2021年11月17日水曜日

(98)リハビリ日記㉑ 訪問歯科診療 

  前々から、駅前のIU歯科医院に通


っていた時、院内ポスターに「歯科の


訪問診療案内」があって、他人事と思


って漠然と眺めていたが、こんなに直


ぐ自分事になるとは!


 長年通っているその歯医者さんは


東京医科歯科大出身の院長以下、その


後輩たちが診療する診療台が4台ほど


並んだ完全予約制である。


 院長先生は大声の歯にモノ着せぬ言


い方のガラッパチ先生に見えるが、腕


の確かな先生だと見える。


それが証拠に、弟子の先生たちも仲が


良く、腕が良い。 


経験上、処置した虫歯、入れ歯は問題


が残ったことがない。



 最近の脳梗塞再発で歩けなくなった


上、構音障害とこれに伴う誤嚥現象が


出た僕は電動車椅子から降りて歩くこ


とが難しい。


団地にあるその歯科は玄関直ぐに框(


カマチ=床の先端)の床で、カートで


玄関先に行けても床の診療台に辿り着


けない。


 歯科医院を変える案もあろうが、長


年のカルテがある歯科を代えられない。

 


 初めて本日、従来からの担当である


長坂女先生と助手さんが診療に見えた。


 パソコンに入れた想定問診を合成音


で読み上げてくれるソフトで、虫歯状


況の話を聞いて貰って診療が始まった。


 診療の基本のレントゲン撮影はどう


するのだろうと心配していたが、僕が


魂消たことに工具箱程度の大きさの女


先生が持ち上げることが出来る重さの


簡易レントゲン撮影機があるのだ!


 19世紀末にレントゲンがX線を発


見して120年余の今、あの高電圧を掛


けて発生させていた大きい装置が携帯


の現実になっている!


僕の勉強が足りないのも確かだが、化


石人間ギャートルズ、時代遅れを悟っ


た。





2021年11月15日月曜日

(97)リハビリ日記⑳ ノベンバー・ソング 

  前回、9月にセプテンバーソングを


書いてから、瞬く間に11月、しかも


中旬を過ぎた。


遅々としているようだが、リハビリ成


果も進んだ。


 例えば、毎日PT.、OT.、ST.などの


途中で痛くなっていた腰部の圧迫骨


折由来と思われた腰痛が、減って来


たし、誤嚥防止の食事も要領が分か


って来た。


 whillカートを使って今のところ洋

   

光台や港南台、上大岡くらいまでは


往復出来る位になったし、Whillでト


イレに行けて、何とか両足で立って


紙パンツやズボンを着脱できるまで


になった。


しかし、尿取りパッドを使う時はパ


ッドとパンツの間にマジック接着テ


ープが付いていないタイプの場合は


呼び笛で手伝ってもらう必要がある


のが情けない。


 Whillに乗っている間は、床にモノ


を落とすと拾えないから、一昔前の


モク拾いが使っていたような自在掴


み棒を使う。


初期には孫の手を使ったが、やはり


掴む機能が必要である。


 家の内外は家族の理解で大改装を


して貰って,大体Whillで行けるが、


洗面所と台所には入るまではイイと


して入ってUターンが出来ない。


バックで狭い扉を引き返すのは至難。


早く手押し歩行器で常時動けるのが


理想的。もう少し! 


 一昨日、中野、相川君が中村先輩


を連れて陣中見舞いに来てくれた。


中村さんに会うのはもう10年振りか


も。


相変わらず千葉の別荘・畑には行っ


ているらしいが、仙石原には度々に


は行けないと言う。

 

