2007年10月31日水曜日

七賢人事件

 研究所の室長は穏やかで面白い方だった。われわれにとって「世紀の」と言ってよいほどの大事件だったが、ビリビリとしているわれわれを笑わせるほど余裕がある方のように見えた。われわれが数社の力を合わせて開発中の機材が装備されるかされないかをテストされるノッピキならない局面に達していて、明日はそのテストの日だという夜は昼間一日中リハーサルや問題解決に夢中になっていて疲れ果てて余裕などあろうはずもない。ここ1週間というもの近辺の旅館に泊まってここに通いつめているのだった。
 「七賢人」といわれる有識者の面前での首実検であるから、失敗など許されるものではない。山ほどあった問題点も少しずつ解決してきたが、まだ完璧とは行かなかった。が、ついにその局面の日になったのである。隊員が操作するFCS、LCHなど入場から機材展開、飛翔体入りコンテナー搬入、コンテナー開、飛翔体自動装てん、擬似目標機飛来、FCS捕捉、ロックオン、LCHスレーブ・・・・・・一連のシステム動作を披露する過程で、何度かに一度は自動装てん動作の途中で飛翔体のシューをキャッチアップする動作が上手く行かない事象が出ることがあった。隊員はすでに諸試験に参加して熟練している。とはいえ、問題が発生したとき応用動作で対処するほど期待はできない。
 「民間人」のうち応用動作に長けた隊員服の男を1人、控えのテントに待機させておいた。
 擬似発射行程が進み、装てんになったとき、隊員の動きが一瞬止まった。待機の助っ人隊員がLCHの背後、観客からの死角になろうかという目立たない位置に予定していた伝令のようにスルスルと走り寄り、シューのキャッチアップにオマジナイをかけた。発射準備行程は何事もなく進んだ。
 システム展示は大成功であった。七賢人の「おおむね良好」という評価もいただき装備化のきっかけになった。あの問題点もまもなく解決できた。
 その夕、研究室に戻られた室長はお疲れもないかに見え、非常に喜ばれてわれわれをねぎらっていただいた。工学博士の室長はいささか武人離れの面影があった。やがて教育隊の校長に栄転され、官舎に隊員用のカラオケセットを設けるなど、親しく部下の育成にも努められておられると伺い、そのうち伺おうと思っていた矢先、官舎で急逝されたという訃報に接した。 懐かしく思いで深い学者肌で磊落な陸将であった。

2007年9月27日木曜日

丹後ちりめん

 まだバイクと呼ばず自動二輪と呼んだ時代、隣町の(と言っても、袖志の町から幾岬も離れた)自転車屋で中古の50ccを借りた。休日に、丹後半島を1周してみたかった。
 レンタカーで網野町の小浜というところにあるその自転車屋を出発した。自転車に毛が生えた程度の自動二輪はスピードもなく、スピードを出す気もなく、後ろに積んだボロの荷カゴに、宿の民宿で作ってもらったおにぎりを入れて、曲がりくねった岬みさきを巻くように進むガタガタの未舗装の自動車道路を走る。まだ、その頃の道は断崖絶壁の上にあるところも多く、木が生えてなければ尻込みをするような場所も珍しくなかった。車で走っても対向車が急に現れるのは怖いのに、小さい二輪車では心細いことこの上ない。やがて自分たちの仕事場、袖志外れの自衛隊駐屯地を過ぎ、袖志の町を過ぎ、初めて経が岬に着いた。その頃でも京阪神から車で来る観光客がボチボチ増えているらしかった。ヨットの形をした小さい土産の置物と小さい飾りペナント旗を買ったのを覚えている。
灯台は白くて新鮮だった。
 経が岬より先は、又ガタガタ道が続き、やがて伊根の町並みに着く。海上に建っているような屋内に船が舫っている。これから先は、内陸部に入る。地図を片手に走るのだから、どこをどう走ったのか覚えがない。ただ稲刈りや稲がさおにつるしてある光景が思い出されるところを見ると、もう秋口になっていたんだろう。大電力送信機の試験は成功だったような、失敗だったような、官が意図しているような結果ではなかったようで、自分以外の人に引き続がれてまだ続く。
結局、丹後半島の思いで作りの小旅行だった節がある。丹後半島の村を通りかかると織物機(ハタ)の音が聞こえてくるところが多かったような気がする。丹後ちりめんの産地であった。白の(未染色の)ちりめん反物が安く手に入った時代である。後で聞いた話だが出張者の1人が、見事なちりめんが格安だったので、2,3反買っておいたそうである。ずっと後になって、娘さんの嫁入り着物を作る段になってたんすの奥の白い反物を思い出して、着物屋に見せたところ、着物屋がビックリした。
今は手に入らない織物で、一反で染と仕立て代を出しましょうということになったという。
そんな時代だったと思い出すと、自分もはるばる旅してきたもんだ!と感慨一入。こちとらは、焼き芋を買って食べたような気がする。
 この後、新しく出来たFCS開発課なるもの他の仲間3人と共にに転科されて、以来SAMの開発に入り浸って会社生活を終えることになろうとは、チィットモ気がつかなかった。人生不思議といえば不思議なものである。

