2013年10月24日木曜日

リベラル会社の仲良し仲間

 会社生活の中、大半を短SAMという防衛機器の開発、実装、装備、展開、維持など、言わば機器の一生を見て関わってきたことは、大袈裟な表現だが、技術者にとって冥利に尽きると言える。
 国の大プロジェクトで、自分たちがメインになってベンダー各社の協力があっての成功は、無論嬉しいが、定年になって会社を離れてみると、もっと大切なことがあったことに気付く。

 
一緒に戦ってきた仲間たち、言わば戦友たちとの出会いと交流が伏流として綿々と続くことである。
その一つは今も毎年50人を超す出席者で続いている東芝GM同窓会だ。

 僕にとって、もっと大切なのが四人衆仲間だ。
一番年上は理科系オタクの自分だが、入社の一年先輩営業畑のYさん、彼に続く5,6歳後輩の営業畑のKOさん、更にその後輩のKWさんは若い時、僕の部下から営業畑に転出し、今も会社現役である。
一緒になって戦ってきた経過を共有しているからだろうが、気が合うのだ。
 
 

 赤ちゃんで満州撫山で敗戦を迎えたKOさんが定年になる頃、「生まれ故郷を見たことない」とボヤく彼を皆で連れて行こうとのYさんの発案で、大連から哈爾浜(ハルビン)まで1週間の列車旅をした思い出もある。
生まれ故郷の撫山で、石炭露天掘りの大鉱山の地底から湧き上がる霧と石炭貨物列車の汽笛が印象深かった。
 

小山敬三の奥さんルイーズさんの横顔を模したと言われる美術館


 
あれから幾星霜、この度は、レンタカーで未だ未踏の信濃追分のYさんの広い森に囲まれた別荘に行き、そこを起点に草津温泉、標高2000m級の万座温泉の紅葉を訪ね、小諸に下って島崎藤村ゆかりの温泉宿・中棚荘に泊まった。
藤村が滞留した昔ながらの風情を残す、名物女将のいる懐古園隣接の千曲川河畔の宿である。
亭馬(チンバ)の自分には堪える急な階段や、天上湯と称する露天岩風呂に至る石段には参ったが、皆の助けで何とか転げ落ちずに済んだ。

翌朝、Yさんの勧めで、近くの小諸町立・小山敬三美術館を見学した。
Yさんが言うように、湯河原の中川一政の画風も備えている。
が、小山敬三はパリの画学校を出た、ある意味では日本の異端の画家だし、中川一政は画学校の経験がない異端の画家だから、共通する自由な雰囲気があるかもしれない。

その後、「牛に引かれて善光寺参り」伝説の山奥の布引観音をレンタカーで遠望することができた。
対岸の地蔵堂?から望む布引観音堂

2013年8月28日水曜日

海と空を見つめた日々

海と空を見つめた日々が懐かしい。
朝起きて宿で朝食を食ってから、レンタカーに分乗して海岸の部隊の射場に向かう。
太平洋に面した射場は左手遠く向こうに小さな漁村が見え、右手向こうは車道の他は無人の岬が見えた。
幅1km、奥行き数100mほどの砂の土手に囲まれた砂浜射場域の向こうは、急な下り土手で波の寄す渚に下っている。

計画した射撃は幾つかの条件が整のう必要がある。
@沖合に船や航空機がいないこと。
@目標の無人標的機の回収する船が安全に出港できる波高であること。
@無人標的機の準備が整っていること。
@全試験機材の準備が整っていること。
つまり、準備ができても沖合に貨物船が現れると通過するまで待つしかないし、沖に白波が出ると待つ、機材不備があるとその担当以外は待つのみだ。
そんな時は、ひたすら本を読むか、空と海ばかりを見て過ごすしかない。
空と海に長い時間向き合って過ごすのは、ここでの時間か、クルーズかしかない貴重な時間だったことに後から気づく。