 相川君の最近研究の成果をパソコ


ン+TVで披露してくれた。


 日本の将来はこのままズルズル後


退していくと、危ないのが分かった。




2021年9月30日木曜日

(96)リハビリ日記⑲ セプテンバー・ソング 

  思えばつかの間の夢現だったのかも


知れない。


今年3月、老後を考えて家の整理と改


造を思い立って、構想設計に取り掛か


った矢先、言葉が怪しくなった。


家の前庭に車いす用のスロープを付け


る構想図を前にワイフとディスカッシ


ョンしていた自分の言葉が急に通じな


くなったのだ。


手足に異常は無いように見えたが、自


分には予感があった。


まさか!と訝るワイフに直ぐ救急車の


手配を頼んだ。


救急車が来て、救急隊員に支えてもら


いながら自力で歩いて救急車に乗った。


一応の応急処置が終わって入院ベッド


に落ち着いたころには、完全な入院患


者になっていた。


しかし、足が萎えているとは気づかな


かって、直ぐに歩けると思っていた。


 16年前の1回目の脳梗塞入院と違


って、今度はリハビリは専門病院に転


院して行うシステムになっていて、1


ケ月前にリハビリの磯子中央病院に転


院し、PT.OT.ST.の各リハビリ部門の訓


練を約3ケ月受けた。


 その間、骨盤損傷に掛かると思われ


る腰痛で訓練もママならず、病院での


訓練を諦め、自宅で過ごしながら訪問


リハビリを行う方法が経済的だと思う


ようになって有馬先生をはじめ病院の


スタッフの方々に無理な我が儘を聞い


て頂いて退院して約3ケ月経った。


 再発から都合7ケ月、夢のような日


々が過ぎた。


腰痛は残ってはいるものの軽くなり、


覚束ないものの2本足で立って居られ


るようになり、ウイルで3,4km範囲な


ら外出も可能になり、トロミ食にも慣


れてきたこの頃、夢現ながらも過ごせ


た恩恵を感謝するばかりである。


 気が付けば、9月尽、セプテンバー


ソングが聞こえる時期が行こうとして


いる。





2021年9月19日日曜日

(95)リハビリ日記⑱ 獺祭忌 正岡子規忌 

 今日9月19日は、現代俳句の創始者と


言ってよい正岡子規の命日である。


人々は自分の書斎である病床を、獺(い


たち)が獲物を自分の周りに並べるとい


う習性になぞらえて本などを病床の周り


に並べた自分を獺祭亭と自称したと言わ


れることから、忌日を獺祭忌とあだ名さ


れたのである。


 子規の一番弟子に相当する高浜虚子は


子規の看病に当たっていたが、仮眠を取


っていた間に臨終に間に合わなかったそ


うである。


 子規が亡くなった蚊帳を離れ友人たち


に訃報を伝えるために外に出た虚子が見


たのは十六夜を過ぎた月の光だった。


 子規逝くや十七日の月明に 虚子


と言う名句を詠んだ。(石寒太による)


 後々山口県JR岩徳線沿線に獺祭の名を


冠した銘酒が生まれたが、子規の獺祭と


縁があるのかどうかは知らない。


獲物を前にして酒を酌むには好都合であ


ろう。





2021年8月29日日曜日

僕の追悼簿・巨漢、鈴木重寿さん

  昨夜仲間から訃報が届いた。


鈴木重寿さん(90歳)元東芝小向特


殊無線機部長などを歴任。


小林亞聖さん張りの巨漢で明朗闊達、


麻雀好き、一方コロナ時代を先取りし


たようなアルコール消毒潔癖症なんに


でも触るとハンカチとアルコールで消


毒した。


 麻雀との対比が滑稽だが市川の神社


の出だという本人は平気。


祝詞と二重生活だと言われた。


 確か、早稲田の理工。



コロナ禍を先読む人や逝く秋ぞ






2021年8月21日土曜日

(94)リハビリ日記⑰ かもめーESSのこと 

  今回の16年振りの2度目の脳梗塞


発症で大きいダメージを受けたことに、


僕が勝手に立ち上げ維持してきた2つ


のホームページがある。


 僕自身の第1回脳梗塞を切っ掛けに


リハビリ生活を記録したホームページ


「テオとジンの家庭菜園」と、発病前


から県高校職員IT支援事業に参加した


退職者仲間が紹介してくれた英語に親


しむ「かもめ」という名のESS(イン


グリッシュ・スピーキング・ソサイエ


テイ)のホームページである。


 二つとも同じサーバー(インターネ


ットに乗せるための借り記憶装置)を


使っていたが、今回の発症で4ヵ月も


入院している間にレンタル料が払えず


「家庭菜園」は消去され、「kamome


ESS」は偶然生き残った。


 これを切っ掛けに、人生に区切りも


必要かと生き残った方も整理する気に


なった。


 kamomeESSは僕が参加した2003


年に、1990年ごろから参加していた


メンバーが古参の人の話から「設立は


1962年ごろではないか」という。


多分、横浜で最古のESSであろう。


 偶然現在最古の元会長メンバーが学


部は違うが僕の九大同期であった。


 今はハーバード大出身で理研勤務の


D先生、オクスフォード大出身の大学


教授のR先生で毎年新年会、花見会、


着物パーテイなどをやってきた。


 今回のコロナ禍で、活動が止まって


いるが、早い再開が望まれる。


 ホームページに代わってfacebook


に紹介されるので


「皆さん、kamomeESSをよろしく!


