2020年7月28日火曜日

㊽先輩三宅明画伯の残した明何会の思い出



三宅 明画伯は大分県竹田市の岡城趾に

生まれ明治専門学校(現在九州工業大学)

電気科を卒業後、武田ハネウエル(株)

勤務の後、画業諦めきれず美術結社に

所属して、パリのドウトンヌ展を

はじめ数々の展覧会に出品し美術

年鑑誌にも常連の地位を築かれた。

九工大の東京新橋の同窓クラブ、鳳龍

クラブ会員を中心に「銀座を描こう会」

「鳳龍水彩クラブ」を中心に、京橋に

あった喫茶店での三宅画伯の個展に

便乗して初めてのグループ展を

立ち上げて、3年後には三宅画伯の

個展に併設する明何会グループ展を

開くようになった。ホームページも

自分が新設し、それ以後の約10年間の

活動も記録してきた。財力もあって、

茅ケ崎の家庭は顧みず、海外取材旅、

銀座など酒、仲間、女と徹底的に自分に

生きたので、合気道指南や書道指南の

奥方やお二人の息子さんたちに疎まれた。

三宅先輩のすねを齧って毎年京橋の貸し

ギャラリーでグループ展を開いてきた

歴史は忘れがたいものになった。

その間に広くグループに参加する人も

増えて来たが、かねてより食道過活動

に悩まされていたのが元に、平成22年

3月6日ご逝去された。享年85歳,

死因は急性白血病とのこと。

生前賜ったご厚情に感謝し、謹んで

ご冥福をお祈り申し上げます。

とは言うものの、海外取材旅、酒と

女、仲間に生きたので仲間も家庭から

疎まれてご霊前のお参りも未だ許され

た人はいない。

(水彩画明何会)のメンバーでも

あった三宅画伯の中学校以来の友人

であったサントリー社の「山崎」の

ブレンダーとして名高い佐藤乾博士

(京大農)は当時の状況を次のような

手記に書かれました。
4月27日友人の

賀状に水彩画
明何会の展示会がある

との連絡を受けていたので医者に行く

ついでに寄ってみましたが、それらしい

会がないので不思議に思い帰家後, 友人に

問い合わせた処三宅兄のことを知りました。

絵のことでお世話になりましたナア、

しかも絵の具等一式頂き、感謝。

2月までは電話連絡があったのに残念。

家に連絡しても応答なし。
この水彩画は

大分県竹田市
岡城の本丸の石垣と横の路の

絵であります。西の夕焼けしている

ところのに竹薮があり、その中に
画伯の

生家があります。
恐らく先祖は家老職で

有ったので
しょう。この家から中学に通学

していました。このような石垣の絵が
割りに

多いようです。
画を疎開した旧友も

わたしの良く知った友達の一人でした。

合掌。

京橋での遺作展に展示の佐藤乾氏の
三宅氏追悼の栞集。原画は各10号。




岡城石垣





















































































































































































































































































2020年7月26日日曜日

㊼ モンターニュおじさんのポストカード

モンターニュおじさんは長年僕に夢を運んで

くれた親友である。




モンターニュおじさんのあだ名は、彼の名前


をフランス風にして僕がつけた。


初めて僕と韓国ソウルに海外旅行したのを切っ


掛けに?、世界を駆け巡る旅行家になった。


彼の世界旅行は芸大を出て個人アトリエで腕を


磨いておられた奥方が、酷いリュウマチに罹り、


何度となく入院を迫られ、彼の言葉によれば全身


の手足の指関節はすべてチタン合金に替えられた


そうで、その奥方が動けるうちに世界を見せて


やろうと決心したそうである。


それからというもの、一年の少なくとも1/3は


お二人で海外に旅している様子だった。


