2020年4月28日火曜日

夢想カート王国㉓鉄道復興作戦の夢を見た

ユートピア;夢想カート王国の基礎は

何と言っても鉄道だ。美祢線と山陰線。

美祢線の仙崎駅、長門市駅、板持駅、

長門湯本駅、渋木駅、

山陰線は三隅駅、長門市駅、黄波戸駅、

長門古市駅、長門人丸駅、伊上駅だ。

支所を含め市役所勤務の人、学校の先生、

市内に事業所がある人、通学の人は

原則として(駅まで4km+鉄道)通勤に

協力して貰う。

駅まで車、バイク、自転車、カート、

徒歩、何でもよい。

鉄道の活性化は鉄道を使って育てる

必要があることは自明だろう。

美祢線のもう一つの活用に、

宇部空港-新山口駅-美祢駅の高速道路

を使うピストン高速バス便を設定。

現在殆どの通勤者は車通勤だと思うが、

鉄道利用通勤の提案には、大反対が

起こるだろう。

しかし、その便利さゆえに全住民から

鉄道の便を奪ってしまったことに

責任を感じて欲しい。

全市民が平等に過疎化や市の過疎化消滅

危機に立ち向かわなければ危うい。

2020年4月23日木曜日

夢想カート王国㉒1953-55年ころ正明市駅前辺り

口上!  エー、お立合い!

話は少し長くなるかもしれないが
昔々正明市駅があったとさ、みたいな
65年近く前の大津高まわりの情景を
昔話語りのオジイサンになって問わず
語りに書いておくのも一興かと。

 山口県立大津高校に入学したのは

1952年(昭和27年)4月のこと。
1955年3月に卒業するまで駅前から
田屋の高校までの通学路や駅周りの
風景は変化が無かったように思う。
 毎朝通学のD51牽引の列車から
無舗装の駅前広場に降り立つと、
すぐ右脇の、雨の日は泥んこになる
小道に入り進み右手の農協前を過ぎ
ると農水路に沿った高校正門までの
道が続いた。
雨の日は、一本歯の桐下駄を履いて、
この泥んこ道を渡った。
昔の旧制高のバンカラの格好つけだ
 校門正面に玄関があり、右手奥に
体育館があり、その手前を入ると
下駄箱に続く教室が東西に並ぶ校舎で、
南側の松並木の向こうに運動場が見えた。
 その頃は美術の香月先生も在校で、
ずっと後に、先生が描かれた下駄箱や、
校舎随所のスケッチ・ハガキで雰囲気
が知れた。
そのころ香月先生は、シベリアからの
復員後の三隅での雌伏時代だったようで、
校舎列の東端にあった別棟の美術教室と
図書室前の花壇辺りを、後ろ腕で考え事
がありそうに、うつ向いて、歩いて
おられるのをよく見かけた。
有名なシベリア・シリーズ制作の前
だっただろう。
 数学の鬼村先生、化学の片山先生、
英語の岡田(あだ名クエッション)先生、
物理の三浦先生、社会の堀田先生、
国語の中原(あだ名チンハク先生、
体育の南野先生、漢文の(失念)先生
たちに教わった。
 僕らは高6期で、2級上の高4期が
入学時から新制高校生で、その前期
まで旧制中学校入学組だった。
 旧制中学バスケット部は全国レベル
強豪だったと聞く。
掛渕の東隣の鵜の石地区の背高い江原
先輩が選手だったけれどチラッと見た
ことがあった。
石原小学校の他の組の担任先生だった
渡場の江原先生の弟さんだったか。
美人で背の高かった江原先生は、
やがて三ノ瀬(ソウノセ)の窯元
板倉家に嫁入りされ、後にクラスで
見学に招かれて萩焼工程を見せて
いただいた覚えがある。
 僕らの大学受験は旺文社の蛍雪時代
という受験誌と韓国語の混信が多い
東京文化放送のラジオ受験講座だけで、
塾なんか無い田舎町だから知らぬが仏
呑気で、毎晩ラジオ講座を聞きながら
転寝ばかりの勉強で、蛍雪時代の添削
入選記事の入賞者生徒名の志望大学欄
にハーバード大だのオクスフォード大
だの書いてあるのが「ウソダロ?」
と思っていたくらいド田舎だったのだ。
 2級上の4期生の中野先輩(早大)、
峯田先輩(九大)、藤村(白木)先輩
(中大)、上山先輩(龍谷大)、上利
先輩(早大)等が、初代・純新制高の
リーダーたちで、進学適性検査という
論理記述式の試験の始まり時代だった
から、我々の目標になった。
進適と呼ばれたその試験は、文部省の
採点に苦労したらしく、僕らの時は
受験勉強はしたが直前になって〇✖式
試験に変わった。
それ以来、センター試験は、まだ迷い
続け漂流しているように見える。