2013年7月13日土曜日

北海道奥尻島大津波20周年

昨日7月12日は北海道奥尻島の大津波の20周年だと、報道各社が伝えている。

もう20年になるんだあー!あの夜の記憶が蘇る。
TDTの常務取締役北海道工場長の肩書きで北海道恵庭に作った工場に赴任した年だった。
ちょうどその時は、親会社の 社のアンテナ工事応援に奥尻島にTDT社の社員計11名が出張していた。
地震と津波の情報があってから家で飛び起きてから、電話で情報集めに躍起であった。
出張員の安否が心配だ!親の社の人たちも元はと言えば同僚だ。
朝方になって、ようやく社員の全貌が掴めてきた。
出張員たちは、僕も泊まったことがある港を見渡す正面にあったホテルに泊まっていた。
食事が終わってから、仕事で借りたレンタカーで、埠頭の先端に釣りに行っていたらしい。
夜10時頃、大きい地震があった。
慣れていないので埠頭で、まごまごしていた時、誰か(地元の人だろう)が「津波が来るぞう!」と叫んだと言う。
全員レンタカーに飛び乗って、海岸に走った。埠頭のコンクリートがさっきの地震で割れている!
レンタカーを捨て置いて、全員割れ目を飛び越えて、ホテル脇の路地坂を走って高台に逃げた。間一髪、レンタカーは流されたが全員無事だった。
港の機能は全壊、ホテルも全壊、特に僕らが行ったことがある奥尻島の南端・青苗地区は何十メートルもの津波と火災で報道されたとおりの惨状だった。
出張員の全員無事を喜んだ出張員まとめ役のOG君は、その後急病死してしまったが、あのときの様子を嬉しそうに話す笑顔が忘れられない。

2013年6月30日日曜日

今年も同窓会

GM同窓会があった。現役の若手から80歳台のシニアまで、会社の技術部の同窓会というのも珍しいのではなかろうか。しかも、数
少なかった設計補助員の女史2名を含め50人も集まるのだから凄い!
80歳の昔部長だったシニアも、現役時代は随分と激論を戦わして軋轢もあったが、今は偉ぶらないのをはじめ、みんな平等だ。
歴代の幹事チームが 今年もやってくれて、来年からもやるかどうかのアンケートをとったら、全員が存続希望だというから愉快だ。

老いも若きも現役中は新島や北海道静内などに技術試験で同じ釜の飯を食ったし、部門的には会社でも特異な部だったから、団結意識も強かったのだろう。
しかし、何と言ってもリーダーたちの頭の良いリベラルな人格がモノを言っているのだろうと思う。
防大出身のメンバーも含め、みんな上品だ。
会場の崎陽軒の担当・接待の男女の方たちも、格段のマナーに驚くほどで誇らしい。手前味噌ながら、さすが東芝といって良い。

今年は開発の当初から20年以上経つ機材の現状までの様子をスライドで説明したり、歴史クイズを作って、優勝チームには特別料理が振舞われるなど、さすが幹事チームと唸らせる。

2013年6月5日水曜日

思い出・新田原基地(宮崎県)

  自衛隊航空基地の防空の一つに、短SAM地対空ミサイルシステムを開発中の話だ。
我々の担当するFCS(射撃管制装置)のレーダーは侵入して来る対地攻撃ジェット戦闘機などの目標航空機を、遠方で発見し、ミサイル射程内に入るまで追尾し、射撃(撃つ)管制をする。
 昔は目標を捜索するレーダー、目標を追尾するレーダーが別々に必要だったが、今では機械的にはアンテナを固定していても、電子的にアンテナビームの向きを制御することにより、1台のFCSで捜索・追尾・射撃など多機能をやってのける。しかも、多目標に対してである。
 昔ロンパリ眼といえば、右目がロンドン、左目がパリを向いているようにミサイルを同時に右左2機の目標に発射することもできる。

 目標機が進入するときは、なるべくレーダーの死角を狙って低空を飛行することも多い。
レーダーはクラッターといって、レーダービームが低空に向いた時に拾う地上反射信号が目標機からの反射信号と交じり合うので、目標検出・追尾が難しくなる。
しかも追尾(トラッキング)モードでは、目標機飛行コース空間の中に点在するのだ

 この機能をジェット実機の飛行で確認する飛行試験を航空自衛隊新田原(九州ではこれをニュータバルと読む) 基地で行った。
ジェット機を1マッハ近い高速で低空を飛ばすのはただでさえ難しいのに、低空を飛ぶ時の人家への影響もあり、基地のI-1佐司令が、自ら飛んで下さった。

 我々は、基地の滑走路の奥の外れに機材を設置し、脇にハットメントという名のレンタルの計測小屋に計測器を並べて計測する。

 確か、梅雨時で、低空飛行が可能な視界と、基地の運用スケジュールとの調整や、我々の機材の状態との調整の他、あの年は日向灘近海でのジェット機事故があって航空停止などがあって、わりあい長い間、JR新田原駅前の旅館に滞在した覚えがある。

 ある日、試験中のレーダーの前方から、1mはあるかと思われる、まあるい酒屋の軒の杉球のような物体が、ふわふわと飛んで来た。
何かと思ってよく見ると、ミツバチが固まりになって飛んでいるのだった。
飛んでいく先には、レーダーもあり、運動場の側に植えられた南国風な街路樹もあり、止まりそうでも止まらない。
あれよあれよと見ている間に、講堂の向こうまでヨタヨタと飛んで行った。