ぜひ顔を出してください」


kamome-ess.sakura.ne.jp  












2021年8月19日木曜日

(93)リハビリ日記⑯ スマホはドジばかり 

  スマホに手を出したのは数年前だっ


た。


持ち前の好奇心から、楽天の2000円/月


でスマホが持てるというキャンペーンに


参加した。


 それから2,3年経った頃、夏の2週


間を北海道千歳のステーションホテルで


過ごしていた時、階下にあった


Y!mobileの支店でワイフのスマホを求


めようと思った。


 その時魔が差した。


ワイフの新しいスマホだけ買えば良いも


のを、楽天のSIMをY!mobile に変えた


のが失敗の元。


最初の機種まで捨てることになってし


まった。


 経済的にも高価な方に移行してしまっ


た。


 次に起こったのが、今回の発作で起


こった僕の音声トラブルだ。


音声電話が無用になったので電話を解約


した。


すると、残ったスマホはWi-Fiも使えなく


なった。


 慌てて安いWi-Fiを探した。


facebookの宣伝でJ:COMの企画に乗った。


富士通の901Fを捨ててiphoneSM第2世代


に代える羽目になった。


 弟が後から教えてくれたNTTの格安SIM


両用を検討したかったが解約した後での


MNP番号取得は出来なかった。


 スマホに関して何から何までドジな自分


を笑ってやりたいこの頃ではある。









奈多


2021年8月9日月曜日

(92)リハビリ日記⑮ 話が人に通じないと言う切なさとは?

  この年になるまで、敗北や失恋、悔


しい思いも人一倍味わってきたことは


自分以外にはなかろうと、変な自負を


糧に生きて来たという思いがあった。


 16年前、2004年5月、初めて脳梗


塞になって足が萎え歩行困難になり、


利き手の右手が痙縮して使えなくなっ


た。


 昔は脳梗塞もくも膜下出血も含めて


脳内出血も分からないまま脳卒中と言


って生きていたら絶対安静と言う処置


が取られていた。


 幸に、僕らの時代はコンピュターを


使った電磁透視合成のCT画像が撮られ


るような時代になっていて脳梗塞を脳


卒中とは言わないし、社会復帰・いわ


ゆるリハビリも、緊急期を過ぎれば絶


対安静ではなく出来るだけ早いうちに


リハビリを始めるようになっていた。


 当時、脳梗塞発生時に出来るだけ早


く投与すれば、血栓が溶けて後遺症が


軽くなる米国で開発された新薬の日本


での認定がされていなかった。


 救急入院した横浜市の南部病院でも


リハビリ科は出来たばかりであったで


あろう。


 と言うのは日本で理学療養学会が生


まれたのが1962年ごろ、理学療養士


が生まれたのが1967年ごろと言うから


病院にリハビリ科が出来るまで相当な


時間がかかったのであろう。


 まず萎えた足は床の上から両ひざと


左手の3点をしっかり床に確保して、


起き上がる3点支持法を教わって、平


行棒の間に立って歩く練習、階段上


り下りなど3か月もかかった。


 腕の方も机の上に置いたタオルに


両手を置き、そのまま腕を伸ばして


向こう側の端まで押し進める。


 シャツを着る、ボタンを架ける練


習。


 小さい積み木を動かす練習など今


でもやている練習が主であった。


 言語聴覚士は恐らく制度になった


のが2000年当初だったろう。


 初任の若い言語聴覚士がいたばか


りだった。


僕の症状が顔の右半面に垂れ下がり


はあったが、軽かったのであまり苦


労しなかった。


 しかし、17年目に再発した今回は


随分事情が違った。


 基本の右麻痺に違いはないが、今


度は言葉の発音が出来なくなった。


同時に食べ物飲み物の飲み下しが今


までのようには行かなくなった。


 トロミで流動時間が遅くないもの


は気管の方に送られてしまう、いわ


ば誤嚥が通常化してしまった。  


 が、誤嚥はまだ良い。


トロミ剤を加えれば、何とか喉を通


る。


 言葉の方は発音が正しくないと伝


わらない。


大きい声で発音しないと聞き取って


貰えない。


息が切れて大きい声も出ない。


 骨盤矯正用のコルセットを胸まで


装着していると、肺活量も足りない


から声も出ないし、便も出ない。


 筆話が最後の手段だと思われるが


老衰で力も劣ろえた右腕の字は崩れ


てきた。


 元来16年前の後遺症対策手段に絵


と字は左手で練習しようとしたが、


書いた字を見ているとこれから左手


で書く字が右手字の訓練してきた経


験を超えられないと決心して、字だ


けは右手を取り戻そうと決心して、


まず自分の名と住所が右手で書ける


まで訓練し、その内思い立って写経


に使われる般若心經の写経用紙を使


って猛訓練した。


そうすると、字は右手と言う自然体


が生まれていた。


 今度の再発症で養老OT.先生と体


を立ち位置に縛り付けるスタンドに


固定しながら右手鉛筆で般若心經を


模写してみたが、何回かに分けて全


部模写できた。


 声の方は練習で、そう上手く行く


かはわからない。


箱根のバスでコロ付きラッゲージの


転がりを助けてやった上海勤めのマ


レーシアの華僑青年と台湾漢字の筆


談交えの英語会談で中国の現代絵画


事情を知ったが、漢字の発音は出来


なかったから、言葉とは言えない。


 また、2,3年前に英語発音練習用


に買ったpocktalkと言う手持ち翻訳


機を使って発音練習が出来ないか?