 僕らの時代は4合3落とか言って、
毎晩3時間勉強では入試に落ち、
4時間勉強だ、などと言ったが、僕は
余裕が有る訳ではなかったが、夜
ラジオ講座が始まると眠たくなって、
受験勉強よりも、旺文社系の海外図書
輸入社に郵便で申し込んで、ロクに読
めもしないバートランド・ラッセルの
洋本  Conquest of happiness「幸福論」
を取り寄せて読んだり、長谷川書店や
白川書房でカフカ、トーマス・マン、
ロマン・ロラン、カミユ、ボーボワール、
ヘルマン・ヘッセ、等文庫本を読み
漁っていることが多かった。
 中学校の時に、正明市に勤めていた
親父が手に入れた大正ロマン古本や、
世に出始めの今東光のオトナ小説など
が載った、いかがわしい雑誌などを
わが家の2階で読んでいた反動だろう。 
 今でも、ボロボロになったが使って
いる岩波の島盛男編の英語辞典は、
輪転台があった国鉄機関庫裏近くの
白川書房で買ったものだ。
書房は、駅前から西に向かう長屋の国鉄
官舎並びと、ドブ川の間に沿った小道の、
コンクリ橋のたもとにあった。
 機関庫から何時も機関車の黒煙と汽笛が
鳴り、その東側、つまり駅ホームから南を
見渡す田んぼの遥か向こうに深川小学校
などの家並みが見えた。
今の長門病院辺りは何だったか記憶にない。
 長谷川書店の前の大通りの向こうには
旧長門病院があって、その入り口角に
中学からの級友高橋さんの父君の薬局が
出来たのを覚えている。
中学の時には日置上城の我が家の隣地区
亀山地区に住んでおられて、軟式テニス
のラケット・ガットを張って頂いた
ことがあった。
卒業式ころはみんな都会の受験に出払って、
兄弟が多いので余分の受験料が勿体なくて
2期校受験をしなかった僕が残っていたので
中原先生の指導で答辞を読んだ覚えがある。
 「思へば遠くに来たもんだ」と云う歌の
如くに茫洋とした高校時代だ。
 黒い石炭色の印象のうちにも、授業中
南側の窓から運動場を眺める振りをして、
窓際の女子生の姿をちらり見ていたことが
青春のほろ苦い思い出でもある。
庭のアマドコロ

