2020年3月31日火曜日

夢想カート王国⑦なぜカート王国

川崎の会社入社の頃が上長にも中古輸入車を持つ人が増えてきた。
フランク永井の歌にもなった「2国」(国道2号線)もまだ舗装が進んでない砂利道だった。
山口県大津郡に帰省するのが新しい新幹線利用の小郡駅に、そこからバス便で、最短で朝発ちで夕着の一日仕事だった。宇部空港が使え、車が利用できる時代には半日になったが、車が使える条件がない人々には、定期バス便がほとんど無くなった今は昔にも及ばない。
Facebook友が長門市を「交通秘境」と呼んだほど鎖国状態にある。老いさらばえた僕も生きて再び帰省できるかどうかわからない。
結果的に言えば私たち世代を含め、これまでの車使用世代が先々を想定せずに、目先の便利さに飛びついて身近な山陰本線や美祢線を使わなくなって、自ら放棄した結果である。
北海道に多く見られるような国鉄の思う壺「儲かる線路だけ残す」であろう。
全国的に住民がどうしても要る路線は第3セクター化して残っている。
幸いなことに長門市、美祢市は曲がりなりにも山陰本線と美祢線が残っているから、局部的にでもこれを再興して、外部から人々、特に旅行者や老人子どもが気軽にアプローチできる公共機関を再興するのが「過疎化都市消滅」を防ぐ唯一の手段であると信ずる。
その毛細血管役として車は勿論だが、カートの活用できる王国にしたいのだ。
現状のカートには車ではないとする交通法はじめ様々な法的な安全規制があろう。
どうしてもカート特区が必要になろう。
だからカート王国によって日本の交通弱者の移動の権利を守ってやりたいのだ。
老いたミサイル・システム・エンジニア―の夢想である。

2020年3月29日日曜日

夢想カート王国⑥高齢者生きがい増進

僕ら世代には今も通じる1里という距離感覚がある。
長門市内のJR駅間距離は大体4km。1里だ。
吉田松陰、高杉晋作先輩たちが日の出から日没までに歩いた距離が10里~12里だろうと言われる。
昭和30年に大津高を卒業直後、同級生数人で松江まで徒歩体験旅をした。
学生服と水中眼鏡と釣り具を入れたボストンバックで。途中腹が減ったら潜ってサザエや魚を取ろうと言う訳だ。
当時は食糧難で米は食券を持参しなければ食べられなかった。
今の車利用の人たちには40kmは大した距離ではないと思うだろうが、フルマラソンほぼ2コース距離を一日かけて走ると思えば想像はつこう。
一週間歩けば松江に着くだろうと思った計画は、半分以上は旅芸人座のトラックや益田高校の柔道場の厄介になったり、人々のお世話になって、最後は暑い松江の夜の競輪場コース上に寝かせてもらって終ったが、昔の人たちの移動手段の厳しさを実感した。

長門市は全般的に駅中心に奥地でも一里半径以内に入っている気がする。
向津具半島でも、人丸駅や古市駅からでは少し無知はあるが拠点を掛渕あたりに置いて乗り継げば十分、一里範囲になる。子どもの頃には、渡場の叔父の商店の盆暮れの掛取り(昔の商売は盆暮れ払いが多かった)に大きな荷台が付いた自転車に乗って行ったことがある。
一里範囲は復路が無ければ、カートの遊びの余裕ある行動範囲だから、カートポストを設置すれば全域カート王国になる。
角山の丘の上からは手長島が浮かぶ油谷湾が一望でき、道々は緑濃き海の景色が堪能できる。
大浦、川尻、後畑の三方にもアプローチできる。棚田のある狭い車道で駐車場の心配しないでゆっくり油谷の自然を堪能出来ると思う。
今は古市駅からカートで千畳敷経由、東後畑の遊びも出来よう。
何よりも、地元に限らず戦い終わった高齢者たちが、車免許を返上しても社会行動することにより、元気と精神的若さを失わないのが主な目的メリットだ。
若い人たちには想像力の問題だ。
もしも車が無かったら?と常に想像出来ているかが未来の社会を創造する。
僕ら世代の大失敗は、車の便利さに魂を奪われ、電車やバスや路面電車などの公共機関を田舎から追い出してしまったことだと思う。
行く行のカートはスマホとGPSで車より安全な自動運転の時代が来よう。

