2020年7月16日木曜日

㉗新田次郎の「富士山」に寄せて

僕が入社2年目だったか? 

富士山気象レーダー新設の公募があって設計担当に

配属されて受注競争に加わった。

そのころ、室戸岬レーダーなど、いち早く加わって

いたわが社が優位かと思われていた。

わが社にも時の気象庁のレーダー課長以下の巡回

視察があった。

国道2号線の多摩川大橋や河川敷が見渡せた離れビル

実験室にも来られたのが、藤原課長だった。

わが社の故吉田課長が対応するのにただ立ち会って

いた。

藤原課長がペンネーム作家新田次郎の本人だと後に

知った。

藤原課長が(下の名は忘れ)初代?気象庁課長藤原

咲平の女婿だとは知っていた。

奥さんの引き揚げ記「流れる星は生きている」は僕が

中学生のころから知っていたから。


富士山レーダー受注競争は、新田次郎の小説にも出て

いるように、最終審査の席に突然現れた三菱電機の

技術者たちが実際に富士山に登って現場を見て来た

姿で現れて、その取り組みの深さで勝り受注した。

敵ながらアッパレ。脱帽だった。

以来、我々も富士山レーダーのフアンの一員になり、

その後の足取りも見て来た。

遂に時代の波が来て、今は麓に記念館として残して

あるそうだが、自分の一生を覗くようでまだ行き

そびれている。

イヤ、自分の身体が老いさらばえたのを意識したく

ないのかも知れぬ。