2020年4月19日日曜日

夢想カート王国㉑人丸神社春祭り

奇しくも今日19日は人丸神社の春祭りの最終日だっただろう。
その頃、僕ら子供たちの年中行事は人丸様の春秋の祭り露天巡り、夏の芝部落の芝居小屋、秋の渡場地蔵祭り、一回だけだったか芝の浜で競馬があった。
その先頭の祭りに 一年年下の4年生のタダモトくんやミノルくん達と、駅前から牛の座像がある鳥居下まで、沿道に空きなく並んだ露店のテント列のヒヤカシに行った。
僕は碌に小遣いも無くて、缶詰ブリキとエナメル線とかまぼこ板を使った手作りの小さなモーター玩具を買えた。
それからというもの、タダモトくんとモータ作りに今で言う「ハマった」。
新別名の踏切直ぐのしもた屋風のフジタラジオ店で当時貴重だったエナメル線を、渡場の鋳掛け屋さんでブラシ部品にする銅版の端切れを、半田付けに使う松脂と鉛などをフジタラジオ店で教えてもらうなど、集め歩いた。
モーターの原理を調べるのに本を漁り読んだ。
その頃は電池なんかは話だけで見たこともない、戦後の内地家庭電圧も80~90ボルト以下になることもあったくらい不安定で、家庭用電源電圧を100ボルトに調節するスライダックがあったので、それを使って適当に電圧を調節した。
エナメル線から煙が出たり、作ったトランスが焼けたりするのも珍しくなく、道具の揃ったタダモトくんのお父さんの歯科技工室には散々ご迷惑をかけたに違いない。
お蔭で、現在も駅前歯医者さんに行っても、パラフィンを使う入れ歯加工の手順などは理解できる。
6年生になって、タダモトくんと戸車滑車とレールを加工して、来客があると自動的に開け閉め出来る自動ドアを考案し県の小中学校科学技術展に出した。
もちろんモーターは手製のモーターだったから動いて力を出せるはずもなかったが、アイデアが良かったのか、入選した。
そのころ実用新案の特許の知識があったなら、現在の自動ドアの先鞭だったと誇りがある。
戸口を出た後、うっかり戸を閉めるのを忘れると「ホイト育ちかな?」とショッチュウからかわれていたのが原点だ。
ホイト小屋にはムシロが下がっているから、自動ドアだから。

2020年4月18日土曜日

夢想カート王国⑳新コロナウイルスの防御

全国に新コロナウイルスの感染防御に関する非常事態宣言がなされた。
取り敢えず5月6日まで、となっているが連休に帰省や観光に人が動くことを阻止するのが目的だろうから、すでにSTAY HOME ! 状態に入っていて、言わば連休状態なのだから、期限を切るのも変じゃないかい! 
すぐに延期だろう

帰省を計画している人は公共交通機関を使わず対ウイルスには、より安全だと思われている自家用車を選ぶだろう。 
帰省先で,人に会わないでいられる人がどの程度いるのか
世に希少がられて,交通秘境と呼ばれる長門市も,車にとっては関門が無い。
同窓会や食事会を3蜜阻止で開かぬことだ。
一旦クラスターが発生すると、キャパシティが少ない山口県下は医療崩壊がすぐ起こるだろう。
都会に住む者は「ウイルスキャリヤーにならない」配慮を持たねばならない。
故郷を守る! が故郷持つ人の責務であろう。

2020年4月17日金曜日

夢想カート王国⑲油谷の大山火事

ある日突然、油谷大坊部落南の砂利が峠に
対向する山の頂上が燃え出した。
後になって、そこにあったお寺のお坊さんの焚火の不始末だったと噂に聞いたから、
晩秋だったろう。
夜に見える火の色と、立ち上がる煙は
延々と一週間以上続いたと記憶する。
大人たちは、大坊や新別名の民家に燃え移るのでは?と心配したが、敗戦後の消防ポンプも不足時代に、懸命の消防が実ったらしく、部落手前で鎮火したらしい。
それから一年以上経ってからだと思う。
渡場の大橋の袂にも托鉢着の背の高いお坊さんが托鉢に見えるようになった。
噂ではあの山火事のお寺のお坊さんのお寺再興の托鉢だと聞いた。
後になって、あの姿は山頭火さんではなかったかと思ったほどのイメージが重なった。

僕が長じて、ロスアンジェルス近郊に出張した時、度々大規模の山火事があるヴァリーの一週間以上のヘリコプターによる連日の消火を実見して、驚いたことがあったが、2011年の福島の大地震原子炉事故でのヘリコプター注水をTVでハラハラと見たのを思い出す時、災害は忘れた時にやって来るという寺田正彦さんの言葉を噛みしめる。
大坊の山火事の思い出は、今でも思い出す山火事の怖さである。
長門市に大規模山火事が起こらないよう切に祈る。