2007年8月27日月曜日

福井県三国町外れのパラメトリック・アンプ

 福井の気象レーダーにパラメトリック・アンプをつけてノイズ・フィギャーを改善し、観測範囲を広げようとしたのは昭和何年ごろだったろうか。福井の測候所の気象レーダーは、この後移転をしたようだからここでいう福井の気象レーダーは、昔のレーダー・サイトである。有名な東尋坊が近くにあったような気がする。
 初めて米原で北陸本線に乗り換え、敦賀を経て福井県の古い港町三国町に降りたK先輩(主任になられる前だったと思う)とパラメトリック・アンプを担当した新前の自分との二人は、駅前から古めかしい神社の鳥居を眺めたり、軒の低い町並みや、道路下に屋根を並べる港町の景色を眺めながら、予約しておいた宿に着いた。雪こそ降っていなかったが、寒い師走の頃だったような記憶がある。
 宿は商人相手の木賃宿といった風情があり、幸いその日は宿泊人のいなかった隣部屋とは襖でつながっていた。寒いので、外に出て散歩するというような気にはとてもならず、K先輩のお好きなお酒のお相手をして過ごした。その頃、自分はまだ晩酌の習慣もなく、今のような呑んだくれでもなかった。しかし、学生時代から酒は嫌いではなかったようだし、学生の頃呑むと頭がくらくらする、あるいは天井が回るというようなこともなくなっていた(あるいは酒が粗悪だったのかも)。
 パラメトリック・アンプを付けるといっても楽ではなかった。まず計測に使うSG(ヒューレット・パッカード社=hp社のマイクロ波信号発生器)やシンクロスコープその他の計測器類をレーダー・タワーに担ぎ上げなければならない。タワーは5階建てほどの高さがあり、内部ラセン階段でレーダー室に至る。
レーダー室は設置してあるレーダーを除けばそれほど広くはなく、測定機器類を床に並べると、文字どうり足の踏み場もない状況になる。
 自分の作ったパラメ(パラメトリック・アンプのこと)も、そのころの技術力に漏れず周波数帯域も広くなく、機械的なキャビティ(共鳴器)によっているので振動や温度変化によって特性が変化しやすい特性があり、われわれは温度変化に対処するための恒温装置をつけていた。
 特性の調整と温度特性を計測するのに、ほとんど徹夜であった。Kさんは福井の地酒1本をレーダー・タワーに担ぎ上げていて、それを部品棚の一角にデーンとすえ作業の合間にコップ1杯キューン。寒いので暖房代わりである。自分もキューン。朝になってやっと作業が終わる頃、酔うこともなく地酒一本は見事に空になってしまった。
 後にも先にも、宇宙開発などを歴任されたK先輩と地酒で暖を取りながらの徹夜作業はこれきりであった。

2007年8月24日金曜日

多機能・多目標の発想

 フェーズド・アレイ・アンテンナの特長を生かす多機能・多目標化の要求に応えるには、すでに前回の特殊送信機の実績から、タイム・シェアリング方式しかないと考えてはいた。ただ問題は捜索レーダー・機能と追尾レーダー機能とを時分割で行うという「多機能」を実現するには困難な問題があった。

 毎日毎日、隣の課にいた入社2年後輩の秀才O君とあれこれ考えあぐねていた。O君は大学時代からコンピュータ工学に長けていて、デジタル時代の草分けのような存在だった。現に隣の課も、そのころ台頭してきつつあるコンピュータとデジタル関連機器の設計をしていた。