僕も片麻痺になって慰みにホームページを開設した


ので、お二人が旅先から送って来る写真入りポスト


カードを公開することにした。


僕の病後の闘病ホームページ「アトリエ家庭菜園」


の中の特設ページ「モンターニュおじさんの


ポストカード」に殆ど収録してある。


ぜひご覧になっていただきたい。


彼の絶妙なポストカード旅日記は僕を癒し元気


づけてくれた恩人でもある。


彼は奥方の出入ごとに必要になった、空港での


金属探知機を通過する際に、関節のチタン合金


の医学的な訳を世界の空港で説明するのに多国


の語学が出来るようになったと喜んでいた。


全身チタン合金関節と言い、年間の二人外国旅行


と言い、尋常の財力で出来る技ではないが、大阪


の実家の事業を彼が仕切っていたせいもあると思う。


仲良し4人組が集った森もついた追分の別邸では


奥方専用のアトリエも出来、小鳥たちのえさ場に


モービル飾をセットし、森の空き地にバーべキュ


ウ炉を作ったり、老後を謳歌している様子を見せ


て頂いて間もなく、ウツ?の病に臥せって久しい。


「アトリエ家庭菜園」の中の(モンターニュおじ

さんのポストカード)をぜひご覧ください。

世界めぐりが出来ますよ。


http://pcwnh186.sakura.ne.jp







2020年7月25日土曜日

㊻ ビワの葉の効用

子どもの頃から、ビワの木はどこの庭にも植わって

いたのを思い出す。

いつもGゴルフをプレイする児童公園の土手にも2本

あったし、何年か前山梨県の北杜市のアトリエ民宿

の庭にも大きいビワの木が沢山植わっていた。

子どもの頃、大家さんでもあった渡場の母の実家の

庭にも生えていた。

どうしてだろうか?昔からビワの葉は薬効が優れて

いると伝えられていることが知られる。

ビワの薬効研究家の説をそのまま頂くと、古い仏典

や漢方の「本草綱目」にも書かれているそうだし、

日本でも奈良時代の聖武天皇の妃、光明皇后がビワ

の葉で人々をいやしたことが教科書にもあったよう

な気がする。

ビワの葉を熱湯で温めたコンニャクで裏から裏打ち

してタオルで包んで腰痛個所に充てるとか、ビワの

葉1㎏を洗って1.8リットルの蜂蜜ホワイトリカー

に漬けて半年置いたのを水で割って飲むとか、お湯

2リットルにビワの葉12,3枚の刻みを煎じて飲む

とか、効用があるそうである。

自分は先程の母の実家の庭のビワの葉を思い出して、

その頃元気だった叔母に頼んで、ビワの葉を盛んに

送ってもらいお湯で煎じた褐色の茶をたくさん飲んだ。

僕の記憶では糖尿の指針、HbA1c値が今も

<7mmg/lなのは薬の所為でもあるが、ビワの

葉薬効があったのだと思っている。

その後、叔母は亡くなったし、母屋も取り壊されて

しまったそうだし、ビワの木がどうなったか聞かず

にいる。

わが家の庭にもと思って苗を探しているのだが、

ありそうでないのが、紺屋のフンドシ、「誰か苗

を分けて呉れんかの―」

㊸ 思い出 浜鳥

横浜西口相鉄口の近く、商店街に向かう橋の手前

の商店の並びに焼き鳥「浜鳥」があった。

僕がグルメのYNさんに連れられて行った頃、敗戦

後の開店から35周年記念パーティーを高島屋の

サロンで開くほどの老舗だった。

入り口に女将さんが焼く鶏焼きコンロがありコンロ

から板さんの調理場を囲むように客席台が続く直ぐ

に満席になる人気店だった。


客は知り合いも多く、初めての客も直になじみに


なる風だった。


KNさんは菊名の独身寮時代からの長い付き合いで、


女将さんからも信頼を受けていた。


僕がその店に行くようになって直ぐに35周年記念


パーティあった時、女将がYNさんにKYさんも一緒


にいらっしゃい、と声を掛けたのに「お前さんは


良いよなあ、直ぐに35周年記念に招かれるんだ


からな」とヒガミッポク言ったが、それは違う、


YNさんがそのくらい信用されいたかってことだ。


板さんの悩みも聴いてやったり、女将さんの苦労


も担いだりしていたのだろう。


頭脳明晰愉快上品な女将さんには成長した娘さん


が二人あり、上の嬢さんは横浜国大出の先生か?