2020年4月16日木曜日

夢想カート王国⑱長門の疫病史

長門市の疫病対処の歴史は詳しく知らない。
ただ今の長門市に自分が住んでいた高校時代までに経験した最大の事件は、石原小学校時代に起こった日置村(当時、現在は油谷)掛渕のコレラ発生だった。
多分小学5年の時だった。それまで学校に貴重な漫画本を持ってきてくれていた津村くんが亡くなった。
網元だったのか、裕福な家だったようで、当時出てきた手塚治の鉄腕アトム、戦前からまだ残っていた冒険だん吉、タンクタンクロウ、ノラクロの上等兵、山川総治の少年王者?等をクラスに持ち込んでくれていた。
自分がいつも読み役で、級友たちが山のように僕の机に折り重なって見ていたのを思い出す。
渡場部落から鵜の石?部落など、掛渕に至る全域が外出禁止になり、叔父の商店も営業停止になった。
学校では手洗いが実施され、生ものを食べるのが禁止になった。
ある日、新別名奥の火葬場に葬列が出るというお達しが出て、掛渕から車力に棺桶を積んだ葬列が町を通るのを戸板の隙間から覗いた。
当時でも秘密結社kkk団の噂が恐れられていて、kkkの目穴だけの頭からすっぽり冠った黒マント姿の付き添い役人?達が先導する葬列が黙々と進んだ強烈な思い出がある。
多分デマだったろう。「密航の朝鮮人が・・・」という話が広まった。けれど、真相は分からない。
今日、全国的な新コロナウイルスの非常事態宣言が発令された。
首都圏と同様、人の動きの制限は長門市にも及ぶだろう。
あのコレラでも10人以上の死者があったように記憶する。
安全を祈る。

2020年4月13日月曜日

夢想カート王国⑰免許返上年齢

忘れもしない、新橋の居酒屋で脳梗塞発作で倒れてもうじき満15年になる。
久しぶりに会社時代の部門も年も違う仲良し4人組の飲み会の席だった。
飲み始めてすぐにロレツガ回らなくなって、会を早々に閉まってタクシーで横浜まで友一人が送ってくれた。
車中、人の言う話は分かるが、僕のは話にならなかったそうだ。
着いてすぐ4km離れた南部病院夜間救急に、息子の車で入り、3カ月入院した。
10月になって、右麻痺後遺症は残るが闘病記を書くためにホームページを立ち上げ、30年来の車免許を障害免許に申請した。
ハンドルに回転ノブ治具を付けるが、家人は運転を怖がるし、自分でも安心できず、翌年免許を更新しなかった。
何とか杖で歩けたので、何年かバスと電車で絵仲間と安曇野や八ヶ岳高原にスケッチ旅したり、北海道に温泉旅したりしたが、次第に200m~500mの最寄りのバス停や通院まで歩くのが億劫になり、介護保険の電動カートをレンタルした。
以来、カートの良さに気づき、体に自信がなくなりつつある男女の仲間たちの外出や、クラブ活動交流を楽しんで、若さを保つのに効果があることを実感して、仲間を増やしてきた。
都会に住む僕が言うのだから、特に交通機関が車しか頼りにならなくなった僕の故郷の辺地にいる人たちの足として、高齢者福祉と町の活性化を図る手段として、最も安く、手っ取り早く着手できる、歩く速さの安全交通手段として採用するのが効果的だと確信するのだ。
都会では高齢者のアクセルとブレーキペダルの踏み間違え、走行レーンの逆走、ブレーキ反応の遅さ、駐車ミス、等の大事故が多発し、高齢者の免許返上にプレミアムを付けて奨励しているが、辺地では車なしには買い物や通院が出来ないからと言って免許返上をためらう。
しかし、今僕は電動カートは車の代わりというよりも、昔の人たちが世の中を人の歩く程度の速度で生きてきた実感を楽しめるようになった。
横浜では自宅から東方向には中華街の隣の12kmほどの元町公園の花見に往復4時間で行けたし、南には10kmほどの三渓園に行けるし、4km弱の磯子区役所、公会堂には片道40分、西にはやはり4kmほどに横浜市南部病院に1㎞10分で往復できるのだ。
ノーベル賞をもらったリチュウムイオン充電池のお蔭だ。
前夜普通の100v家庭コンセントにコードを繋いで充電すればガソリンなんか要らない。
年取っての自転車は転ぶと一大事。電動カートがお勧め。