などアイデアもあるが、まだそんな


時点ではない。


 日本語ではパ・ラ・カ・などの舌


の先が前歯の裏側にあって発音して


舌が前方に跳ね上げるか、奥の方に


移動するかが上手く行かないと聞き


取れない発音が難しいとされている。


 この練習も大切だろうが、面白く


ない。


 般若心經を唱えてみるか、テレサ


テンの「つぐない」をうたってみる


か、シナトラの「マイウエイ」の英


語にするか、怪しいスペイン語の


「マラゲーニア」か「キサス・キサ


ス」か、面白い言葉発声に挑戦して


みたいものだ。



2021年8月6日金曜日

(91)リハビリ日記⑭ 一日中、車椅子上の生活は?

  朝ベッド上で目覚め、前夜ベッドに


寝転ぶ目まで乗っていたwhillと言う名


の電動カートの上に乗り移ります。


 病院と同じような頭と足、ベッドの


高さがモーターで変えられるレンタル


ベッドからベッド枠柵を少し直角に伸


ばしてベッドに横付けしたwhillの前の


立ち上がりの安定支えにしてエイッと


立ち上がり、左右の足の重心を確かめ


ながら向きを座席方向に変えて、whill


の座席に座ります。


 デイサービスに行く車椅子に乗ると


きはwhillの座席の足元板を跳ね上げて


直接床に両足で立って、前の柵をハン


ドルにして、whillをどけて車椅子の座


席が位置に来るまで待ちます。


 結局、後は車椅子かwhillの座席の上


が居場所です。


 パソコンの前か、食卓前か、平行棒


に向かっているか、トイレか、机の前


で立ち上がることすら、冒険なのです。


 昨日は、届いたプリンターを妻の手


を借り開封し、パソコン机までwhillの


前の膝に置いて運び、何とかデスクト


ップの上にずり上げ、高か過ぎて操作


盤も見えないので、キーボードの左に


再配置するなど、一本半の腕を駆使し


てどうやら設定が出来ました。


 非常に簡潔な構造でプリンターとし


ては優れていると思いました。


 しかし、問題もあり、不満。


 ああー、椅子に座ってみたいなー!


 リクライニングチェアーに座りたい。


公園ベンチでスケッチしたい!





