2013年4月24日水曜日

抗火石遊び


抗火石という石は伊豆の新島特産の火山性の石である。ガラス質の砂礫が軽石のように集合しているから、比較的軽いし大谷石のように加工し易いから新島では家の建築に多用されている。
垣根にはブロックのように積んで使っている。
燃えることが無いので、火事にも強いから、全国の海辺の町が度々の大火に見舞われているのを見ても、その重宝さは計り知れないと思われる。

新島の抗火石の家  
また、新島では南米のイースター島のアモイ像のように、抗化石を刻んで手軽に彫刻が楽しめる。
抗化石の石切り場は、島の西南岸にあって長年採石した結果屑石が高台の採石場から海に向かって傾れ落ち様を呈している。

石は柔らかい上に水はけも良いので、手ごろな石にいろいろな形の窪みを彫って、苔などを植えると手ごろな箱庭みたいな面白さが楽しめる。
新島には天然の”えびね”があり、中でも”においえびね”が重宝されているから、昔は売られていたと聞く。今は、天然記念物か何かに登録されていて採取も島から持ち出しも出来ないようだ。

新島の南端の岬に、防衛省の技術研究所のミサイル・ロケットの試射場があって、短SAMが技術試験段階にあったころ、技術試験の労務借り上げで新島に出張したわれわれは、朝から晩まで、何日も、発射の合間の待機をした。

ミサイルを発射する方向に貨物船が航行したり、風や波が出て標的の無人航空機の回収船が出なかったり、機材の条件が整わなかったり、千葉方向から三宅島付近の漁場に向かう漁船の群れがあったり、何かと待機が多かった。

その間、あちらこちらの機材に張り付いている試験員は、手持ち無沙汰になる。
最初の内は、目の前の海原を見たり、遠くの三宅島や、隣の式根島を眺めたりしていたが、誰かが抗化石のかけらを拾ってきて、これを彫刻するという遊びが流行りだした。
岬自体が抗化石に近いガラス質の砂からなっているから、石ころは沢山あったし、トラックで山に来る途中でも、無尽蔵に転がっていた。
海を眺められ、突端に灯台も見えた(この灯台は海の浸食作用で岬が後退し、建て替えられたようだ)岬の試験場の中に座って、せっせと抗化石を刻んで、思い思いの像や、鉢を作って過ごした。
今でも、そのころの抗化石の作り物が庭先に転がっている。

2013年4月14日日曜日

378Q会

1962年(昭和37年)の無線機技術部レーダー課には、学卒が6人も配備された。
当時としては珍しいことだった。
昭和34年に1人入社しただけだったのだから。
ある大きい国の防空プロジェクト受注に参加予定だったのだろう。
昭和38年には3人だったし、39年には1人であったことを見ても、新入社のものにも受注に敗れたとわかる。その後はまた暫らく配属はなかった。

そのころは、日本にもレーダーを開発する腕のある会社は少なかった。皆、駆け出しレベルだったと思う。
米軍が持ち込んだレーダーを見本にMITのレーダー教科書”Rader Handbook”を参考にして技術習得に励んだ。 

同じ課に新入生が6人も居て、仕事が少ないとなると、上長は困っただろう。
牧野課長を筆頭に主任が1人、総勢30人くらいだったろう。
当然、気象レーダー、空港管制レーダー、くらいに大雑把に分かれて配属されたが、まだ手がけたレーダーも数少なかった。米軍が持ち込んだレーダーサイトのFPS-20捜索レーダーや測高レーダーの維持管理は設計製造元のGE社が提携した下請け会社が引き受けていた。
夥しいマニュアル類はconfidencial(秘)が多く、特別の扱いだったのだ。

ともかく、6人居れば集まっては酒を飲んだ。当時葉山の森戸神社横に「はやま荘」という3階建ての?鉄筋コンクリートビルの保養所があって、5時に会社仕事を終えてから電車に飛び乗り横須賀線逗子駅に行き、バスでアブ鐙摺海岸や葉山マリーナを通って森戸神社前バス停に7時ごろ着いた。それから宴会をして、翌朝は朝6時ころからバスで逗子駅に行き逗子始発の横須賀線で会社に行ったものだ。

そんな訳ありで、37,38,39年仲間は固まって動いたせいか、会社定年後も毎年同窓会をやる。
そのころの優秀な女子事務員も加わって、今年も10人の同窓会を横浜駅ビルの店でやった。


2013年4月9日火曜日

北海道静内での試験初期のこと

GMの試験は技術研究所の研究段階が新島で、装備段階での発射を含むシステムの試験が日高地方の静内で行われた。
ここで試験が行われるにあたっては、矢張り地元の意向が大きく影響するから官側のご努力は筆舌に尽くしがたい。
道知事がそれまでの自民党寄りの方から、革新系の横道さんに変わった直後だったし、読めない事が多かったのだろう。
静内は馬の市で名を馳せていて、懐に札束を呑んで静内入りをする博労が町に溢れるという噂があった。
会社の人間が官側に協力して技術労務借り上げで、町に入ると、最初の頃は、博労の人たちと同類に見られるなど珍しかったのだろう。
要らぬ摩擦を避けるため、最初は宿を静内に取らず、お隣の新冠(ニイカップ)の民宿を選んだ。
ここには書けないが、色々な”隠遁の術”を労したものである。

次第に静内の連体の方々と共に町に溶け込んでいる今になっては、笑い話の思い出になってしまった。
あるときは、日高山脈で北海道銀行のVIPが山で遭難されたとき、静内駐屯地が救難ヘリの離着陸地になって、報道陣の興味を引かぬように、発射試験装備にカムフラージュネットを被せたりしたことがあった。

年々、次第に報道陣や地元の人たちを官側が招待するようになって、理解が得られるのはすばらしいことである。