2020年4月12日日曜日

夢想カート王国⑯カートで故郷を走る

電動カートの実力を知ってもらうために、長門市日置の実家に住んでいると想像して乗ってみることにしよう。
国道191号線を西の方向1㎞弱に、国道から少し入った駅がある長門古市の街への分岐がある。
長門古市駅まで約10分だ。自転車だと5分は掛からないだろうが、自転車には若くないと乗れないだろう。
古市の町に入らず国道を直進し日置中学校を右手の丘に見て、左手に宗重くんちがある "一円" 部落に入る辺りが1㎞、さらに直進して2叉路を右折し日置と油谷の境界がある峠までが2kmくらいだ。カートで20分。大きく湾曲した峠をさらに下り、"油谷長久" 部落の先、古墳掘割辺りで3km、人丸神社下あたりが3.5kmで昔の路程で1里弱、ここから右方向の農道をさらに進めば、わが小学時代育った町"渡場"で、約3.5km、35分である。
カートの電池容量によるが、往復するにはそのカートの最大連続走行距離20kmの機種か30kmの機種かに注意して、最高走行速度6km/時で走る時1㎞10分の見当で日暮れに気を付けよう。
暗くなってもLEDランプ前照灯はあるが、田舎道には補助懐中電灯が必要だろう。
このように電動カートの往復行動範囲は1里=4kmは倍以上の余力たっぷりである。

2020年4月10日金曜日

夢想カート王国⑮故郷は日本の近未来の包容力?

国破れて山河在り、とは誰でも知っている漢詩の冒頭だ。
一家7人外地で突然敗戦難民になり、貨物列車に詰め込まれ夜通しガタゴト運ばれ、今の韓国釜山の丘の上の女学校校庭に張られた米軍が設営した難民キャンプに収容され、引き揚げ船興安丸の船待ち数週間の後、夜の仙崎沖に停泊し、米軍上陸用舟艇で昔の先崎漁港に降ろされて、仙崎の街のエプロン掛けの皆さんの慰問のオニギリ配給にうれし泣き、米軍トラックで人丸駅に着き、渡場の母の実家に転がり込んだという小学時代に経験した僕らの世代の実感でもある。
あれ以来「ずいぶん遠くに来たもんだ」という歌みたいに老いさらばえた今、ツクヅク感謝と感嘆を持って思われるのは、養い育てて呉れた故郷の自然と人々の包容力だ。
過疎だの消滅だの言われて久しい今、新コロナウイルスが新たな世直しを迫っているように僕には思える。
人口の都市集中、安い労働力に頼ってツクルのは皆中国、大型になった船、飛行機、列車で人々は全地球を移動するという、地球規模の今日の日本人の世界観が、これまた地球規模で変わろうとしているように思う。
人々の意識が変わる時代がやって来る。
日本人の食べ物は自分たちで作る! 
日本人が使う物は自分たちで作る! 
地球温暖化を防ぎ地球を守る! 
その一環として、故郷長門の包容力を深めよう! 
かっての包容力をみんなで取り戻そう! 
新コロナウイルス事件終息後直ぐに、都会に出た人々の目は故郷に思いを馳せ、一緒に故郷の包容力の復興に働ける機会を期待する時代が必ず来ると信じる。
蛇足ではあるが、カートや徒歩の人の歩く速度で世の中見よう! 
人々の暮らしが見える! 
田の草や稲の穂が見える!