後で聞くと、あれがミツバチの分封で女王蜂と共に、集団分離したのだと言う。
ミツバチたちに新しい巣箱を用意してやると、また蜜が採れる。

2013年5月21日火曜日

RCAT(2)

RCAT(2)
L-90のような高射(機関)砲の標的に使う場合は、RCAT本体を目標にすると撃たれて壊れるのを防ぐために、RCATの後ろに長いロープで射撃目標板を曳航させて、これを目掛けて撃つ。
この目標板は実機に近い大きさが有り、且つRCATで曳航できる位の空気抵抗のものだから、軽いメッシュ構造であろう。弾が貫通したことをカウント出来る必要もある。

誘導弾(以後Misslie=MSLと言う)の場合は、射程によって違う。
短SAMと呼ぶ射程が比較的短いMSLの場合の目標板は、当然誘導方式により異なる。
イメージ(可視域や赤外域)方式、赤外方式などの誘導方式に適うものが必要になる。
しかし、実機に近い特性が無ければならないからイメージの場合は実機に近い大きさ、赤外の場合は実機のエンジンが発生する赤外線量が必要になり、速度も実機に近くなるから、標的機が破壊される確率は高くなる。
MSLがアタル確率は、直撃だけでなく、MSLの近接信管(これも方式が色々ある)が作動する範囲に入ったか、で判定される。
だから、高価な標的機も”命がけ”になる。

ある時から、北海道の静内にある特科連隊の対空射撃演習が公開されるようになった。
RCATを使ったL-90高射機関砲や短SAM・MSLの実射撃を視察に多くの報道陣が集まった。
静内対空射場は太平洋に南面した砂浜にあり、両脇には漁港を抱えている、多くの基地がそうであるように、気を使う場所にある。

その日、空はどんよりしていていたが、射撃終了後RCATをパラシュートで回収する協力漁船の準備もOK、沖を航行する貨物船も無く海上の安全もOK、FCS(射撃管制装置)、LCH(ランチャー)、MSLすべて準備OK、でRCATは発進した。

予定どうり、目標RCATはFCSに捕捉され、追尾され、MSLは発射された。
轟音とともに、マッハを超えるスピードで目標との会合点に向かって飛んでいく。沢山のカメラもそれを追う。
数秒後、計器は命中を知らせた。近接信管が作動したことを知らせたのだ。
 
RCATは約25k近接信管命中によりRCATがコントロールを失った。向かって右手の方向へ飛んでいった模様。
ヤバイ!静内漁港か静内川の河口や静内の町がある!
程なく部隊に静内川の河口付近に墜落RCATを発見の連絡があり皆ホッとした。

夕方のNHK・TVニュースで、命中直前までのMSLの順調な飛翔を追った映像が出ていた。
さすがNHKカメラ!沢山の報道陣の中でこの視界が良くない条件で追尾できたのは、NHKだけだったとか。
部隊へスクープで有名だったF社の記者が、命中に疑義を唱えて何度も食い下がったと聞く。
矢張り、カメラ追尾が出来なかったからであろうか。

2013年5月7日火曜日

ラジコン無人標的機 RCAT

RCAT(1)
対空火砲や対空ミサイルの射撃訓練や射撃試験には標的になる標的飛行体が要る。
昔も今も、高射砲の訓練には架空線に吊り下げたり、棒の上に取り付けて人が持って走ったりする模型飛行機などを使う。
標的機の大きさは実物が距離によって作る視角とほぼ同じになるようにする。
遠くにある標的機は小さくなるという原理だ。当然安く作れるが、動く模型や飛行体を標的機として用意するのは大変だ。
インターネットから

アメリカには太平洋戦争の時、既に無線操縦の無人標的航空機があった。例えば戦後日本にも導入されたアメリカのL-90という高射砲の射撃評価をするためにもRCAT(Radio Controlled Air Target) という無人航空機が導入された。
よく言われているのは早い話自動車カローラ級の馬力のエンジンを積んだ(もちろん飛行機だから空冷だが・・)プロペラ機で、胴体の長さが4m弱で翼幅全長が3.5mである。
この機の発進は初めの頃は、丸い滑走路を作ってワイヤーでRCATを滑走路を走らせ、予定の速度に達したら、砲丸投げのように、タイミング良くワイヤーを外して、目的方向に飛ばす。
この発進方法は危ないし、場所が要るので、今はカタパルトで打ち出す方が多いようだ。
飛行距離は最大50kmくらいだといわれ、回収はパラシュートで海上や陸上に降ろす。 

