2007年9月27日木曜日

丹後ちりめん

 まだバイクと呼ばず自動二輪と呼んだ時代、隣町の(と言っても、袖志の町から幾岬も離れた)自転車屋で中古の50ccを借りた。休日に、丹後半島を1周してみたかった。
 レンタカーで網野町の小浜というところにあるその自転車屋を出発した。自転車に毛が生えた程度の自動二輪はスピードもなく、スピードを出す気もなく、後ろに積んだボロの荷カゴに、宿の民宿で作ってもらったおにぎりを入れて、曲がりくねった岬みさきを巻くように進むガタガタの未舗装の自動車道路を走る。まだ、その頃の道は断崖絶壁の上にあるところも多く、木が生えてなければ尻込みをするような場所も珍しくなかった。車で走っても対向車が急に現れるのは怖いのに、小さい二輪車では心細いことこの上ない。やがて自分たちの仕事場、袖志外れの自衛隊駐屯地を過ぎ、袖志の町を過ぎ、初めて経が岬に着いた。その頃でも京阪神から車で来る観光客がボチボチ増えているらしかった。ヨットの形をした小さい土産の置物と小さい飾りペナント旗を買ったのを覚えている。
灯台は白くて新鮮だった。
 経が岬より先は、又ガタガタ道が続き、やがて伊根の町並みに着く。海上に建っているような屋内に船が舫っている。これから先は、内陸部に入る。地図を片手に走るのだから、どこをどう走ったのか覚えがない。ただ稲刈りや稲がさおにつるしてある光景が思い出されるところを見ると、もう秋口になっていたんだろう。大電力送信機の試験は成功だったような、失敗だったような、官が意図しているような結果ではなかったようで、自分以外の人に引き続がれてまだ続く。
結局、丹後半島の思いで作りの小旅行だった節がある。丹後半島の村を通りかかると織物機(ハタ)の音が聞こえてくるところが多かったような気がする。丹後ちりめんの産地であった。白の(未染色の)ちりめん反物が安く手に入った時代である。後で聞いた話だが出張者の1人が、見事なちりめんが格安だったので、2,3反買っておいたそうである。ずっと後になって、娘さんの嫁入り着物を作る段になってたんすの奥の白い反物を思い出して、着物屋に見せたところ、着物屋がビックリした。
今は手に入らない織物で、一反で染と仕立て代を出しましょうということになったという。
そんな時代だったと思い出すと、自分もはるばる旅してきたもんだ!と感慨一入。こちとらは、焼き芋を買って食べたような気がする。
 この後、新しく出来たFCS開発課なるもの他の仲間3人と共にに転科されて、以来SAMの開発に入り浸って会社生活を終えることになろうとは、チィットモ気がつかなかった。人生不思議といえば不思議なものである。