2007年8月27日月曜日

福井県三国町外れのパラメトリック・アンプ

 福井の気象レーダーにパラメトリック・アンプをつけてノイズ・フィギャーを改善し、観測範囲を広げようとしたのは昭和何年ごろだったろうか。福井の測候所の気象レーダーは、この後移転をしたようだからここでいう福井の気象レーダーは、昔のレーダー・サイトである。有名な東尋坊が近くにあったような気がする。
 初めて米原で北陸本線に乗り換え、敦賀を経て福井県の古い港町三国町に降りたK先輩(主任になられる前だったと思う)とパラメトリック・アンプを担当した新前の自分との二人は、駅前から古めかしい神社の鳥居を眺めたり、軒の低い町並みや、道路下に屋根を並べる港町の景色を眺めながら、予約しておいた宿に着いた。雪こそ降っていなかったが、寒い師走の頃だったような記憶がある。
 宿は商人相手の木賃宿といった風情があり、幸いその日は宿泊人のいなかった隣部屋とは襖でつながっていた。寒いので、外に出て散歩するというような気にはとてもならず、K先輩のお好きなお酒のお相手をして過ごした。その頃、自分はまだ晩酌の習慣もなく、今のような呑んだくれでもなかった。しかし、学生時代から酒は嫌いではなかったようだし、学生の頃呑むと頭がくらくらする、あるいは天井が回るというようなこともなくなっていた(あるいは酒が粗悪だったのかも)。
 パラメトリック・アンプを付けるといっても楽ではなかった。まず計測に使うSG(ヒューレット・パッカード社=hp社のマイクロ波信号発生器)やシンクロスコープその他の計測器類をレーダー・タワーに担ぎ上げなければならない。タワーは5階建てほどの高さがあり、内部ラセン階段でレーダー室に至る。
レーダー室は設置してあるレーダーを除けばそれほど広くはなく、測定機器類を床に並べると、文字どうり足の踏み場もない状況になる。
 自分の作ったパラメ(パラメトリック・アンプのこと)も、そのころの技術力に漏れず周波数帯域も広くなく、機械的なキャビティ(共鳴器)によっているので振動や温度変化によって特性が変化しやすい特性があり、われわれは温度変化に対処するための恒温装置をつけていた。
 特性の調整と温度特性を計測するのに、ほとんど徹夜であった。Kさんは福井の地酒1本をレーダー・タワーに担ぎ上げていて、それを部品棚の一角にデーンとすえ作業の合間にコップ1杯キューン。寒いので暖房代わりである。自分もキューン。朝になってやっと作業が終わる頃、酔うこともなく地酒一本は見事に空になってしまった。
 後にも先にも、宇宙開発などを歴任されたK先輩と地酒で暖を取りながらの徹夜作業はこれきりであった。

2007年8月24日金曜日

多機能・多目標の発想

 フェーズド・アレイ・アンテンナの特長を生かす多機能・多目標化の要求に応えるには、すでに前回の特殊送信機の実績から、タイム・シェアリング方式しかないと考えてはいた。ただ問題は捜索レーダー・機能と追尾レーダー機能とを時分割で行うという「多機能」を実現するには困難な問題があった。

 毎日毎日、隣の課にいた入社2年後輩の秀才O君とあれこれ考えあぐねていた。O君は大学時代からコンピュータ工学に長けていて、デジタル時代の草分けのような存在だった。現に隣の課も、そのころ台頭してきつつあるコンピュータとデジタル関連機器の設計をしていた。

 捜索レーダーは捜索する範囲の絶対レンジが不可欠であるから、普通はレーダー送信間隔は(パルス送信間隔)距離150mあたり1μ(マイクロ)secの時間が必要である。すなわち60kmの距離範囲をカバーするには、600mあたり4μsec、60kmを監視するなら400μsec必要になるのである。
 その間に追尾機能を入れるとなると、工夫が要る。追尾も間歇的に続ける必要がある。この問題はまだ前例がなく、やってみなくては解らないとO君と覚悟してトライした。さすがに上長たちも心配だったと見え、アメリカの協力会社に追検討を依頼してくれた。結果は、うれしいことに、それ程の危険要素はなさそうであった。
 以来、何年かはいろいろの問題点解決と調整で、曲がりなりにも今をときめく旧SAM-Dといわれたレーダーと時期的には遜色ない発展をしてきたと自負している。遠い昔の話になったが。