2020年3月27日金曜日

夢カート王国⑤提案のきっかけ

地方の過疎化が叫ばれて久しい。
人口が減ってシャッター商店街が増え、青年層が都会に出て行き、老人層が後に残り、ついには人口が減り続け、自治体の存続が怪しくなるという全国的な傾向である。
大学入学して以来、親を捨て、故郷に帰っていない前科を後悔している老人の一人として、過疎化に対抗する力の一端を担えないか?という言わばお節介な意見として聞いてほしいのだ。
便利な車を駆って精力的に地方活性に取り組んでおられる若者の努力に敬意と感謝を表するのを惜しまないが、親の死に目にも会えなかって生涯を終えかけている故郷を捨てた老人の嘆きも聞いて欲しい。
ある日の明け方、電話が鳴る。今と違って電話は不吉な事件ではないかとドキッとする。
案の定、長門病院に入院している母危篤である!
ずっと看病してもらっている父、弟一家も共稼ぎと介護で手一杯なのはよく分かる。
小郡に居る弟一家も共稼ぎで手一杯だろう。
翌朝取り敢えず新幹線に飛び乗り、小郡に着く。
駅で長門病院に行くバス便を探すが、車が無かった昔のように絵馬を抜ける長門便などありはしない。
厚狭回りの美祢線便を探すがラチは空かない。
その頃は小郡にレンタカーも不便で、結局萩行きバスがあって、乗った。
萩に着いて山陰本線下りで昔の正明市に降りた。
こんな悔しい思いを繰り返したが、今便利に車を乗り回している世代には想像できない世界だろう。
宇部空港や新山口駅からのバス便が増えてほしいが、現在でも限られていよう。
また、限られた市の中心部にバスが着いたとしても、その他の地域にはアプローチ出来ない。
そこで、基本的にはJR各駅にシェアーまたはレンタルカートを配備してカート王国にするのだ。
同乗の人数がいてタクシーが使える人は良いが、旅行者や老人など地元の人は経済的にもタクシーを自由には使えない。そこで、免許の要らない早歩き安全速度のカートを徒歩代わりに使うのを提案したいのだ。元気な人が付き添い歩きすれば車いすの人でも使える。
シェアーまたはレンタル・カート専門の会社を作り雇用とサービスを作る。
会社はカート回収と配備を大型バンで行う。現在でもレンタル社は使っているが、複数台の取り扱いもできる様になろう。

2020年3月26日木曜日

夢想カート王国長門湯本④

僕らが湯本温泉に遊んだ時代には、山陰本線と美祢線の列車とサンデンバスが主な交通機関で後は徒歩だけだったから、山口県内は勿論今の長門市の母体大津郡内もほとんど行ったことが無かった。
京城時代から一緒に住んでいた祖母は僕が高2の時在宅のまま子宮がんで亡くなったが、当時の60数歳は高齢で、当時唯一のがん手術が出来た九大病院では、高齢すぎるので出はできないと言われた。
それまでは田んぼや畑に行き、山で薪を集めたりナバを取っていたが、今でいえば若かったから幸い足腰は強く介護は要らなかった。
今は100歳までも生きるという高齢化社会になって、70歳代まで車に頼っている老人たちは、認知症やロコモ障害で自分で出歩けなくなると、一気に寝たきりになることを想像しない。
僕らの街の老人クラブのグラウンドゴルフクラブ部では、毎週2回公園でプレイしている。
みんな「動かないと寝たきりになる」と熱心に参加する。
97歳の男子1名を頭に、93歳男子1名、いずれも奥さんが近所の特養入り。
カートで回る83歳の私と同年の男子はあちらこちらの公園の植栽まで面倒を見る元気もの。70歳代の女子2名の8名がメンバーである。
みんな近いから僕以外は歩いて集まるが、長門市ではどうだろう?誰かがワゴン車で集めるか、家人に送ってもらうか、自分で運転するかだろう。
この頃都会では高齢者の事故が急増し、免許返納が常識になりつつある。
長門市のような住宅が点在しているソサイエティでは、カートをもっと便利に使わない手はない。
早歩き程度の動きだから、車のようには早くはないが、安全でのんびりと自然を楽しみながら生活できる。
欧米、特に北欧では福祉機器としての多様なデザインの歩行器やカートも発達している。
恒例になった福祉機器展にも初めのころは出展されていたが、日本では介護保険機器レンタル事業のために介護機器が公定価格のように競争原理が働かないのであろう。
これも介護保険の運用費用がかさみ理由の一つではないかと、僕は思っている。
いずれ、カートが見直されて、高齢化社会の公共交通の少ない地域の健康福祉機関となることを確信する。
長門市を全国先駆けのカート王国にし、技術的製品的にもリードして行けるモデル王国に育て上げようではないか!

2020年3月25日水曜日

夢想カート王国長門湯本温泉郷③

夢想カート王国長門湯本温泉郷③である。
JR湯本駅でカートを借りて恩湯に入った後、大寧寺の花見に行く。
先ほどの踏切を渡り左折すると、俵山から下ってくる川を左に見ながら、ホテルの前の自動車道の緩やかな登坂歩道が続く。
満開の桜をワイフのそぞろ歩きの速度に合わせたカートから楽しんで一回りしたのち北道をかえり宿に着く。
荷を下ろしカートを返しに何か所かある湯町のカートポストに返しに行く。
カートの充電コードのプラグは備え付けコンセントに差しておく。
自動的にレンタル時間が記録される。
僕は折り畳みで持ってきた手押し歩行器で名物の焼鳥屋の食事に出かける。
明日は充電カートで三の瀬(そうのせ)に行って萩焼の窯元を訪ねてみよう。
その後、適当なバスがあれば仙崎カート王国に行こう。
湯本カート王国にはカート観光社支店があって、支店長と部下1名がそれぞれカートを積載可能なバンを持って働いているという。
ユーザーが増えれば雇用が増える。
先日出来た「ステイ体験ハウス」とうまく組み合わせれば効果は出ると思われる。