2021年7月31日土曜日

(90)リハビリ日記⑬ トロミ食も悪くない

  僕は大回目の脳梗塞を患って以降、


南部病院に何度も入院した。


 比較的に入院期間が長く大変だったの


が胸膜炎(昔は肋膜炎と言った)。


 風邪を引いたと思って家庭医に行っ


が南部病院のCT検査予約を取って


呉れたのは良かったが、抗生物質薬


も呉れなかって2,3日後の予約日


の早朝胸が息が出来ないほど苦しく


なって、救急車で南部病院に駆け込


んだ。


肺胞と胸膜の間に水(膿)が溜まった


という。


背中から大きい針先の丸い注射器をブス


ッ刺して膿を出した。


痛い長い入院で生死の間をさまよった。


 入院のたびに食事も変わった。


普通食もあったが、お粥食、流動食、絶


食、刻み食、など色々あったが、今回は


トロミ食、だった。


 大体病院食は塩量6ℊ程度の減塩食だ


から美味しいとは言えないが、朝食に多


く出る牛乳、ジュースなどを好んだ。


トロミ食は流動食に近いが田中ST.先生


が監修して下さって、汁物にはトロミ剤


を加えカレーなど本来からトロミがある


食物以外はすべてトロミ剤が加えてあり


総菜や肉魚は、すべて飲み込み易いよう


に刻んである。


 僕はお願いして、一口で食べやすい程


度の刻みにしてもらい、主食は粥にして


もらった。


 僕のお粥好きには、毎夏主に温泉巡り


の基地にした北海道の千歳ステーション


ホテルのバイキング形式の朝食でお粥に


納豆と生卵を入れ地元キッコーマン工場


製美味しい醤油と地元で作る豊富なイカ


の塩辛を採っている朝食の影響が大きい。


 退院後の自宅でのトロミ食は、病院の


田中ST.先生がトロミ食のいろいろを解


説した資料を参考にしながら、お茶、コ


ーヒー、煎じ薬、アイスクリーム、プリ


ン、こっそりワイン、などの飲み物に


トロミ剤を加え、食事は朝のバナナ食、


の他お粥に納豆・卵、中村屋のレトルト


カレー、レトルト雑炊にトロミを加える、


など、試している。


ワインやカルピスなどにトロミを加える


と初めはお茶と同様な要注意飲み物だが


時間が経つとお匙で食べるゼリー状にな


るのは面白い。




2021年7月30日金曜日

(89)リハビリ日記⑫ 比較的に恵まれている現代の老人僕のリハビリ生活模様例 

  16年前に第1回目の脳梗塞発症を経


験し、右麻痺後遺症つまり右足全体が


骨盤毎やや開いて左側の杖を突く必要


があったのと、右腕の痙縮(よく見か


ける三角巾で吊ったような曲がり)が


残った。


当初は右顔面が垂れさがる麻痺症状が


あったが、こちらは2,3年で自然消


滅したかに見えた。


 8月に退院して明何会と自称した水


彩画クラブの仲間と信州安曇野にスケ


ッチ旅行に遠征し、左手スケッチをし


て杖を突いて単独で数km歩き回り皆


を心配させた。


 もう再発はなかろうと油断したの


か、今年3月2度目の発症が来た。


 実は昨年秋、軽い発作があって言


葉不明瞭、足腰に弱りを感じ、通院


や民間整体士に掛かった時には、想


像した想定問診を印字して持って行


っていた位だから、正確には第3次


発症かも知れない。


 高老年下の今度の発症の後遺症は、


致命的というレベルの足腰のなえと


構音障害(dysorthria)と嚥下障害


が残った。


つまり、人に話言葉が伝わらず、ト


ロミが少ない食物は喉で気管の方へ


誤嚥する。


 ただ一つ、字を書く以外は使わな


かった右肩回りは、今度見て下さっ


たOT.の養老先生の肩甲骨周りの再


マッサージのお蔭で、動きが出て希


望を残している。


 自覚はなかったが、骨盤に圧迫骨


折があるらしく、毎日の病院リハビ


リ途中に腰痛が出てリハビリ効果が


出ないので、やむなく退院して訪問


リハビリの道を選んだ。


 歩けないから、室内外も車椅子が


要る。


前々からハンドル操作の電動カート


をレンタルしていたが、車体も大き


く狭い我が家で動くのは無理で、狙


いを付けていたjoystickタイプ操作


のwhill電動椅子に鞍替えした。 


介護老人ホーム施設に入るには基本


の3倍料金を取られる年金収入だと


言われてそんな金力もないし、毎日


笑顔の老人たちと仲良くお遊戯をし


て過ごす生活は無理な自分は、自宅


を改修してwhillに乗ったままでどう


にか生活したいと準備に掛かってい


た矢先だったので、発症直ぐにwhill


出入りのスロープを道から玄関まで


付ける庭改修に掛かることが出来た。


 レンタルベッドの手摺を基点に


whillに乗り移る、デイサービス用の


車椅子に乗り換える、動作が基本に


なる。


 whillを動かして左手に少し進むと


パソコンとモニターやプリンターが


あるwhillでアプローチ出来る机、後


ろにバックして右に直角に向きを変


えると新聞を読んだり食事をしたり


の机、机の向こうはレンタル平行台、


居間を出てドアを直進すればwhillが


便器に横着け出来るように壁を開口


したトイレ。


 建築家の息子とワイフの計らいで


ある。 感謝に尽きる。


 ただ今のところの問題は長時間


whillに座って過ごす尻の痛さであ


る。 卵が割れないと宣伝する重


力分散のハネカム・マットを買い


込んだ。





2021年7月28日水曜日

(88)リハビリ日記⑪ 最後のアイヌ酋長の像のアーティスト故竹中敏洋さんの記憶。

  北海道新日高市静内の静内川を隔て


た対岸の丘に真歌(まうた)という西


の静内市街方向から攻めてきた松前藩


のアイヌ掃討作戦で戦った、最後の酋


長シャクシャインの銅像がある。


 北の同胞たちに決起の雄たけびを上