2007年8月17日金曜日

ドライブレス・ドライブ旅・信州

 東京オリンピック開催の前の年、軽井沢方面へドライブ旅行をした。
どうして年度を覚えているかというと、今の環7が都内初の高速道路として完成し、SATさんの新型のコロナに乗せてもらって見学に行ったのが印象的だったからである。
 週刊誌のグラビアに、まだ車が走っていない「若林」あたりの緩やかに昇る跨線橋の風景が、新鮮な現代風な都会を象徴していた。
 自分はまだ自動車免許証は持たなかった。と言うより、それまで関心がなかった。
その時環7見学のメンバーは、新婚間もないSATさん、ほぼ同期のNISさん、その後輩IGAさん、一番若いNIWさん、それと私。皆は免許証を持っていた。
 夏休みになって、5人でドライブ旅行に出発した。SATさんのコロナと、NISさんの古いセドリックに分乗して地図を頼りに前橋、熊谷を通ったような気がする。その頃は車も少なく、順調に進んだ。
 大変なトラブルは松井田を過ぎ、碓井峠の上り坂で起こった。セドリックがオーバーヒートでダウンした。もともとNISさんが学生時代に自動車部で使っていたという中古車で、あちらこちら不具合があるものを騙し騙し使っていた車だと言う。
オーバーヒートの原因はラジエーターに水漏れがあったからで、ラジエーターは修理できないから水補給でしのぐことにし、水は水筒の水くらいでは足らず時間をかけて自然冷却を待つしかなかった。
真夏の自然冷却は厳しかった。幸いコロナ組がバケツを持ってどこかへ水汲みに行き補給することを思いついた。碓井峠の途中は水汲み場なぞなかったから、ふもとまで降りたものだろう。
 やうやく、軽井沢に着き、ラジエーターの応急修理、といっても水漏れを防ぐ繊維パテを水に入れるくらいだが。初めての帝国ホテルでたっぷり水を補給したが、水漏れは続きどこをどう通ったか覚えていないが山田温泉で交渉の末、格安の大広間に泊まることにした。
朝食のご飯でお変わりをしてお結びを作り、昼弁当にしたし、前日から後部ドアが閉まらない不具合があったので帯紐を1本失敬してドアをピラーにくくりつけたりした。
 そのうち、セドリックが動かなくなった。調べてみると電気系だということがわかった。自動車部の出身とあって、分解してみるとセル・モーターのブラシが磨耗していることがわかった。電話を探し、自動車屋に聞くとブラシ・カーボンは須坂にしかないというので、コロナ組が買いに走った。山の中で待つこと?時間、日暮れ近くにブラシが到着し、エンジンがかかって出発した。
夜中になって川崎・中の島(NISさんが住んでいた?)に着き解散した。それからどうしたかは覚えていないが、いっぺんに自動車の構造に詳しくなった夏休みの思い出である。