で、下のお嬢さんは女優の卵だと言うことだった。


そうこうしている内に西口界隈も焼き鳥屋を続

けるのも難しくなったのだろう。

板さんも仕事が続けられなくなったのを機に?で

あろう、店を畳むことになった。

毎日会社の帰りに「西口」の浜鳥に寄って帰るのが

常連あった僕も行き場がなくなって、西口の東側

の狸横丁のトンコツ屋に行くようになった。


ここも、もとはと言えばYNさんのテリトリーだ。


NHKのTV番組で「family history」と言うのが


あるが、女優の余貴美子さんが出場した。


何と、浜町の女将さんが余貴美子さんのお母さん


だった。


そのことは前からYNさんから知らされていたから、


ビックリはしなかったが、ご一族の苦難の歴史と


現在の安寧とが思い起こされて、拍手した。


女優余貴美子さんの上品で控えめの人柄と、他人


に好かれる気の良さがお母さん譲りであることは


間違いないと思う。


ファンの一人として誇らしい。


その後女将さんとその後なん回か、YNさんを含


めて仲良し4人組で食事会を持ったが、YNさんが


病に伏せるようになって、消息が途絶えている。


YNさん、女将さん、若手のみんな、また横浜に

集まろうぜ。





2020年7月24日金曜日

㊹ 思い出ローレライ

覚えておられる方もあると思うが、大好きな札幌

に過って「ローレライ」というミュージックビアー

レストランがあった。

あの大きなウイスキーの王様看板のあるススキ野の

交差点の丁度対角線にあたるビル地下にあった。

千歳の真鍋さんが連れて行ってくれた。

真鍋さんは伝統があるサッポロビール会の千歳支部

の分団長を長く勤めてこられたらしく、サッポロの

大きいホテルを借り切って行われるオール北海道

サッポロビール会のレセプションでもドイツ語の

乾杯の歌を高らかに歌われていたくらいである。

ご自分は東京外大なのに気分は北大の様だった。




ローレライには「ローレライリゾスデン」という

専属バンドを持っていて、北海道交響楽団や

北海道女声合唱団のメンバーが加わっていると

いうことだった。

ヨーロッパ民謡を中心にタンゴ、クラシック、

ジプシーバイオリン、シャンソン、ラテン音楽

と多彩な楽団だった。

バイオリン、クラリネット、チェロ、ピアノ、

女性ボーカル数名の特徴ある明るい雰囲気の

楽団で、僕も東京から来たお客さんをよく連れて

行った。




料理も特徴がありドイツ、フランス、イタリア、

北海道コースなどコース料理に特徴があった。

僕が札幌を離れる頃、20数年の歴史ある店を

閉じることになって、また一つ北海道や札幌

らしい、札幌農学校や北海道大学の伝統ある

特徴が消えてしまうような寂しさを覚えた。

しかし、羊ヶ丘のクラーク博士像や島松の

クラーク博士決別の記念碑などと、札幌植物園

に続く北大構内は開拓精神にあふれた時代の

面影を残していると感じる。

時計台の下で~🎵 カラオケの好きな札幌♬

の歌も歌えなくなってしまった。

2020年7月23日木曜日

㊸ 遊びをせんとて

遊びをせんとや生まれけむ
                                
 とうの昔に定年になって、通勤が必要

ないのに朝早く目が覚めて「さあ今日は

何をする?」って考える日も多い。
 
ワイフには申し訳ないが「何を?」と言っ

ても家事の手伝いではなく「何かオモロ

イこと、遊び」なんである。


現役の頃、シゴトオタクで全く家のことを

省みなかったことはすっかり忘れ、賞味

期限を過ぎたポンコツ・ジイに残ってい

る楽しみは、「遊び」だけなんである。
 自分の言い訳に都合よく引き合いに

出すのが、平安時代に書かれた「梁塵

秘抄」と言う書物にもあるように、人間

「遊びをせんとや生まれけむ」である。

それでも、遊びが思い浮かぶ日は、

どちらかと言うと体調もまあまあ、気分

はポジティブで、天に感謝したい望ま

しい日ではあるのだが。

 脳梗塞で倒れてからもう16年になる。
 
机に向かってパソコンでインターネット・

サーフィン(一頃使った語)を楽しんだり、

自分のホームページやブログを編集

したり、本を読んだり、絵を描いたりし

ている室内遊びは出来るが、片麻痺

になる前に北海道で春秋やったゴル

フやテニス、冬は毎週やったスキー

など、体育系の遊びは出来なくなった。
 
スポーツ以外でも、北海道で毎日温泉

に入る癖が付いたので、家で遊んでい

るだけでは、ストレスが溜まる。


数年前まで趣味の水彩画を描く会の

面倒をみていて「人との会話」を定期

的に楽しんでいたが、指導の画伯の

急逝で止めたし、つい先日の2次梗塞

のため電動カート無しでは歩くことも

ママならぬようになると、杖を付いて

家の周りを散歩することも出来ない。

スキーなんて夢のまた夢である。

つい先頃まで、横浜駅(SOGO横)

直行の江ノ電バスに敬老パスで

乗って、美術館や画廊を覗き段差

のないフロアーを杖突き歩いて、

歩数を稼いだり、惣菜売り場でワイフ

の買い物に付いて歩くこともあった

が、利用者減でバス便も無くなった。
 
 他に、近場の温泉場にも無料の

バスで行くことも出来し、旅行社の

格安の交通費と宿だけのツアーに

参加して温泉を楽しむこともあったが、

このコロナ禍ですっかり事情が変わっ

てしまった。

7年前から、町内シニアー会の「グラ

ウンド・ゴルフクラブ」に入いり、近く

の一丁目公園で、子供たちが使用

しない月曜と金曜の午前、1週間に

2日は仲間が集まりのんびりプレイ

の後仲間と四方山話などを出来、

杖を置いて球を打つ木のパターを

持って歩くだけでも、リハビリ運動

にはなったがみんな高齢化で参加

者が減って来た。
  
ところで、話は飛ぶようだが、自分は

このように不具でも恵まれた運動遊び

場が見つかる境遇にあるから幸せだ

が、田舎にいる弟や友人たちはどう

しているだろうか?という思いが起こっ

てくる。

車があって、自分で運転できる人た

ちは良いが、出来ない人や自分のよう

に車の運転を止めた人たちが故郷

に住んでいると夢想して、遊びを計画

してみるのも、郷里の思い出遊びの

1つで、故郷の遊びの環境を開発する

ヒントになりはしないかと勝手に考えて

みたりする。
現役時代に赴任した北海道の恵庭市

に定住する積もりがあった頃、恵庭の

活性化に欲しい環境を考えて、地域

のコミュニティバスを提案したことが

あった。


 