げる像と見える。


掲げる槍先が8m位あろうかという大


きい立像である。


 僕たちが長年、この先にある第7高


射連隊の海岸射場に手掛けた防衛器材


の実射試験の空を指しているような位


置関係だから、最初訪れた時から試験


の守り神みたいになっていた。


北海道・恵庭市に関連機材のメンテナ


ンス新工場を開くために赴任した僕は


新しく遊び友達なった地元の面々の飲


み会に加わっていた。偶々僕の隣に座


っていたのが竹中さんだった。


 話をするにつけ、彼は大分の教育大


出身で北海道で氷に魅せられ、東京で


夏に氷芸術祭りをやったこと(僕も


NHKの日曜芸術特集で見たことがあっ


た)し、千歳市支笏湖畔の冬の氷涛祭


りを立ち上げたとか、彫刻作品があち


こちにあるとか、地元のサッポロビー


ル工場のレストランの庭に毎年氷モニ


ュメントを立てているそうだった。


 竹中さんは元々札幌郊外の西岡とい


うリンゴ林地帯の奥にアトリエを持っ


たが、町が膨張して気が付いたら町中


になっていたので恵庭市の山奥の盤尻


にアトリエを建てたそうであった。


 知り合って間もなく、車で盤尻のア


トリエを訪ねた。


 広い家と鋳物アトリエがくっついた


建物で、彼が廃校の校舎廃材からの手


作りという。


漁川ダム下の流れに沿った裏と横の広


い庭には畑もあり、古いモーターボー


トや小型トラクターも置いてあり、ア


トリエの前に真歌のシャクシャイン像


の1/2アニール像が立ててあった。


大きい立像の建立前に銅像の鋳物が冷


却する際、部分歪みが出ないか、確か


めたのだという。


 クマが出るので、食べ物は置けない


という奥地だから、高校出てすぐ札幌


に朝早く軽で恵庭駅に出て、札幌まで


通っているそうだった。


 その頃、竹中さんは金属が溶融し液


体から固体に移る刹那の表情を追う仕


事をしておられた。


 その話ばかりだったが、仲間はこの


庭で夏は川までの道を作り水場でビー


ル缶を冷やしバーべキュウをし、冬場


は庭に大きい氷室を作り中でバーべキ


ュウをした。


 奥様から「もう竹中を悪い遊びに誘


わないで!」と言われ敬遠された。


 それから人事異動で恵庭から去って


年賀状の付き合いが続いたが、ある年


奥様から年始の挨拶を断る訃報が届い


た。


詳しいことは書いてなかったが、脳卒


中だったらしかった。 


お世話になっていながら、あっけない


お別れであった。


その後奥様はお嬢さんと札幌への道が


貫通したこの地で喫茶店を開かれたと


いうが病勝ちになった僕には行ってみ


ることもできなくなった。





2021年7月26日月曜日

(87)リハビリ日記⑩ 心の支え、右まひのピアニスト館野泉さん。

  現在日本にも導入されているアメリ


カの「パック-3」という防空ミサイル・


システムが、まだSAM-Dと呼ばれてい


た時代から、小型ではあるがコンセプ


トも似ているとも思われる、わが国初


の防空ミサイル・システムの開発設計・


試作・実用試験・全国配備・メンテナ


ンスという器材の全工程に、自分の会


社生活のすべてを捧げて来た僕の言わ


ば会社生活終着駅の北海道恵庭市の市


民公会館で「ピアニスト館野泉とゆか


いな仲間」という地元婦人会主催の演


奏会が開かれて、婦人会の唯一男性顧


問であった僕の悪友”春さん”(近藤春


夫)に司会役が回ったらしく、ウブな


僕を言葉巧みに乗せて僕が司会をさせ


られる羽目になった。


 格安実現のため、チケット販売から


地元婦人たちのステンドグラス作品で


デザインの舞台まで手作りだった。


 ちょうどその日11月10日(日)が


さんの誕生日にあたっていて、演


奏会後に会館広間で手作りお祝い会


が開かれた。


 札幌から来日中の声楽家の奥様ヤ


ンネンさん、バイオリニストのご子


息も駆けつけて盛り上がった。


 札幌で別のグループの会があると


うご一家が去られた後、残った


北欧の若い男女の音楽家を日曜休み


の市内老舗陶器店を開けてもらいお


土産買いや食事に誘った。


 そんなことがあって数年後、僕が


橋の居酒屋での親友4人仲間の飲


み会でロレツガ回らくなり、友人の


一人がタクシーで横浜の家まで送っ


てくれて、目がロンパリ(目が右は


パリを、左目がロンドンを向いたよ


うな状態を、昔の人はそう言った)


なのを妻が見つけ、南部病院救急窓


口に電話し、息子の車で入院した。


 リハビリも含め3か月後に、右ま


ひ後遺症で退院し、暗澹と過ごして


いた僕はインターネットで、僕と同


年の館野さんが僕の発病の2年前に


北欧での演奏会の舞台で倒れ、ピア


ノ演奏家としての危機に立たされて


いるのを知った。


 僕と同様、残った左手だけで必死


音楽の道を探っておられる館野さ


んに感銘した僕はホームページを開


いてリハビリの道を公開することを


思いついたが、10月になっていた。


 もとより、コンピューターには無


だった僕が日経パソコン誌などの


独学でホームページを曲りなりに開


けたのは館野さんのお蔭だともいえ


る。


 今、館野さんは「左手だけで音楽


楽しむ」道に新境地を開いたピア


ニストとして一家をなしておられる。


 勿論、ご友人の作曲家たちの作曲や


ご支援もあってのことだろうが、ちっ


ぽけな僕の生き甲斐にも、大きな励ま


しである。


 今回、長い入院でサーバーを失った


ホームページは消滅してしまったが、


リハビリ・ブログの道は大切にして行


こうと思っている。

 

2021年7月24日土曜日

(86)リハビリ日記⑨痙縮のリハビリは発病後何時頃から始めて間に合うか?

