2020年8月31日月曜日

(53)青海島共和国情報誌

 青海島共和国は旬刊で共和国誌を発行して


国内の動静を発信している。


勿論、共和国のホームページもあるが、


なかなか行き渡らない様に思う。僕も


私設応援団の一員として自分のブログ


にも共和国情報誌を発行の都度転載す


る積りである。




ちなみに、自分も青海島共和国の膝元、


至近の旧大津高校(現大津緑洋高校)


に学んだし、現浜野達男国王陛下は


同級生である。






2020年8月25日火曜日

(52)青海島共和国私設情報ページ・国立博物館開設記念編

山口県長門市にある青海島は約9千年前

の火山活動出来たと言われる岩石景観

と海文化、古くからの捕鯨文化と、金子

みすゞさんの詩にも歌われた情景と豊富

な海の幸の楽園です。

 僕の高校時代からの親友濱野達男君が

情熱を持って旧青海島小学校校舎を中心

に共和国を作り、国王に就任しました。

まだお許しを得ておりませんが、国王

陛下が下さった情報誌でPRのお手伝

いをします。



 2020年8月2日より一般公開 

開設展示します。


2020年8月15日土曜日

(51)思い出;敗戦の日

サンルームは開け放ってあった。


サンルームから防空壕に入る入り口も


跳ね上げ戸も開いていた。


朝日は燦燦と輝き、何故か風は暑くは


感じなかった。


お昼にラジオで天皇陛下の勅語が放送


になるということで、日本がこの戦争


に負けるとは思ってもいなかった。


サンルームからは町内の家の屋根越し


に、お寺があった生駒山が見えた。


オンドル部屋の西の窓からは、目の前


に父が招集されていた南山の陸軍高射


砲陣地が見えた。


外に出て、石炭置き場とその横の物置


小屋の前の塀から南山と、北の方には


東大門の城壁と新堂町の電停方向の街


並みが見えた。


お昼になって、ラジオ放送を聴きに


大人たちが集まったが、再生式ラジオ


のフェージング交じりの音は子供の耳


には聞き取れなかったが、祖母、父母、


オモニ(朝鮮人の若いオバサンのお手


伝いさん)などの大人には聞こえた


らしい。


戦争に負けた、それだけはハッキリ分


かった。


直後、町の方から「マンセー(日本語


の万歳)」の声が上がった。


驚くほど大勢の声だった。


父は外に出ると危ない ! と言って、


玄関入り口の戸を閉めて、窓も閉め


始めた。


西側の窓から、いつもの「赤トンボ」


とアダナが付いた複葉の陸軍練習機


が飛んできた。


何時ものように、威勢よく宙返りなど


を繰り返していたが、何か様子が違う


なと思っていた矢先、急に爆音を上げ


て真っ逆さまに、町の中へ消えて行っ


た。黒煙が上がった。


ハワイ・マレー沖海戦の映画を見に行


った劇場の方だった。


「自爆だ」と父が言った。


「マンセー」の声もひと時収まったか


に見えたが直ぐに復活した。


驚くほどの速さで、家の周りにも


カーキ色の見たことの無い軍服と、


色紙で折ったような小さい四角帽を


チョコンと頭に乗せた若者たちが集


まって来た。


地下で用意してきた、今で言うボーイ


スカウトの制服だった。


そのうち「路面電車は朝鮮人に占拠さ


れて、日本人は乗れない」とか「日本


人が金品を強奪された」などのデマが


聞こえてきて、日本人はビクビクし


いた。


オモニも旦那を連れて来て「日本に帰


る時は家具を下さい」と言う。


売れと言うのではない、どうせタダだ


と見くびっているのだ。


父の会社はアジアの日本の植民地を


経営する、東洋拓殖株式会社(公社)


(略称;東拓)だから敗戦で襲われる


恐れはあっても、自動消滅みたい


もので資産は現地に残るだけで危害は


ないから救われたのだろう。


1991年に友人YNさんと、この家に


再会した時もサンルームも、西側の窓


も、石炭置き場と倉庫小屋も残っていた。


訪ねて行ったお礼に、ホテルの花屋


さんから、お祖母さんに贈っておいた


花束のお礼に、翌日流暢な英語だけ


お孫さん夫妻がロッテホテルに来た時


に、持参してくれた、我々の引き揚げ


後に残っていた分厚い青磁の小皿が、


わが家の宝物になって、今も故郷の


仏壇脇に鎮座している筈である。




2020年8月4日火曜日

㊿ The youngest friend of main.