2020年4月9日木曜日

夢想カート王国⑭遊び心ある長門市の未来像

ご存知「星の王子様」を書いたフランスのサン・テクジュベリがいる。
作品の中で「見えないけれどあるんだよ」と狐さんに言わし、わが金子みすゞの詩と同じような言葉を残した。
僕らより一回り年上に星新一というSF作家がいた。
彼も未来を思わせるユーモアのある世界を描いた。
未来を語る時、ユーモアあるいは遊び心が不可欠だと思う。想像する世界が楽しくなければつまらない。僕が夢想する近未来の長門カート王国も遊び心に満ちていて欲しい。皆が遊びたいなと思うようになれば実現する。
先ず今ある運動場かスポーツセンターに業者に相談するか予算化してカートを10台くらい入れてもらう。カート運転は免許が要らないから、車の運転免許が無い人や、安全と安心のために持っている車運転免許を返上しようと思っている人が来て試乗や練習が出来る。もう一か所、例えば今年新装や改装なった湯本温泉駅と湯町のセンターに何台かのカートを配備して、観光客、温泉客の湯めぐりに試乗してもらう。
片道客のセンター間のカート戻しは小型トラックや中型ワンボックスカーで運ぶ。
こんな遊びを試行して「これは便利だわ」とか「日常自宅でもあれば活動領域が広がるわ」とか高齢市民も元気な日常になるというもの! 
こうしてJR駅中心に1里(4km)範囲に広がる長門市の有機的なゾーン未来の開拓に近づく。わが国初じゃよ。
どうじゃろうかい?やってみんかね。


2020年4月8日水曜日

夢想カート王国⑬晩年の故安部英(タケシ)先輩の手紙

大津高校の多分2年の時1953年、講堂で世に活躍中の先輩を招いての講話を聴くことがあった。
僕はお家を知らないが、先輩は網元の子息だと言う。多分優秀だった先輩の姉上もそれ以前に講話に来られたような気がするが、定かでない。
その時は東大医学部の助手くらいだったろうか?
その安部先輩の言葉「大津高児は鈍重であれ」と言われたように記憶する。「愚直に営々と励みなさい」という意味だったと思う。
それから幾星霜、1980年頃になって安部先輩が帝京大学の副学長になられたこと、エイズ血液製剤事件の裁判の中心にあったことを知った。
先輩の、病的とも言える激高する言動や意見が、世の非難を浴びたころには、まだ今日の認知症などの言葉もなく、裁判での医学的な配慮もなく一方的に非難を受けて蟄居されたように思う。可哀そうだったと思う。
事件については全く部外者だが、世の中の非難がごうごうの失意の中の蟄居だと思われる先輩に、大津高校東京同窓会の有志名で慰問の手紙を書いた。
ややあって、僕の所へ安部英さんから達筆の書簡が寄せられた。穏やかな筆致で、大津の主な後輩たちそれぞれの名のねぎらいに対する感謝の言葉が寄せられていた。世が世であれば、認知症疑いが顕著な晩年の先輩の名誉を挽回して差し上げたいところだが。
僕が手紙を預かっている格好だが、もしご希望があれば、ジェットプリンター・コピイを差し上げます。