RCATは低速標的機と呼ばれるが、CHUKAR-3と呼ぶジェットエンジンを積んだ翼幅が2m弱の高速標的機もある。 

技術試験や発射試験に労務借り上げで参加した僕たちは、この可愛い無人機を見て過ごしたから、これにまつわる話も尽きない。



 

2013年4月24日水曜日

抗火石遊び


抗火石という石は伊豆の新島特産の火山性の石である。ガラス質の砂礫が軽石のように集合しているから、比較的軽いし大谷石のように加工し易いから新島では家の建築に多用されている。
垣根にはブロックのように積んで使っている。
燃えることが無いので、火事にも強いから、全国の海辺の町が度々の大火に見舞われているのを見ても、その重宝さは計り知れないと思われる。

新島の抗火石の家  
また、新島では南米のイースター島のアモイ像のように、抗化石を刻んで手軽に彫刻が楽しめる。
抗化石の石切り場は、島の西南岸にあって長年採石した結果屑石が高台の採石場から海に向かって傾れ落ち様を呈している。

石は柔らかい上に水はけも良いので、手ごろな石にいろいろな形の窪みを彫って、苔などを植えると手ごろな箱庭みたいな面白さが楽しめる。
新島には天然の”えびね”があり、中でも”においえびね”が重宝されているから、昔は売られていたと聞く。今は、天然記念物か何かに登録されていて採取も島から持ち出しも出来ないようだ。

新島の南端の岬に、防衛省の技術研究所のミサイル・ロケットの試射場があって、短SAMが技術試験段階にあったころ、技術試験の労務借り上げで新島に出張したわれわれは、朝から晩まで、何日も、発射の合間の待機をした。

ミサイルを発射する方向に貨物船が航行したり、風や波が出て標的の無人航空機の回収船が出なかったり、機材の条件が整わなかったり、千葉方向から三宅島付近の漁場に向かう漁船の群れがあったり、何かと待機が多かった。

その間、あちらこちらの機材に張り付いている試験員は、手持ち無沙汰になる。
最初の内は、目の前の海原を見たり、遠くの三宅島や、隣の式根島を眺めたりしていたが、誰かが抗化石のかけらを拾ってきて、これを彫刻するという遊びが流行りだした。
岬自体が抗化石に近いガラス質の砂からなっているから、石ころは沢山あったし、トラックで山に来る途中でも、無尽蔵に転がっていた。
海を眺められ、突端に灯台も見えた(この灯台は海の浸食作用で岬が後退し、建て替えられたようだ)岬の試験場の中に座って、せっせと抗化石を刻んで、思い思いの像や、鉢を作って過ごした。
今でも、そのころの抗化石の作り物が庭先に転がっている。

2013年4月14日日曜日

378Q会

1962年(昭和37年)の無線機技術部レーダー課には、学卒が6人も配備された。
当時としては珍しいことだった。
昭和34年に1人入社しただけだったのだから。
ある大きい国の防空プロジェクト受注に参加予定だったのだろう。
昭和38年には3人だったし、39年には1人であったことを見ても、新入社のものにも受注に敗れたとわかる。その後はまた暫らく配属はなかった。

そのころは、日本にもレーダーを開発する腕のある会社は少なかった。皆、駆け出しレベルだったと思う。
米軍が持ち込んだレーダーを見本にMITのレーダー教科書”Rader Handbook”を参考にして技術習得に励んだ。 

同じ課に新入生が6人も居て、仕事が少ないとなると、上長は困っただろう。
牧野課長を筆頭に主任が1人、総勢30人くらいだったろう。
当然、気象レーダー、空港管制レーダー、くらいに大雑把に分かれて配属されたが、まだ手がけたレーダーも数少なかった。米軍が持ち込んだレーダーサイトのFPS-20捜索レーダーや測高レーダーの維持管理は設計製造元のGE社が提携した下請け会社が引き受けていた。
夥しいマニュアル類はconfidencial(秘)が多く、特別の扱いだったのだ。

ともかく、6人居れば集まっては酒を飲んだ。当時葉山の森戸神社横に「はやま荘」という3階建ての?鉄筋コンクリートビルの保養所があって、5時に会社仕事を終えてから電車に飛び乗り横須賀線逗子駅に行き、バスでアブ鐙摺海岸や葉山マリーナを通って森戸神社前バス停に7時ごろ着いた。それから宴会をして、翌朝は朝6時ころからバスで逗子駅に行き逗子始発の横須賀線で会社に行ったものだ。