 捜索レーダーは捜索する範囲の絶対レンジが不可欠であるから、普通はレーダー送信間隔は(パルス送信間隔)距離150mあたり1μ(マイクロ)secの時間が必要である。すなわち60kmの距離範囲をカバーするには、600mあたり4μsec、60kmを監視するなら400μsec必要になるのである。
 その間に追尾機能を入れるとなると、工夫が要る。追尾も間歇的に続ける必要がある。この問題はまだ前例がなく、やってみなくては解らないとO君と覚悟してトライした。さすがに上長たちも心配だったと見え、アメリカの協力会社に追検討を依頼してくれた。結果は、うれしいことに、それ程の危険要素はなさそうであった。
 以来、何年かはいろいろの問題点解決と調整で、曲がりなりにも今をときめく旧SAM-Dといわれたレーダーと時期的には遜色ない発展をしてきたと自負している。遠い昔の話になったが。

2007年8月17日金曜日

ドライブレス・ドライブ旅・信州

 東京オリンピック開催の前の年、軽井沢方面へドライブ旅行をした。
どうして年度を覚えているかというと、今の環7が都内初の高速道路として完成し、SATさんの新型のコロナに乗せてもらって見学に行ったのが印象的だったからである。
 週刊誌のグラビアに、まだ車が走っていない「若林」あたりの緩やかに昇る跨線橋の風景が、新鮮な現代風な都会を象徴していた。
 自分はまだ自動車免許証は持たなかった。と言うより、それまで関心がなかった。
その時環7見学のメンバーは、新婚間もないSATさん、ほぼ同期のNISさん、その後輩IGAさん、一番若いNIWさん、それと私。皆は免許証を持っていた。
 夏休みになって、5人でドライブ旅行に出発した。SATさんのコロナと、NISさんの古いセドリックに分乗して地図を頼りに前橋、熊谷を通ったような気がする。その頃は車も少なく、順調に進んだ。
 大変なトラブルは松井田を過ぎ、碓井峠の上り坂で起こった。セドリックがオーバーヒートでダウンした。もともとNISさんが学生時代に自動車部で使っていたという中古車で、あちらこちら不具合があるものを騙し騙し使っていた車だと言う。
オーバーヒートの原因はラジエーターに水漏れがあったからで、ラジエーターは修理できないから水補給でしのぐことにし、水は水筒の水くらいでは足らず時間をかけて自然冷却を待つしかなかった。
真夏の自然冷却は厳しかった。幸いコロナ組がバケツを持ってどこかへ水汲みに行き補給することを思いついた。碓井峠の途中は水汲み場なぞなかったから、ふもとまで降りたものだろう。
 やうやく、軽井沢に着き、ラジエーターの応急修理、といっても水漏れを防ぐ繊維パテを水に入れるくらいだが。初めての帝国ホテルでたっぷり水を補給したが、水漏れは続きどこをどう通ったか覚えていないが山田温泉で交渉の末、格安の大広間に泊まることにした。
朝食のご飯でお変わりをしてお結びを作り、昼弁当にしたし、前日から後部ドアが閉まらない不具合があったので帯紐を1本失敬してドアをピラーにくくりつけたりした。
 そのうち、セドリックが動かなくなった。調べてみると電気系だということがわかった。自動車部の出身とあって、分解してみるとセル・モーターのブラシが磨耗していることがわかった。電話を探し、自動車屋に聞くとブラシ・カーボンは須坂にしかないというので、コロナ組が買いに走った。山の中で待つこと?時間、日暮れ近くにブラシが到着し、エンジンがかかって出発した。
夜中になって川崎・中の島(NISさんが住んでいた?)に着き解散した。それからどうしたかは覚えていないが、いっぺんに自動車の構造に詳しくなった夏休みの思い出である。