2020年4月7日火曜日

夢想カート王国⑫油谷出身山尾三省のこと  

下の洋光台一丁目公園で、毎週月曜金曜にシニア―のグラウンドゴルフ部プレイを始めて久しい。
去年、隣町港南区笹下四丁目のマンションのシニア―クラブの面々が歩の途中、ワレワレのプレイを見てくれたのをキッカケに、毎週金曜に一丁目公園で道具は提供して一緒にプレイするようになった。不思議な縁ではある。
ある日出身地の話になり、僕が長州だといったのでFさんが「私は向津具です」と知った。
彼は同郷の僕の同級生故T君の名も知っていた。関東で同郷人と知り会うとは珍しいことだ。
僕はまた中年になってから思いもかけず読み知った、詩人山尾三省が幼時向津具の親戚で 育ったということも思い出した。
今は長門市と言う故郷の人たちが最後は屋久島の開拓地に移り住んで果てた 山尾三省という現代詩人の名を知る人が居るかどうか知らない。
彼は油谷向津具が出身地だとは自分の作品には書いていなくて、僅かに紹介欄に油谷出身となっているのみだ。
つい先年まで親戚の方が向津具に居られたと聞いた。
ネットで調べて山尾三省を読んでご覧になるといい。

2020年4月5日日曜日

夢想カート王国⑪1950年ころの長門の記憶

夢想カート王国には、場所を選んでサイクル・キャンパー中心のキャンプ施設が欲しい。
仙崎ー油谷湾の長門海洋動脈サイクル・フェリーバスに合わせて、仙崎や向津具にあれば素敵で九州、山陰、山陽のステデイ観光ファンを引き付けたい。
キャンプと言えば、中学2年生の時、世間では敗戦後の米国との講和条約(peaceーtreaty)締結が話題だった。
英語の窪田先生と組んで、英字新聞を作った。
石原小6年から始めていたNHKの小川英語会話講座で聞いていた、U.S.A.の横断鉄道セントラル・パシフィック鉄道の紹介記事を受け売りで書いた。
その仲間たち、天野君、旧姓岡崎君、??君、旧姓三輪さん、旧姓芳貝さんと窪田先生と特牛駅下車、和具の浜から手漕ぎ和船に乗り、2,3m深さの白い砂底の瀬を渡り、角島の灯台西下の砂丘の松林にテントを張り、夜になるとカンテラを灯しゴロゴロ石浜に上ってくるタコを採って、茹でて食べた。
難破船の墓場みたいで、板切れを筏にして遊んだ。
ウミウシを突いて紫色のスミを手に浴び、悪臭に船酔いみたいになった。
こんな時代もあったのだあ! 
皆な、どうしてるかなあ?

2020年4月3日金曜日

夢想カート王国⑩長門のNew海路開発

カート王国構築の一環として、長門独自の新しい海路開発はどうだろう。
徒歩、サイクル、カート利用の定期海路を作り長門の魅力を強力に発信する。
最初に全計画の理想像を想定し、先ず出来るところから始める。
車中心のフェリー航路ではない。徒歩、サイクル、カート渡し感覚の渡船を作る。
仙崎、通、三隅、湊、黄波戸、津黄、川尻、大浦、掛渕の間に漁業民の若い力を発揮して安全な生活航路兼サイクル観光航路を開発し、僻地の子供たちの社会教育、高齢者の通院、日常の買い物などの利用は無料で、サイクルやカート観光客は有料で、効率良く遊覧圏を広げる。
九州方面、山陽方面に毎日運行情報を発信して、時化や冬場などの運航情報を発信して来場を促す。
車来場の客には湯本、俵山,湯免などを含めた集合駐車場に駐車しレンタルのカートやサイクルに乗り換えて利用してもらう。
長門市全圏が海で繋がるというメリットは計り知れないと思う。
もっと海の魅力を知ろう。

