2017年6月22日木曜日

2017年GM同窓会(第13回)を終えて

 6月17日土曜日、天候に恵まれ、予定通り直通バスで横浜駅東口改札前まで行き、杖突歩きで広場を横切り崎陽軒本店の同窓会場に定刻に到着。
仲間たちと1年振りの再会を喜び合う。
今年はOB出席者が49名、現役を加えて60名の大会合。
幹事団が作った会の冊子を手に、和気あいあいの会は最後の集合写真まで乱れなかった。
冊子に乗っている集合写真は、当然去年のもの。


2017年5月28日日曜日

’70年万博の頃(4)

’70年万博の頃(4)
明け方珍しく夢を見た。
どこに行っているのか分からないが、パートナー他社と組んでの受注プロジェクトの現地指揮を執っている。
執務室は受注先の近くの駅構内に借りた電車車両の中で、必要な情報を携えた自社パートナー社の人たちが西から東から電車の乗って行き来する。

電話はあるが、パソコンもないメールもない。
’70年万博の頃のままである。
受注のための良いアイデアを次々に繰り出して、実現のために必死になっている。

自分だけが中心になって出張員だけを頼りに指揮しているが、パソコンやメールを使えば
列車を借り切ったり、出張費も出さずに済むではないか。
何と無駄なことをやっているんだろう?
いや、本音を言うと出張が楽しいんじゃないのか?

そこで目が覚めた。ラジオ深夜便のイヤホンが何やら「私のがむしゃらな時代」的な話をしているようだ。

2017年4月9日日曜日

’70年万博の頃(3)

’70年万博の頃(3)
 明石に工場があった会社と共同開発することになったレーダーの初回設計会議が舞子の旅館で開かれることになった。
両社の担当事業部長、部長、課長、主任、担当が泊りがけで顔見世を兼ねシステム検討をする会だった。
 業界はまだ余裕があったものと見え、全部で20名ほどが加わった。
新しいレーダー設計の主な点でわが社が提案した方式について論争があったりしたが、先ずは和やかな会だった。
ワシら最も若く生意気だった同僚二人は、彼が買った新しいカローラに乗って出来たばかりの東名高速と、名神高速を走って参加した。帰りに’70年大阪万博に寄ろうとの魂胆からだった。
マイカーで万博に行く人は少なかったのか、駐車に苦労した覚えもないが、馬鹿でかい太陽の塔と、凄まじい人数の印象だけが残っている。
夕方に出発した帰り道も交代運転で真夜中まで走ったが、電車もない時間、どうやって家に帰り着いたのかサッパリ記憶がない。
その頃ワシは、日産の弟の紹介で中古スバル360から新車サニーに乗り換えたばかりだった。

2017年3月8日水曜日

’70年万博の頃(2)

      ’70年万博の頃(2)

ECM/ECCMというのはElectronical coutermeasure/Electronical couter-
countermeasure電子妨害・電子対抗妨害と言い、相手の探知電波を妨害したりその妨害に対抗手段を使う技術で現代電子戦では高度の不可欠技術である。
例として戦闘航空機の電波的形状を極度に電波反射を少なくし、レーダーに探知されないようにするステルス技術なども含まれる。
当時でも言葉としては流布していても、性格上具体的技術は開示できないからすべての電子的技術には必ずそれに対抗技術があるから、その研究は電子技術研究そのものということになる。

総合研究所で米国の電子通信学会誌をむさぼり読んで、ECM/ECCMの研究が出来たのも後々非常に役に立った。

まず最初に、防研の依頼でアンテナのレーダー電波の走査方向を電子的に制御出来るフェーズド・アレイ・アンテナを試作し、黎明期時代の米国デジタル・エクイプメント社のマイクロ・コンピューターDECー10を使ってわが国初のマイコン制御機器を試験した。




2017年2月25日土曜日

’70年万博の頃(1)

入社’62年後3年くらいは、防衛研究所の世田谷支所の委託研究として当時の主としての米国の技術動向を調査する仕事を命じられていた。

具体的には、毎日無線機技術部がある小向工場に出社すると、工場敷地の隣にある総合研究所(当時の)の図書室に行き、米国の電子通信部門学会の定期学会誌EEEジャーナル誌(まだ当時はEEEとは言ってなかったと思うが正確な呼び名は忘れた)の数年前からの記事を読み漁って「電子的カウンターメジャー(ECM・ECCM)」に関する記事を物色していた。
日本ではまだこの分野の研究は少なく、ほとんどの知識を米国からの文献から得ていた。

当時の米国が偉かったのは、米国内各メーカーや学会誌や技術誌の技術開示が惜しげも無くなされていて、日本にもメーカーや技術団体の発行する無料技術誌(Microwave誌など)が、当時既に米国内で流通していた各種波長のMicrowave導波管部品やハイブリッドTという位相器原理の部品などと共に工業規格などの知識と共に手に入った。


敗戦後、その頃ようやく始まったレーダー研究も米国MIT大学が戦時中著わしていたMicrowaveという教科書をはじめ、’70年には米海軍研究所のM.I.SKOLNIKをチーフエディターとする大冊「Rader Handbook」が出て我が国のレーダーも急速に進化を遂げた。

その頃、日本でもいわゆる不正規らしい「Rader Handbook」の「海賊版」がワシみたいなビンボー人でも手に入れられた。