2007年8月11日土曜日

パラメトリック・アンプ

 入社数年はオーストラリアのラジオゾンデ追跡レーダー提案の失注やF気象レーダーの失注や大きいプロジェクトの失注が重なり大量な同期入社の面々も仕事がない日が続いた。幹部はさぞ大変であったろう。
 しかし、新入社員は気楽なもので「去年の理科系採用300人に対し今年は600人採用だから俺みたいな半端モンが入ってきたのさ」と嘯いているしまつ。そのころ受注したECM(Electric couter measure)の研究の仕事をやった。毎日研究所の図書館に通って英文の米国通信学会誌やElectronics誌や、Microwave誌、などを読み漁っていた。しかし、真空管からトランジスタにと世は目まぐるしく変わり、マイクロ・コンピュータが出てくるなど勉強の範囲が拡大する上に、大して勉強もしていなかった新入社員には驚きばかりであった。しかし、何とか研究報告書をまとめて提出したが、今考えると冷や汗ものだった。
 そうこうしている時、有名なベル社のB.S.T.J.誌(Bell System Technical Journal)に宇宙特集が乗った。確か当時同社に居られた日本人U博士も執筆されていたと思う。宇宙からの雑音を受信するのに極めて低雑音指数の受信機が必要というものだった。なかでもパラメトリック・アンプはその中心的論文だった。研究所では1年上級の故・村上純造さん(確か尾道から東大に。高校時代フルブライト交換留学された秀才研究員で、頭の良さに舌を巻いた。惜しくも腎臓を患われ早世された。フルブライト時代の同窓生の奥さんが透析闘病のため看護士になられたと聞いた)の指導を受けわれわれも実験を始めた。
先ず手始めが宇宙用ではなく、L-bandのレーダーFPS-1(米軍の可搬型レーダー)に装着して探知距離を改善するのに利用することになった。
 同軸キャビティに同軸フィルタ構造を組み込み、ポンピング励起すると負抵抗になるダイオードを附け、片方からL-bandの2倍の周波数のポンピング周波数で励起する。立体回路で、しかも手作り、周波数特性もそう広くないので、廊下やテーブルの振動によって特性が変動するなど、なかなか一筋縄では行かない。優秀な工業高校出身のN君と一緒に日夜実験に取り組んだ。
 そのころ、FPS-1の通常ダイオード検波器の雑音指数は良くて9DB(デシベル)、これに対しパラメトリック・アンプをつけると1.5DBになり後段の影響を差し引いても7DBは改善され、雑音指数の4乗に逆比例するレーダー探知距離も1.7DB(=1.5倍程度)に改善されるはずだ。
 特性を達成した機材納入の前の日、嬉しさのあまりN君と機材の底面目立たぬところに記念のイニシャルをポンチで打ち込んでおいた。
 千葉の自衛隊の学校教室に納入になり、秋には銚子の海に面した原っぱで別名「菊演習」に技術支援に労働借り上げで同行した。
このとき、生憎夜中に台風が襲来し、米軍払い下げの、兵員40名くらい収容の円形の大幕舎の中央の柱に取り付けた吊り輪の鎖が、強風のため、一部音を立てて切れた。T2佐が退去を命じ風雨の中、寝る前にたたんで置くように命じられていた衣服を整え幕舎から出て、トラックで銚子市役所に避難した。市役所のテーブルの上などに寝て朝まで過ごした。
 翌日、台風が去ってからN君と乗ってきて野原に置いたままのN君のお兄さんのセドリックを取りに行った。忘れてしまったが、多分自衛隊の支援を受けたのだろう。古きよき時代だったと思う。

2007年8月8日水曜日

コーナー・リフレクター作り

 同じレーダー課に配属された新入社員(6人だったと思う。特別に多かった。受注予定プロジェクトが多かったのであろう。だが、予定は見事外れたが。)のうち2,3人は(自分とF君以外は覚えていないが)はコーナー・リフレクター作りをやることになった。といっても、それを見たことも聴いたこともない者ばかりだった。第一、上長も知らないのから仕様がない。

 先ずMIT(マサッセッチュー工科大学)のテキストを読んで形を類推した。が、難しい形は駄目、見よう見まねで作りが簡単な四角錐の底面を対角線で4等分して電波反射体で4つのコーナーに分け、底面を上にして吊るすという形にした。大きさは約30cm、C-band(5000MHZ帯)での反射率というか実効反射面積はいくらになるかはよくわからなかった。レーダー側への投影面積(c-band換算した時)と思われるが何か基準値と比較しなければわからないといえる。
 で、この実験も結果はよくわからないでいる。ずっと後になって、初期のジェット練習機T-33の実効反射面積がレーダー性能要求側(言わば官側)の標準値として1平米(1㎡)以上と換算されたり、評価される側(会社ないし民間側)としては1㎡以下、それも0.5㎡以下と思われる意見としばしば食い違ったのとよく似て立場で大きく見えたり小さく見えたりするのだ。標準コーナー・リフレクターがあれば簡単だがいろいろな見込み角度に応じた測定値はデータとして見ることがあるものの標準値というようなものにはなっていないようだ。球状の標準金属反射目標があるのかもしれないが・・・・・。
 余談だが、近年も最新鋭のF-22ジェット戦闘機の技術機密情報を同盟国それもイギリスにでさえ開示しなくするという米議会の動きに軋轢が増えているというが、どうも機密情報はステルス構造にあるらしい。が、初期の空力的に構造的に無理がない、驚くほどスリムなT-33の機体は反射率から言っても驚くほど小さいかった印象がぬぐえない。国産のF-1やファントムF-4などと比べると大きさも違うが大きさ比より小さいような気がする。
 長ーい目で見ると、レーダーで見えない塗料を変えてみたり、実効反射電波が位相的に相殺されるような形を選んでみたり、いろいろ研究されてきたステルス技術だろうがレーダー波長に無関係に、となると軽くて表面構造が電波的に多層構造であるのかもしれない

