番を


聞いた。


3年前の演奏だったが、30年も前にtoshiba


レコードを買ったアルゲリッヒがここまで


老練するとは感無量だ。