2020年4月2日木曜日

夢想カート王国⑨峠と海の盆地の秘境

長門の国は峠と海で囲まれた盆地である。
油谷の大坊の橋の袂から俵山に抜ける砂利峠(ジャリガタオ)は掛渕川にそそぐ川に沿った細道だった。
石原小の時、母と2歳年下の弟と、借りた車力(木製の人が牽く荷車)3人で砂利峠の知り合い農家に渋柿を貰いに行った。
行きも登りの坂道に難渋したが、カマスに入れた柿と車力バランスの重石代わりに乗せた弟を積んで、母が押す車力の引手に入って月明りの暗い川沿いの森中の急坂を駆け下りた時の恐怖を今も思い出す。
もう一つの日置から畠(ハタ)の長い工事中のダムの奥の曲がりくねった森の道とトンネルを抜け、俵山の安田部落の親戚前の道を、そのころ親父が買った軽で初めて抜けたのは川崎から帰省した時だった。
湯本温泉から三の瀬(ソウノセ)渋木を経て美祢市に出る美祢線もトンネルもある大峠(オオガタオ)は長門一の難儀坂で、黄波戸から古市へ抜ける長い黄波戸トンネルに並ぶD51機関車がよく一歩下がって蒸気力を上げ、二歩進むような再登坂するような難所だった。
高2の時か、級友数人と社会科の堀田先生と共に、秋芳洞と発見されたばかりの大正洞に行った。
帰りは真っ暗になった峠をへとへとになって下った。
三隅から左に萩方面、右に小郡方面に行く道をとり、秋吉台の東側を回る道の小郡に近い峠は二本木峠と言ったか?は新幹線が走る頃でも大工事が続き、萩や長門に向かうバスでは乗客が長靴に履き替え、工事中の泥んこ道にハマったバスを押した覚えがある。
きれいな舗装道になってから、蕎麦屋やドライブインが並んでいたような記憶がある。
かように、昔から長門は峠と海に囲まれていて、山陰本線と美祢線が機能しないと車人種だけ出入りの僻地になる。
その上、各駅を中心に一里以内の交通の便を考えないと、中心にハコモノを整備しても、いずれジリ貧になり、全市が機能不良になる。 
湯本温泉に星野リゾート界が進出してくれても、域内に広がりと繋がりが出来ないと力が出ないだろうと案じる。
冬場は無理かもしれないが、仙崎や油谷大浦から交互に定時遊覧船を出して、観光路と生活路の拡大を図るのも悪くない。
これらのアイデアは電動カート、電動アシスト3輪自転車、〃2輪自転車、自転車を生かした毛細血管が働いてこそ活性化すると思っているのだが・・・。

2020年4月1日水曜日

夢想カート王国⑧先ずカートを使ってみよう

昨夜、夢の中でFacebook友のYさんが僕の記事に「僕らのハードルはもっと高いよ」とコメントをくれた。
僕のミミッチィ構想なんかと違いもっとでかい夢を検討しているよ、というのだろうと嬉しくなった。
僕がFacebookだけで知る長門市の現在の文化的施設はルネッサながと、せんざキッチン、木の博物館、おもちゃ博物館、総合体育センター、などが従来からの香月美術館、村田清風記念館、人丸の万葉植物園、湯本の大寧寺、新恩湯・恩湯食などが加わったと理解している。
ここらに自由に出入り出来る市民層がどういう状況かを知らないが、恐らく車を利用できる人たちだけだろう。
長門市中心に住んでいるか、車で行けるか、の人たちだけが恩恵にあずかれるのではないか。
油谷や日置に住んだ子どもの頃から正明市や仙崎で起こっている文化に触れることは少なかったと言うより出来なかった。
佐田啓二の「鐘の鳴る丘」という戦災孤児の物語映画を。当時深川にあった近松座に、石原小学校をあげて汽車で見に行ったのが唯一の思い出だ。
車の便がない人たちには、仕方なく長門病院に通院できても文化を愛でるための旅はおいそれと出来ないのではないか?バスが無いとしても、少し長いが向津具からカートで100分あれば人丸駅に着く。
ヂーゼル車で文化施設のある長門市や仙崎に降り、駅前からレンタルのカートで行けばよい。
そんなに大掛かりな金と時間が掛かるシステム構築を期待しなくても、先ず誰かが実行してみて確かめて、長門市が過疎崩壊する前に徐々にファンを増やして独自のアイデアのカート王国を育てて行きたいものだ。
手製スノコ屋根試作
手押し歩行器装着