2007年8月2日木曜日

台風とコーナーリフレクター

 タコ糸コーナー・リフレクター騒ぎを起こしてから、われわれ新入社員を含めたチームは本物のレーダーを使って試験をすることになった。
 ちょうど定期オーバーホールの時期になっていたMPQ-10というMSA援助(確か米軍の援助協定があった)でもらった2次大戦時代の高射砲システムのCバンド(5000Mhz帯)トラッキング・レーダーがあった。工場に入る前、自衛隊の訓練に参加してこれを使うことになった。日時計画は変更が出来ない状況だったが生憎計画の試験日には台風が来ることになっていた。
 部隊から程近い久里浜の背後の丘の上の広い畑の中で借り上げた空き地にレーダーを置き、準備をしてからタコ糸に風船つきリフレクターを上げた。風が強くリフレクターはほとんど真横に流れた。
ついにはタコ糸を諦めて切り離し、1回きりの試験になるがこれを追尾することにした。だがリハーサル無しで操作も満足に出来ない追尾レーダーで嵐の中で目標を捕らえるのは至難の業、この後もこのムツカシさを何度も味わうことになるのだが、思い出せば血気盛んの向学心が懐かしい。
このときの試験結果は覚えていないが、久里浜のあの辺りには今は畑などどこにも残っていないように見える。多分昭和40年の前38,9年じゃないかと思う。

 今だから白状するが、装置の防水ケーブルの接栓のゴツイ蓋をレーダー回転ペデスタルにはさんで潰してしまったり、直径2mはあろうかというアンテナを建物のシャッターにぶつけて凹ましたり、冷や汗ものの思い出があるのだが懐かしいレーダーである。

2007年7月30日月曜日

コーナー・リフレクター失敗談

 入社後すぐに与えられたトラッキングレーダー提案書作りの一環として文献にあったコーナー・リフレクターの反射率を測定することになった。hp(ヒューレットパッカード)社のSG(Signal Generator=信号発生器)とマイクロ波受信機とを用意して社の6階ビルの屋上でリフレクターを高い鉄塔支柱に吊り下げ反射電波強度を測定しようとした。
 今考えてみると全く無謀な試験である。SGの1mw(ミリワット)程度の送信電力を発信しアンテナを向けたコーナー・リフレクターから反射される信号強度など普通の市販の受信機で受信される電力ではないのだ。早く言えば、この程度の試験でも既にレーダーの域に入り大きい送信管から発射される数キロワット以上の送信電力があって、受信機はS/N(信号対雑音比)の優れた受信機を要するのだ。しかも屋上で至近距離で測定しようというのは土台無理な話である。例えば150m離れた距離からの反射を測るには1μs(マイクロ秒)の分離をしなければ自分の送信と重なってしまうから、観測できない。つまりがレーダーの原理を知らないで無謀に始めた実験だったのである。
わが国の戦後レーダーの揺籃期だったものと見え、怖いT技術部長も新入社員のやることを見守ってくれたのである。夜中になって実験を終え寮に帰るときには大きい外車のタクシーを用意してくれた。ふわふわしたクッションの大型の米車の後ろ座席に不安そうに乗っている新入社員の姿は滑稽と言っても良かった。
 距離を離せばよいと知ってから、コーナー・リフレクターに気象庁のラジオ・ゾンデ用の風船を手に入コーナー・レフレクターを吊り下げ屋上から凧糸で凧揚げのように風に乗せて流した。風船は工場から鹿島田の町の方向に流れていったのは良いが2kmくらいで町の中に落ちた。青くなって風船の落ちた場所に行って回収したは良いが、工場から街まで凧糸は残ってしまった。手繰ってもなかなか引き寄せることは出来ない。糸はバス道路を横切り、他所の屋根を通り、店先を通り、自転車が通る道路にも掛かり、どうにもならない。鋏を持って片っ端から糸を切って歩いた。今こんなことをしたら問題になるところだろうが、世の中大らかだったのであろう。糸が落ちた道筋に自分の会社の女子寮があり、どうしても屋上に引っかかった糸を切りに上がりたかった。管理人さんに頼み込んでおそるおそる上がったはよいが、非番の女子工員さんたちに見つかって大騒ぎになって、ホウホウの態で逃げ帰った。
 お蔭でレーダーが何たるかを身をもって知ることになったのは不幸中の幸い、赤面の至りだが今になって白状するのである。

