僕が入社2年目だったか?
富士山気象レーダー新設の公募があって設計担当に
配属されて受注競争に加わった。
そのころ、室戸岬レーダーなど、いち早く加わって
いたわが社が優位かと思われていた。
わが社にも時の気象庁のレーダー課長以下の巡回
視察があった。
国道2号線の多摩川大橋や河川敷が見渡せた離れビル
の実験室にも来られたのが、藤原課長だった。
わが社の故吉田課長が対応するのにただ立ち会って
いた。
藤原課長がペンネーム作家新田次郎の本人だと後に
知った。
藤原課長が(下の名は忘れ)初代?気象庁課長藤原
咲平氏の女婿だとは知っていた。
奥さんの引き揚げ記「流れる星は生きている」は僕が
中学生のころから知っていたから。
富士山レーダー受注競争は、新田次郎の小説にも出て
いるように、最終審査の席に突然現れた三菱電機の
技術者たちが実際に富士山に登って現場を見て来た
姿で現れて、その取り組みの深さで勝り受注した。
敵ながらアッパレ。脱帽だった。
以来、我々も富士山レーダーのフアンの一員になり、
その後の足取りも見て来た。
遂に時代の波が来て、今は麓に記念館として残して
あるそうだが、自分の一生を覗くようでまだ行き
そびれている。
イヤ、自分の身体が老いさらばえたのを意識したく
ないのかも知れぬ。