もう10年近くなろうか?箱根仙石原の

リソートクラブに通っていた頃、小田原

から桃源郷行きのバスに乗るのが普通

だった。30分に1本のこのバスは混む

ことが多く、発車予定30分前のバスに

乗る積りで並んで待つのが普通だった。

発車間際に大きい旅行ラゲッジ押した

上に、大きいバッグ2個を抱え、首に

長いレンズを付けた一眼レフを下げた

明らかに中国人と分かる大きい体格の

色白の青年が乗って来た。

当然のように空いた席がない上にコロ

付きのラゲッジは箱根の坂を上がる時

は椅子に固定しなければ、揺れで走り

回るから何処かへ固定しなければなら

ない。

僕は取り敢えず英語でラゲッジを僕

の席の取っ手に結ぶことを伝えた。

大きい手荷物も僕の膝の上に置か

せた。聞けば上海から東京の仕事

で着いたばかりで、第一日に箱根

に泊る計画だと言う。

日本は初めてではないらしいが、

いつもは仲間と団体で来ること

が多いので、今回が単独で歩く

のが初めてだそうだ。

途中で降りる人もあって、バス

が空いてきて、やっと車窓の景

色などをワイフ共々、説明して

いるうちに仙石原で我々は降りた。

バスの中で自分のホームページの

URLとメールアドレスだけは伝え

ておいた。

メールを交換しているうちに、彼

がマレーシアの華僑の息子でクア

ラルンプールの大学を出て上海の

米系会社のソフトエンジニアーを

勤めていることが分かった。

日本が好きで、余暇があると全国

の温泉や日本の名所に行っている

と言う。

それからというもの、箱根や伊豆

や湯河原の温泉を案内して歩いた。

マレーシアにはご両親も健在だそう

で、年は僕より若そうだった。

親は早く所帯を持てと言うそうだが

まだまだ一人で旅行している方が良

いと言う。

熱心に僕のホームページのエッセイ

を残らず彼のタブレットにストアし

て、日本語の勉強に使っていると言

う位僕を信奉してくれている。

日本に来るたびに、僕の趣味を忖度

して中国の牡丹の掛け軸だとか現代

の画家の大判絵図だとか、一番驚い

たのが中国の古くて分厚い蘇州絵図

一巻を抱えて日本に持って来てくれ

たのである。

現代日本の青年で、年寄りの友達に

古典の蘇州絵図大冊を携えて来れる

人がどのくらいあるか、想像もつか

ないが、あんな大冊の古典が買える

財力と言い、手土産にする発想を持

てる教養と言い、年寄りの僕が驚く

くらいだから、そんなに多くは無い

だろう。

僕が何かにつけ「ありがとう」と言

うと「そんなこと言わないでくださ

い」と言う。

目上の人から「ありがとう」と言わ

れる習慣が無いのだ。

僕との会話は主に英語だが、彼の使

う漢字は台湾の繁字体で、僕が筆記

文を書くと非常に喜ぶ。

論語の文を書いてやると、話が弾む。

5,6年前に僕の年が78歳、彼の歳が

39歳、丁度半分になった。

最後に案内したのが富士山で予てより

SNSで知古であった富士吉田市の温泉

付き貸別荘Pクラブに案内して、この年

のシーズン最終のバスで5合目まで案内

した。PクラブのTY社長にもずいぶん

お世話になった。

これを最後に、この友人に体力的にも

ついて行けない自分を感じ、決別を申

しでて、了解してもらったと思っている。

思えば上海で米系会社で働くマレーシア

の青年と知り合えて、親戚の様に行動を

共にするなど、非常にラッキーな出会い

であった。

C.Cさん、ありがとう。

いや、何時までも忘れないよ。

ご両親にもよろしくお伝えください。


2020年8月1日土曜日

㊾夢は正夢?

気分が週末は特にキツイ。

何もすることがなくなるから。

2nd stroke の前は何かとすることが

あったような気がするが今はイケナイ。

体に力が無いと、何もやる気がしない。

詰まり気で負けているのだ。

座り続けていると、腰が痛い。

つい、脇のベッドに横になる。

と、眠くなる。夢を見る。

今、ネットでは仏像のレプリカが売れ

ているそうだ。

夢だから、真偽は分からないが、本当

なような気がする。

コロナ禍で不安一杯の人には、祈り

が必要だろう。

約20年前の一頃、韓国に行くと松

に手で彫った高さ30㎝程の観音像

がお土産に沢山出ていた。

僕も買ったが、ふさわしい人に

上げてしまった。

故竹中敏洋さんの恵庭・盤尻の

アトリエ裏の川のほとりに立って

いたアニール確認用の静内真歌

(マウカ)のシャクシャイン立像の

1/2像が思い出されて、祈りを感じた

ように、祈りに何かアイコンが必要

なのかもしれない。

西洋彫刻も考えられるが、コロナ禍に

は仏像がよく似合うような気がする。

月曜日からはリハビリ病院に通って

みる積りだ。

気が取り戻せれば、すべてが動く。