2007年7月29日日曜日

試験場のグラタン

 わが国のロケットなどの試験をする新島射爆場で住民が賛否二つに割れて試射を受け入れるかどうか争ったということを語りとして聞いた頃、われわれは新しい誘導弾の開発に取り掛かった。
 島の南端の海を見下ろす峠にはその時の反対派スローガンを掲げた大きい碑の建築物が建っていた。椿と流人の伝説とやさしい人情の島は事件でずいぶん変わってしまったらしかった。
 
 われわれはファイヤーコントロールレーダーの試作機第1号を始めて島に持ち込んで試験を始めたばかりであった。われわれレーダー班より数年前から誘導弾(ロケット)部分の試験は既に始まっていたので言わば仲間内でも後発だった。後発組は同じ社の中の者でも担当部位間で陰に陽にいびられるものである。ましてやそれぞれのトップ同士が犬猿とまで行かなくてもそりが合わない場合は始末が悪い。部下までも染まりやすい。
 
 それは別として官費借り上げの試験隊は旅館や民宿に分散して宿泊した。最初の年は島で唯一のF旅館に泊まった。島に慣れた組は試験担当の各班で民宿に泊まった。朝試験場に行くトラックがやってくるのを旅館前のくさや店前で待っている。てんでに乗り込むと、次の民宿にまわってまた人員を積み込む。山のふもとの試験場本部に寄り車は山道に入る。新島特有の砂地の道は雨が降ると雨水で流れ溝が深くなったり崩れたりする。米軍のスクレイパーらしき機械でしょっちゅう補修する。
 山の途中に昔の新島噴火口があって抗火石の噴出を思わせる。噴火口の近くから試験場のある岬の台地を見下ろす峠に着く。台地の先端に灯台があり、沖に大きい無人島早島が見える。

 レーダーの試験はこの岬の一角から無線操縦の無人標的機を飛ばしそれを発見し追尾動作でロックオンする。試作1号機はフェーズド・アレイ・アンテナで電子走査して目標を発見し、これにロックオンして追尾をする。追尾系は機械追尾であるから大きくて重いアンテナが動くので土台がしっかりしなければならない。残念ながらこの点では小トレーラー移動式の1号機には無理があった。追尾機能も電子化を進めることにした。

 ところで、官費で雇われ人員の試験場での昼食は官側試験隊のように部隊食がないので自分たちで弁当を手立てする必要がある。しかし、この頃のコンビに弁当などというものがない時代、宿でおにぎりを造ってもらうか前の夜のうちにパンでも買って置くしかない。次第に不便さに耐えられなくなってわれわれの班は登山用具を持ち出して自炊することになった。最初は飯だけで後は缶詰がおかずだったが非番の連中が得意の料理を作るようになった。官側の昼食のおかずに負けじとばかり段々腕を上げカレーなどは朝飯前、ついにはクリームグラタンやマカロニグラタンが出来るようになった。料理の得意なコーちゃんが腕を振るった。良い匂いが試験場に漂い官側も放っておけなくなったものと見え、部隊食を有料で供給してくれるようになったので、試験場のクッキングはこれきりになった。
 