2020年3月24日火曜日

カート王国②長門湯本温泉郷

夢想カート王国長門湯本温泉郷の続き②である。
山口県長門市の長門湯本温泉は,僕が小学校3年の時旧朝鮮京城府から敗戦難民になって同市の油谷渡場の母に実家に転がり込んだ頃からの思い出の地だ。
一緒に引き揚げてきた父方の祖母と2歳下の弟と、国鉄山陰本線長門人丸駅からD51機関車が牽引する客車で旧正明市駅乗り換えで、美祢線長門湯本駅で降りて、初めて湯本温泉の恩賜湯に行ったのが、多分小学校4年生だったろう。

夢想カート王国長門湯本温泉郷の続き②はこの湯本駅前から始まる。
新山口駅まで新幹線横浜から来た我々は、山陽本線厚狭駅で美祢線仙崎行きで湯本駅で降りたところである。
かっては沢山の温泉客が乗り降りした駅も車社会になってからは無人駅になっているが、予約しておいたカートを借りる窓口は好況のようだった。
車を使わない地元のお年寄りも駅からカートがあれば、車の送り迎えなしに温泉で遊んだり大寧寺の花見を楽しめる、
脳梗塞後遺症で足の悪い自分は横浜でもカートを使っているが、湯本駅でも使えるのは有難い。
ワイフは横浜でも歩きかバスなので、ここでも手荷物はカートに乗せ、速度を4km程度にした僕の乗るカートに同伴する。
駅前から河岸段丘の丘の道を左手に川を見ながら桜並木(まだあれば大きくなっただろう)の道を下り美祢線の踏切を渡れば、湯町だ。
カートは道路交通法上”人”扱いだから、原則右側通行だ。
歩道が無いところでは、車や自転車と対面で走る。
駅から1㎞ほどか?20分足らずだろう。
新しくなったという恩湯と恩湯食脇にカートを止めて、貴重品だけ持って10年ぶりの懐かしい恩湯に入る。
ここら辺りは昔は旅館が並ぶ坂が多かったが、今は地元間伐材を使った散歩歩道とカート/車イス道兼用の木道が優しく迎えてくれるのが嬉しい。
湯上りには今夜の宿を当たってみよう。
あれば、これから大寧寺の桜を覗いて見た後、飯にしよう。
大寧寺花見往復小1時間か。

2020年3月23日月曜日

夢想「カート王国」①

交通秘境 我が故郷を  カート王国に する夢を見た仔細を再現しよう(その1)

使うカートの主な仕様:
①一人乗り 運転免許は要らない  
  訓練を受ければ子供や高齢者でも乗れる
②最大走行速度:時速6km 
   10分1km  速足程度 
③フル充電時の最大走行距離:
  約33km以上 と 約22km以上のモデルあり
④最大登坂角:10度 
⑤自重: 80~90㎏程度 
⑥最大積載重量:80~100㎏程度 
⑦最大段差高:7.5㎝程度 
⑧購入価格想定:まとめ買いで20万円程度?⑨充電:家庭用100v交流電源コンセントから
    数時間程度
ココドール社ページから

2020年3月21日土曜日

天気蒸籠なれどドラマは続くだろう

僕の父方のお祖父さんは父が12歳の時日本でも名高い「大正(18年?)のスペイン風邪」と呼ばれる世界規模の風邪様のウイルス感染でなくなったという。
家系書に伝わる状況では罹った者の死亡率も相当に高かったらしい。

その時村では、ほとんどの人がバタバタと被患して助け合うこともできず、片山家でも子供を残しほぼ全員が高熱を出し、祖父が工夫した大タライの周りに小竹の水注ぎ口を取り付けて一人がバケツ井戸からバケツで水を運び,カマチに並べて寝かせた数人の患者の頭を冷やしたという。
老父母と若い女房(祖母)と中学生(父)前を頭にした姉弟を残した祖父と、その弟の一家の2人の働き手を失ってしまった。
祖母は京城に嫁いだ亡くなった祖父の妹に父を託し、幼子二人と働きに出たらしい。
その祖母が京城の我が家の応援に帰ってきたのが4つ違いの弟が生まれる前だった。
新コロナウイルスで揺れる現在、思い出すのはこの一家の受難劇である。

2020年3月20日金曜日

またまたの脱皮トライ

今まで欲張ってブログもいろいろ書いてきた。
今残っているだけでも、
会社時代の仕事にまつわる思い出を”アトリエ「時空天」”に
最近の”teoのカート日記”と”teoのHAIKU”など。
しかし、中味もない上に維持するにもお金がかかる。
思い切って「シンプル・イズ・ベター」に脱皮しよう。
今日から、これ一本んで行くことにする。