今では、旅行の先先の加賀温泉の

キャンバスや、能登の和倉温泉の

ふるさとタクシー、病院通院に便利な

コミュニティバスなどのシステム例が

各所にあって、企画力の差が成功に

つながっているように見える。

さて昔、故郷の山口県の今は長門市

になった田舎のわが家の前の国道に

サンデンのバス停があった。

もう半世紀以上前だから、今もあるか

どうか怪しい。
早速インターネットで調べてみると、

数年前には、嬉しいことにブルー

ラインバスというのが走っていて、

田舎の小さいバス停でも詳しい時間

表がインターネットですぐ知れた。

経路の両端、長門病院前と大浦・油谷

島の長い路線に、朝7時前後から、

夕方17時台まで、工夫をして平日1日

10便程度のバスが走っていた。

主にお年寄りの通院用と知れる。

またバス停の名を読むと、昔の土地勘

から路線がわかる。

他にも加えて欲しい路線も考えられる

が、最低限このバスがあれば、不便

だった油谷湾の奥深く、川尻漁港に

住んでいるお年寄りも、街にある長門

病院にも一日がかりではあるが、通院

できるだろうし、我が家の前からバスで

新しく出来た油谷湾沿いの温泉にも行

けるだろうと想像できる。
長門市駅に出て、乗り継げば、祖母と

よく行った昔からの温泉地、長門湯本

温泉にも行けそうである。

昔に負けないほど田舎が便利になっ

ているのが知れて、嬉しくなった。

都会に住んでいる僕らだけが、楽を

しているのは申し訳ないと思うから。
 
こんな情報がパソコンで直ぐに手に

入り楽しめるのも遊びといえば遊び

で、こんな遊びが可能になった現代

に生きているのも、ありがたい。

思えば、われわれの世代は、祖父母、

父母が明治生まれ、叔父たちに大正

生まれがいて、自分ら親子が昭和で、

孫たちが平成生まれと、敗戦の時から

の日本の生活文化や科学進歩の急激

な移り変わりの先端をずっと経験し、見

てきたという思いがある。
自分は都会に死ぬとしても、遊び心を

忘れないで、故郷の今を思いやる気

持ちは持ち続けたいものだ。
                              2013/2/14第1稿、2020/7/23補稿

追記: 《16年前に「闘病記」と称し病後

に始めた自分のホームページに、

「つれづれなるままに」いろいろ遊びを

記録してきたが、読んでもらえれば皆の

何かの慰めになるかもしれない。

http://sakura.ne.jp/pcwnh186 

またはGOOGLEYAHOOの検索欄に

「アトリエ家庭菜園」と名前を入力して

「検索」していただければ、直ぐに見つ

かるはずである》

2020年7月22日水曜日

㊷ 老いも日々新た

老いも日々新た 


2012年、今から8年も前に書いていた「老い」の談議

が出て来たので、もう一度確かめてみたい。

果たして現在も変わっていないか?
 