 僕の第1回の脳梗塞発病は2004年


5月16年前になる。


当時は血栓を溶かす応急処置の特


効薬は日本では許可されていなか


った。


現在ではかなりの人が、この薬の


お蔭で腕が三角巾で吊ったように


痙縮した人を見かけることが少な


くなったように思うが実際にはど


うだろうか?


リハビリ病院ではこの症状の人が


まだ多い。


僕の第1回発病の2004年ころは、


脳卒中に罹ったら、絶対安静と言


われた古い知識からリハビリ開始


は発病後なるべく早く、と方向変


換して間もないころで、理学療法


士制度も今ほど発達していなかっ


たような気がする。


僕の右腕と右手の痙縮リハビリは


自分の衣服の着脱と、机上に置い


たタオルを両手で向こう側に押し


進めることが印象に残っている。


だから、この16年間右腕は痙縮し


たままだった。


ただ、字だけはキャリアーが無い


左手字は練習してもダメだと悟り


必死に名前と住所だけは右手で書


こうと決めて猛練習をした。


一番効果があったのは、般若心経


の写経であった。


以来、字だけは右手で書いてきた。


今度の2度目の発症でリハビリ病


院に入院して今回が初めてという


具合に肩甲骨のリハビリを始めた


ら、驚くなかれ、右手の痙縮がだ


んだん解れて来たのである。


まだ腕の筋肉が力の改善が伴わな


いから制約はあるが、希望が出て


きて嬉しい。


今回の脚のダメージは大きいが、


専門の理学・作業療法士(PT.と


OT.)の骨盤や肩甲骨周りの矯正


で効果を上げている。


リハビリは早い方がいいと言われ


ているが、時間が経ってしまって


も諦めずにリハビリすることだと


強く思う。




2021年7月22日木曜日

(85)リハビリ日記⑧圧迫骨折の心当たり

 今回のリハビリで、終始リハビリの施術中や


食事中に、座った状態が一定の時間経過すると、


腰に痛みが表れて我慢が出来なくなって作業を


中断した。 


ロキソニン、カロナール、などの処方薬でも


軽減しない。


前々から鎮痛剤の連用は好ましくないことは


知っている。


その点、漢方薬に近い富山の痛散湯がある。


もともと、煎じ薬の様だが、長く飲んで効く


ような気がする。


それはそうとして、圧迫骨折は何時だろうか?