 漫画みたいな誘導弾システム開発初期の話である。

2007年7月24日火曜日

電気通信学会の思い出

 入社の頃、最初に与えられた仕事は、オーストラリア(多分気象庁)が募集中の気象ラジオ・ゾンデ追跡用の追尾レーダー(トラッキング・レーダー)の提案書書きであった。しかし、わが国のレーダーも緒に就いたばかりで、その頃の国産では唯一M電機(株)の渡部さんという人の書いた電気通信学会(そのころはまだ電気学会と分離していなかったかもしれない)の試験機と論文のみが知られていた。
実績のないわれわれは、せめてデータだけでもとばかり、久里浜の陸上自衛隊通信学校のMPQ-10という米軍が2次大戦で使用した追尾レーダーを使用させてもらってデータを取った。このレーダーはSバンドの組み立て式捜索レーダーFPS-1(だったと思う)と組にして高射機関砲システムの基幹をなす有名レーダーだった。久里浜の台風の日にコーナー・レフレクタを飛ばしての実験のことは別に書いたかもしれないが、ここでは割愛する。
 
 次に富士山気象レーダーの設計チームに加わったが、わが社は受注できなかったので再び仕事が変わった。すでに仕事が始まっていた羽田空港ASR(空港監視レーダー)の手伝いをしながら日を過ごしていた。このころ印象深かったのはASRのアンテナ・ペデスタル(基台)のメインテナンスのため羽田の旧タワーに登り空港エリアを一望し「この空港の発着航空機を見守っているのだなあ」と感慨を深くしたことであった。

 そうこうしているうちに、箱根観音山のARSRレーダー(空路監視レーダー)の受注合戦が始まった。
このレーダーはLバンド(波長は約24,5cm)でここでも国産技術はまだなかった。自分は担当の一員になって特にマイクロ波部品の開発をするよう命じられた。大電力マイクロ波の送信-受信切り替え器(サーキュレーター)と終端器(ターミネータ)であった。特にサーキュレーターはLバンドの大きい銅の導波管の立体回路でフェライト移送器を含む如何にもマイクロ波回路らしい知恵の結集のようなものだった。フェライトは自前の研究所で栗原博士や徳永さんたちに徹夜で焼いてもらったり、研磨も特別に工程に入れてまらったり、実験も徹夜などして作り上げた。
 
 仙台の東北大学工学部で電気学会が開かれた。自分たちはサーキュレータの論文を提げて参加した。あのころまでは学会も盛況で各方面の技術動向も風通しがよかったような気がした。
各社の技術者にも知り合えたし、なにより先端にいるという励みになった。しかし、仙台を最後に学会には無縁になった。学会の範囲が広範囲になったこと、企業秘密というか先端技術を学会でオープンにする意味がなくなったこと、などが原因であろう。
 これに比べると米国の技術雑誌例えばマイクロウエーブ・ジャーナル誌、マイクロウエーブ誌など技術誌はただ同然で先端技術を公開し、これによって米国の業界に部品発注が来ると見込んでの自信満々の政策かもしれないが、この面で世界に及ぼした影響力は絶大なものがあったと思う。日本もこのお陰をこうむっていると思うと、いつの日にかある面ででも日本にもこういう世界をリードすることが出来るのだろうかと、思わざるを得ない。あるいは環境改善技術、原子量力発電・・・・・・・。

 そのころから業界は深い秘密と各社各様の方針による閉鎖社会になってしまったようだ。技術者たちは発表の場を奪われ、若者たちの理科嫌いを造出する一原因になったようだ。要するに理科系などは面白くないのだ。もっと若いうちに仕事を変えて置けばよかったと思うこともある。