どこに行っても自分の様な高齢者が多くなり老いの

生き様を間近に観察できる社会になりました。

それぞれが長い人生の喜怒哀楽を経て培ってきた

人生の知恵ですから、それぞれが以心伝心、大切に

次世代の心に語り継がれることでしょう。

 老いについて語る本も西洋、東洋に沢山あります。

どの人の書いたものを読んでも、その知恵も百花繚乱

ですから、自分に当てはまる部分もあるし、当てはまら

ないものもある。

書いてあることが格言のように一般的な正論だと分

かっていても、これまで老いの一徹で過ごしてきた自分

の信念を今更変えるつもりは更々ないということもある

ので、同じ本の中でも自分にとって賛成・反対の部分

混在します。

要するに全体でではなく部分、部分で頷くことが多い

のです。

けれども正直言えば、老いを語るなら、落語のように

もっと気楽に「俺としたことが・・・ドジだなあ、笑っちゃ

うよ」とか「頓馬だなあ、こう言えば良かったんだ」

とか、自分のサマを人ごとのように軽く突き放して、

面白可笑しく語ってくれる軽い語り口の本がもっと

あっても良いのではないかと思います。

昔といっても僕の子供がまだ小さかった昭和40年代、

毒舌の評論家と言われた大宅壮一さんが居ました。

今の評論家大宅映子さんの父君です。

辛口の評論家の彼が、晩年老いについての心構え

何かの雑誌に書いていたのが新鮮で「おや!」

と思いました。

きっと、その時44,5歳の僕にはその言葉が憧れ

だったのかも知れません。

いわく、≪定年退職したら自然に世間から疎まれ

がちになるから、次の心構えを持つと良い。

1)前に増して何時も明るい上等なジャケツと良い

ズボンの若々しい姿で、小さく軽快で上等なボストン

バッグを下げて、これから小さな旅に出るかと思わ

せる出で立ちをする。

2)何かお声が掛かったら、気軽にその格好で会合

に顔を出す。

が、長居はせずに忙しそうに立ち去る。

3)その内「あいつは元気で身が軽い」とか、

「動きが良いよなあ」と自然に役回りが来たり、

やり甲斐のある仕事が回って来たりするものだ≫ 

と、大体こんな趣旨でした。

辛口ジャーナリストの彼らしい語りで、本気で

言っているのか誰かに当てたブラックユーモアか、

トボケテいるのか分からないところがありますが、

当時若かった僕には格好いいなと写ったのでしょう。

今の僕から見ますと、この老いのイメージは、今

では老人とは言えない定年直後の60歳台前半、

まだ活力が溢れた人の老いの一般的な姿だった。

あれから社会はすっかり様変わりし、パソコンや

携帯電話の出現の情報化社会になり、高齢化が

進んだ現在は、もはやジャケツにボストンバッグは

老人のイメージではないかもしれません。

OB会や同窓会などに極力姿を見せ、ゴルフに精を

出し、折々に万年筆で季節の挨拶手紙を書くと

いった生活スタイルも変わって、携帯電話や

パソコンのインターネットで世の中の情報を得て、

e-メールですぐ連絡ができ、インターネットで殆ど

の買い物が出来てしまう社会になりました。

どうしても自分が出かける、マストは会合、散歩や

病院通いくらいです。

有名な今や長老の作家曽野綾子さんは最近老いに

ついての著作も多く、僕もインターネットで安い

古本を買ってよく読みます。

駄弁ながら、ついこの間まで、洋光台駅前から磯子