そんな訳ありで、37,38,39年仲間は固まって動いたせいか、会社定年後も毎年同窓会をやる。
そのころの優秀な女子事務員も加わって、今年も10人の同窓会を横浜駅ビルの店でやった。


2013年4月9日火曜日

北海道静内での試験初期のこと

GMの試験は技術研究所の研究段階が新島で、装備段階での発射を含むシステムの試験が日高地方の静内で行われた。
ここで試験が行われるにあたっては、矢張り地元の意向が大きく影響するから官側のご努力は筆舌に尽くしがたい。
道知事がそれまでの自民党寄りの方から、革新系の横道さんに変わった直後だったし、読めない事が多かったのだろう。
静内は馬の市で名を馳せていて、懐に札束を呑んで静内入りをする博労が町に溢れるという噂があった。
会社の人間が官側に協力して技術労務借り上げで、町に入ると、最初の頃は、博労の人たちと同類に見られるなど珍しかったのだろう。
要らぬ摩擦を避けるため、最初は宿を静内に取らず、お隣の新冠(ニイカップ)の民宿を選んだ。
ここには書けないが、色々な”隠遁の術”を労したものである。

次第に静内の連体の方々と共に町に溶け込んでいる今になっては、笑い話の思い出になってしまった。
あるときは、日高山脈で北海道銀行のVIPが山で遭難されたとき、静内駐屯地が救難ヘリの離着陸地になって、報道陣の興味を引かぬように、発射試験装備にカムフラージュネットを被せたりしたことがあった。

年々、次第に報道陣や地元の人たちを官側が招待するようになって、理解が得られるのはすばらしいことである。

2013年3月31日日曜日

あわや大事件に

短SAMの技術試験は技本(技術研究本部)の労務借り上げとして、毎年9月ごろ発射試験に参加した。
 ミサイル班、FCS(射撃統制レーダー装置)班、LCH(ランチャー発射機)班などに各社が編成して、各社が各々旅館や民宿など宿舎を調達したものだ。
 短SAMロケット単独の発射試験期を過ぎ、標的機を使うシステム試験期になった初期(初めての)には、新島のふじや旅館を使った。
何しろ大人数で、島全体に100名を越すくらいの人数が集まったから、食料をほとんど外部から輸入しているような島としても、大問題であったであろう。
 もっとも、その頃は汽船に乗って新島にキャンプに行くのが流行りはじめた頃だから民宿も増え始めてはいた。
 試験の余暇(朝夕など)には船着場の突堤で魚釣りが流行った。年によって違ったが、その時はアジやサバが釣れた。くんが、大きいフグを釣ってきた。いわゆる料理免許の要るトラフグではないようだった。彼は器用で好奇心も強く、旅館の調理場の包丁を借りて、「大丈夫大丈夫、肝は取るから」と慎重に捌いて刺身にした。宿の大皿に盛って、部屋の酒盛りのツマミに「うまいうまい」と食べてしまった。
 しばらくして、「唇が痺れるような気がする」と言い出す人が出てきた。だんだん多くなって、ついには部長の耳に入るところとなった。
 部長は仰天して、全員を集め、「以後釣りはまかりならん!」と説教した。
説教で済んで良かった!フグ毒で死ぬところだった!

2013年3月13日水曜日

東芝GM同窓会

2012年11月に投稿して以来、しばらく投稿を休んでしまった。
別に体調が悪いということではない。話題を昔の仕事について語るとしたから、話題が見つからなかっただけである。
「去るものは日々に疎し」である。話題をもっと広くすることにしよう。

今年も7月に東芝GM同窓会 が開かれる。昨年と同じく横浜駅東口前にある崎陽軒本店である。
日取りも去年から決まっていて、2013/7/7(日)である。
この会はわが国で独自に開発した国産短距離地対空誘導弾システム に端を発する(株)東芝誘導弾システム(GuidedMissileSystem)開発に関わった全部門のOB懇親会で、毎年同窓会を始めて今年で7,8年になる筈だ。いまだに毎回現役の面々を加えて結婚披露宴賀出来るような広い会場が一杯になるほど集まってくれる。
長い期間東芝をメインコントラクターとし飛翔体(ロケット)の川崎重工、(ランチャー)の富士重工、(ロケットエンジン)の日産、(ミサイルシステム、発射統制レーダー装置FCS、ランチャー)の東芝、(レーダー部分装置)の富士通など、各社が共に開発をし新島や北海道の発射試験を技本、自衛隊の人たちと、それこそ寝食を共にしてきた仲間意識が強いということもあるだろう。 
営業部門も含め、東芝の関係OBの会だけで続いているのである。