2007年6月17日日曜日

はじめてのフェーズド・アレイ・アンテナ

経が岬を望む「かみなり岬」に据えた実験装置は当時画期的なフェーズド・アレイ・アンテナを備えていた。断面が10mm×20mmほどの導波管(マイクロ波伝送線)を長さ30センチに切り両端に四角に開いたマイクロ波アンテナをつける。中にはマイクロ波フェライト移相器を3ビット分入れてある。これを外付けの移送器ドライバーで駆動して電波の通過時の移相を0~360度制御しようとした。移送器の制御はマイクロ秒ていどの早さが要求されるので、フエライト移相器を磁化するのに駆動コイルの巻き数を増やすわけには行かない。巻き数がないから勢い大電流を瞬時に流す必要がある。こんな時便利なのがコンデンサーである。その当時国産化が出来たタンタル・コンデンサーを使用した。
 ところが短絡に近い大電流供給をタンタル・コンデンサーに課すものだから、コンデンサーの損傷は莫大、駆動半導体の故障も毎日のように交換を要した。この移相器素子が1,100個もあるので性能が落ち着くまで冬も夏も会社のアンテナ試験場で寝泊りした。
 この装置の送信機は送信管担当が自前で開発した大電力TWT送信管を使った。当時大電力管はアメリカのリットン社が有名であったが得意の要求を満たすことは出来なかったのである。
 この送信管は水冷であるため移動する際も付属の水冷却器を持って歩いた。電極電圧が30KVでおよそ1アンペアの電流が流れるのでとてつもない現象が観察された。秒単位の送信機動作で白いシリコン耐圧ケーブルが実際に波打つのである。教科書にはフレミングの左手法則といって2線間に働く力は目の前で見るほどには大きくないのだが、1mほど離れた二つの線が引き寄せられては離れるのである。だから、工場の配電設備も変更しなければならなかった。この装置を動かすと、工場の電源電圧大きく変動し、給料計算をしていた大型コンピュータが誤動作して通常の10倍の給料が書かれたり、半分になった人もいたり、大変な事態になった。
 水冷の冷却後の廃湯は温泉になるような豊富な湯で、そのころから温泉オウナーになる夢があったのかも、と考えていたのかもしれない。
 経が岬では小牧から飛来するファントム機の出すレーダー電波を探知しフェーズド・アレー・アンテナで位置を知りその同じ電波周波数でレーダー探知を出来なくする実験をした。非常に良い試験機であったが時代に先駆けすぎたのと、大きい、経済性がないなどの理由でいつの間にか忘れられてしまった。その数年後、絵に描いた餅であったSAM-Dがだんだん姿を現すようになって、この試験機にそっくりのフェーズド・アレイ・アンテナを備えているのを知って、その先行性を誇りに思ったものである。
SAM-Dは今のパトリオット・システム、Pac-3システムへ発展したのである。

2007年6月15日金曜日

かみなり岬

 わしが現世の「肩身の狭い」仕事についたのは、まだ紅顔の美少年?のころでござった。
いつの間にか「わが国初の」と称する試作移動型大電力発信器を引っさげて丹後半島は経ヶ岬近くの駐屯地のはずれに来ていた。官の研究所の電波発射試験を手伝うためである。
 その試験をすることになった「かみなり岬」は海に突き出した大岩の断崖絶壁の上層部が土に覆われた形をしていた。高さが2,30mはあろうかという断崖の岬の取り付き部は一際狭くなっていて、何か神秘的な雰囲気もあった。入り口の裸の崖を除いて上層部は一面に草が生え、その周囲は3mくらいの小松に囲まれていた。崖が見える入り口の手前の松林の中には古い「文殊堂」という社があって何か岬に関連がありそうだと感じた。
 この岬が「かみなり岬」と呼ばれるからにはそれだけの訳があろうと思っていた。試験装置を展開した岬の草場の下は岩盤だからアースをとる銅の棒などは受け付けない。一計を案じて町で数十メートルのワイヤーロープを求めて来て先端に大きい岩をくくりつけ海に投げ込みアースの代わりにした。
 ある日嵐になった。案の定かみなり岬は落雷の集中する場所だった。海中に投げ込んだワイヤーロープのアース棒のお蔭か機材は落雷で壊れなかった。ただ、試験機と計測ハットメント間に張ってあった信号ケーブルには、恐らく誘導雷が発生したのであろう。ケーブル両端の信号入出力端末の半導体素子は軒並み耐電圧破壊を受けた。
 この岬と文殊堂の海岸側下には見事な?男根形の大岩と女性シンボルの割れ目岩があってなおさらのミステリーが感じられた。
 なお、われわれが試験電波を発射して何分か経つと決まって秋田沖から「東京急行」と呼ばれた正体不明機が南下してくるのがレーダーで見えた。恐らく電波の正体探査が目的だと思ったものである。バジャーという大型飛行機ではないかと噂した。

2007年6月12日火曜日

時空天の口上

 つまらぬ思惑のため、これまで口を閉ざしてきた世界がある。「王様の耳はロバの耳」。王様でなくとも耳元でささやく声がうるさくって仕様がない。声を山辺の木の祠に吹き込もうにもそんな場所はあろう筈もない。
 幸い座ったままで声を書き込むことができるブロッガー「山辺の木の祠」に行き会った。いい加減苦く面白く過ごした人生だ。語り終わらないでいるものか。時空を超えた韋駄天すなわち時空天になった積もりで、思いつくまま字を書きセピア色の写真や絵を描き彷徨ってみることにしよう