数年前、昔のベッドから常用していた回転事


務椅子に乗り移るのに失敗して、狭い空間に


床に尻もちを搗いたことがあった。


この時は、腰が痛くて家から遠い5丁目の「や


そだ整形外科」に駆け込んだ。


この頃の医者は触診はしないし、X線撮影で異


常なしと言われ、痛いブロック注射と、マイク


ロ波温やマッサージのはリハビリに通った。


ところが、ある日入浴中に背中を流しに来た


妻が、僕の腰に大きな黒あざを見つけた。


これこそ、この間の尻もちの時、固いベッドの


脇に打ち付けたらしい。


もう一つ最近では、3月7日の早朝5時頃、その


頃の朝のパソコン作業を終えて、後ろのベッド


に戻ろうとして失敗し、床にドスンと尻もちを


搗いた。


自力では立ち上がれないのは知っていたから、


床暖房は入っていたので、家人が起きてくるま


で床に寝ていることにした。


その日は、先日南部病院で受けた皮膚腫瘍除去


手術の抜糸の日だった。


皆が起きてきて、立たせてくれたが、抜糸に行


く気もしないので翌8日延期を申し込み、昼頃


先々のカート生活を予想して、家を改装する計


画を妻と話している途中に、口がモトワラなく


なった。


予感がして筆談で訝る妻に頼んで、南部病院へ


の救急車を呼んでもらった。


救急車まで杖で歩いて乗ったのが、歩きの最後


だった。


朝の床への尻もちが梗塞があったのか?昼頃に


梗塞があったのか?わからないが、骨盤圧縮骨


折があったのが一番クサイ。右足に体重を架け


てのスクワットが、当面の目標である。

2021年7月19日月曜日

(84)リハビリ日記⑦リハビリ病院の良いところ体験記

入院 リハビリ病院の良いところは、毎日少しずつ


ではあるが毎日理学療養PT.と、作業療養OT.、言語


聴覚ST.専門指導先生のリハビリを受けることが出


来ることだ。


中途で退院して訪問リハビリの道を選んだ者には


思わぬ伏兵が居た。


PT.とST.各週に1回の訪問指導と毎日では雲泥の差


だ。


僕の場合、腰がダメージを受けたので立つ力が弱く、


ベッドから車椅子に移るときの立つ動作、車椅子で


トイレに行って、便器の前で手すりに摑まって立ち


上がり、ズボンを下ろして便器に座る、用を足して


から、また立ち上がり、尻を拭きズボンを履く動作


が必須であるが難関だった。


家やデイサービスではこの動作だけを繰り返すが、


回数が繰り返されるが回数は少なく、せいぜい維持


か劣化である。


平行棒を借りて自主歩くトレーニングが重要だが、


十分ではない。

2021年7月13日火曜日

(83)リハビリ日記⑥リハビリ病院体験記

 16年前、5月のある日、しばらく会っていな


かった会社時代の、歳も部門も違う仲良し友達


たちと会うことになって、元赤坂の「ままや」


の板さんの店に集まっていた。 


「ままや」は、言わずと知れた不慮の飛行機事故


で早世した作家向田邦子さんの店だった。


向田さんの亡き後、しばらく妹さんが店を引き継


がれたが、閉店されて板さんも新橋に店を持たれ


いたのである。


集まった友人の一人が、かねてより「ままや」の


常連だった縁で、この板さんも知り合いだったのだ。


さて一杯!とカップを合わせ、いつもの焼酎の水


割りに移ったところで、僕のロレツが回らなくな


ったらしい。


急に酩酊状態になった僕を近くの病院でなく横浜


の自宅に同乗して連れ帰ってくれた友人の気転に


今でも感謝する。


門扉を通り、数段の石段を登れなくて転倒した。


妻が僕の顔を見るなり、南部病院に電話して自家


用車で救急窓口に来るように言われた。


右目がパリ向きゃ左目はロンドンを向いた「ロン


パリ」状態だったのだ。


当時はいわゆる脳血栓を溶かす特効薬は日本では


認められていなかった。


すぐにリハビリは開始されてはいたが、リハビリ


自体も、制度が出来て揺籃期で未熟でもあったよ


うだ。


南部病院にも理学療養士PT.と言語療法士ST.だけ


が配置された状態だった。


3か月の入院とリハビリの後、右足のマヒと右手


が縮こまる後遺症のまま退院して16年間過ごし


てきた。


そこへ来て、昨秋言語がやや不明になったなど予


兆はあったものの、本年3月になって第二次発症


が起こった。


今度は腰から下のマヒと言語発音が出来なくなっ


た。


1ケ月弱の南部病院入院で、3ケ月強のリハビリ


病院磯子中央病院への転院があったが、脊椎の圧


迫ぱく骨折があった所為で処方鎮痛剤が効かない


腰痛がリハビリ施療の妨げになり途中退院し、訪


問リハビリを続ける道を選んだ。


それなりに、車椅子スロープの設置や家屋内の


whill生活への改修等をしてもらった。


妻や息子に感謝する。


リハビリ病院でのリハビリの様子は、それぞれ述


べてきたが、全体的に入院中は不便はあるものの


毎日施術が受けられるという利点が大きい。


自発的リハビリと言っても、安全を考慮すると、


どうしても単独では無理があることも悟る。



2021年7月11日日曜日

(82)リハビリ日記⑤田中ST.先生

 今度の16年経ってからの第2回ストロークのダ


メッジの最大は構音障害(dysorthria)(言葉の発


音が出来なくなること)と誤嚥が常習になったこ


とだ。


発音が呼吸の長さが保てなくなるので発音が正し


く伝わらない。


息を貯めて「あー」と長く小さい声で発声しよう


としても最初は3秒程度しか続かない。


誤嚥の方は、喉の筋肉が働かなるのに応じて、舌


の機能が劣化して、トロミをつけた飲み物や食事


でないと、呑み込みの対応が間に合わなって、い


わゆる誤嚥むせぶになる。


田中ST.先生は最初出会った時から僕の発声の言


葉を聞き取って呉れた。


ST.先生らしく僕の口と舌を観察して読み取って


くれたのだろう。


思わずいろいろな話に飛んだ。


この先生も美人でドイツのペンパルと英語で文


通しているという。


僕のkamome-ESS英語クラブのホームページ


を紹介したら見てくれて、朝夕のST.リハビリ


の挨拶はHow are you today! など、短い英語


を楽しんだりした。


I'm fine thank you. とウッカリ返すと「And 


you too? 」が抜けてるんじゃない?


と手厳しい。


あいうえおかきくけこの発音、ぱらからの発


音など上前歯と下前歯の裏側に舌を付ける所


からスタートして次に舌の使い方でラとカの


音が出るなど昔の英語教育ではあまりやって


来なかった発音の基礎からやる。


次に誤嚥が起こる舌の力をトレーニングする。


舌の先を下顎のほうに思い切り伸ばす。


アインシュタインが来日の折茶目っ気で長い


舌を出した写真が思い出される。


トロミ食やごはんや粥の選択など病院食の


面倒も見ていただいた。


それどころか、退院後の妻の食事作りの指


導手引書などまで細かく準備して下さった。


感情失禁という無意味に笑顔と泣き顔の表


情の使い分けができない状態の症状を教え


てくれた。