図書館や上永谷の港南図書館まで本を借りるために

暇に任せてバスを乗り継いで行っていましたが、

歩く距離も結構辛くなり最近はネットで安く買える、

古本ばかり読みます。           

曽野さんは「無いものねだりはしないで自分に

あるもので楽しむ生き方」を薦めています。

つまり、老いによって何が出来なくなった、これが

不自由になったと、ないものを取り戻そうと、あく

せく生きるより「まだ自分はこんなことも出来る」

とか「こうすればまだ捨てたものじゃあない」とか、

自分にある力を見つけて活かす幸せを感じて喜びに

するのがお薦めということでしょう。
 
僕流に言わせてもらえば、この心がけは、何も老い

だけの特典でなく、育ち盛りでチャレンジする

青少年時代は別として、老いにも若きにも有効で

大切な処世術のように思えます。

映画「おくりびと」でアカデミー賞に輝いた俳優、

本木雅弘さんが最近のNHKラジオ深夜便インタ

ビューの中で「ほどほどに望んで喜んで人生を

諦めるのがモットーです」と話しているのに

感心しました。

なにごとでも自分に出来そうもない高い目標を

掲げて達成できないのを苦にするより、ほどほどに

身の丈に合う目標を設定して、ほどほどが達成

できた喜びに甘んじて人生を豊かにするという

意味でしょう。

苦労を重ねて真摯に生きる本木さんの爽やかな

言葉で、曽野さんの言葉にも通じると思いました。

恥ずかしながら僕の場合の例を挙げると、面白可笑

しいピエロの自分の行動に、カラ笑いニガ笑いの類が

いくつでも見つかります。

例えば、これからと思った頃に脳梗塞右片麻痺になり

利き腕が使えなくなっても、中年過ぎて出現したパソ

コンを独学で覚えておいたお蔭で、苦手のブラインド

タッチの要らない左手1本指のキーボード操作で

e-メールや文章が書けると片目つむって笑って

いられる。

一寸した道の段差につまずき易く、脚の筋肉も

すぐ疲れパンパンに痛くなるけれど、杖を突いて

休み休み、ゆっくり時間をかけて周りを見回し

ながら最寄りのバス停に歩けば、敬老パスの御蔭

お金を使わず付き添いなしでバスや地下鉄に乗れ、

病院などにも行けるとヨロコンデいられる。

身体全体の左右バランスが取れなくなって危ない

ので体操や散歩もロクに出来なくなって、一旦

転んだら、なかなか自分で起き上がれないし、

温泉が好きでも手摺のない岩風呂などでウッカリ

すると溺れそうになるが、カフカが「変身」の中に

書いたように、ある日目覚めたら自分がカブトムシ

みたいな昆虫に変わっていて、上向きにひっくり

返って手足をバタバタもがくコッケイな姿を思い

出して思わず笑いが出るなどなど。

と言う風に何でもほどほどの中途半端で,ヨボヨボの

ヨイヨイではあるけれど、毎日が初体験の老いです。

ヨイヨいで足りないところは何か代替え案を工夫し、

その案が人には見た目にコッケイに映っても面白

おかしく実行してみて何とか達成できて

「シテヤッタリ」と片手で膝を叩く喜びに変える

愉快さ楽しさもあります。

転ばぬように、怪我をして周りに迷惑をかけぬ

ように心がけて、周りの皆さんや福祉事業などの

支えの御蔭で不自由さの中にも「何とかなるさ」

で行けば毎日が初めての「生かされていることに

感謝する」老いでもあるのです。

201232日)第一稿、(2020年7月23日)再確認