2007年8月11日土曜日

パラメトリック・アンプ

 入社数年はオーストラリアのラジオゾンデ追跡レーダー提案の失注やF気象レーダーの失注や大きいプロジェクトの失注が重なり大量な同期入社の面々も仕事がない日が続いた。幹部はさぞ大変であったろう。
 しかし、新入社員は気楽なもので「去年の理科系採用300人に対し今年は600人採用だから俺みたいな半端モンが入ってきたのさ」と嘯いているしまつ。そのころ受注したECM(Electric couter measure)の研究の仕事をやった。毎日研究所の図書館に通って英文の米国通信学会誌やElectronics誌や、Microwave誌、などを読み漁っていた。しかし、真空管からトランジスタにと世は目まぐるしく変わり、マイクロ・コンピュータが出てくるなど勉強の範囲が拡大する上に、大して勉強もしていなかった新入社員には驚きばかりであった。しかし、何とか研究報告書をまとめて提出したが、今考えると冷や汗ものだった。
 そうこうしている時、有名なベル社のB.S.T.J.誌(Bell System Technical Journal)に宇宙特集が乗った。確か当時同社に居られた日本人U博士も執筆されていたと思う。宇宙からの雑音を受信するのに極めて低雑音指数の受信機が必要というものだった。なかでもパラメトリック・アンプはその中心的論文だった。研究所では1年上級の故・村上純造さん(確か尾道から東大に。高校時代フルブライト交換留学された秀才研究員で、頭の良さに舌を巻いた。惜しくも腎臓を患われ早世された。フルブライト時代の同窓生の奥さんが透析闘病のため看護士になられたと聞いた)の指導を受けわれわれも実験を始めた。
先ず手始めが宇宙用ではなく、L-bandのレーダーFPS-1(米軍の可搬型レーダー)に装着して探知距離を改善するのに利用することになった。
 同軸キャビティに同軸フィルタ構造を組み込み、ポンピング励起すると負抵抗になるダイオードを附け、片方からL-bandの2倍の周波数のポンピング周波数で励起する。立体回路で、しかも手作り、周波数特性もそう広くないので、廊下やテーブルの振動によって特性が変動するなど、なかなか一筋縄では行かない。優秀な工業高校出身のN君と一緒に日夜実験に取り組んだ。
 そのころ、FPS-1の通常ダイオード検波器の雑音指数は良くて9DB(デシベル)、これに対しパラメトリック・アンプをつけると1.5DBになり後段の影響を差し引いても7DBは改善され、雑音指数の4乗に逆比例するレーダー探知距離も1.7DB(=1.5倍程度)に改善されるはずだ。
 特性を達成した機材納入の前の日、嬉しさのあまりN君と機材の底面目立たぬところに記念のイニシャルをポンチで打ち込んでおいた。
 千葉の自衛隊の学校教室に納入になり、秋には銚子の海に面した原っぱで別名「菊演習」に技術支援に労働借り上げで同行した。
このとき、生憎夜中に台風が襲来し、米軍払い下げの、兵員40名くらい収容の円形の大幕舎の中央の柱に取り付けた吊り輪の鎖が、強風のため、一部音を立てて切れた。T2佐が退去を命じ風雨の中、寝る前にたたんで置くように命じられていた衣服を整え幕舎から出て、トラックで銚子市役所に避難した。市役所のテーブルの上などに寝て朝まで過ごした。
 翌日、台風が去ってからN君と乗ってきて野原に置いたままのN君のお兄さんのセドリックを取りに行った。忘れてしまったが、多分自衛隊の支援を受けたのだろう。古きよき時代だったと思う。

2007年8月8日水曜日

コーナー・リフレクター作り

 同じレーダー課に配属された新入社員(6人だったと思う。特別に多かった。受注予定プロジェクトが多かったのであろう。だが、予定は見事外れたが。)のうち2,3人は(自分とF君以外は覚えていないが)はコーナー・リフレクター作りをやることになった。といっても、それを見たことも聴いたこともない者ばかりだった。第一、上長も知らないのから仕様がない。

 先ずMIT(マサッセッチュー工科大学)のテキストを読んで形を類推した。が、難しい形は駄目、見よう見まねで作りが簡単な四角錐の底面を対角線で4等分して電波反射体で4つのコーナーに分け、底面を上にして吊るすという形にした。大きさは約30cm、C-band(5000MHZ帯)での反射率というか実効反射面積はいくらになるかはよくわからなかった。レーダー側への投影面積(c-band換算した時)と思われるが何か基準値と比較しなければわからないといえる。
 で、この実験も結果はよくわからないでいる。ずっと後になって、初期のジェット練習機T-33の実効反射面積がレーダー性能要求側(言わば官側)の標準値として1平米(1㎡)以上と換算されたり、評価される側(会社ないし民間側)としては1㎡以下、それも0.5㎡以下と思われる意見としばしば食い違ったのとよく似て立場で大きく見えたり小さく見えたりするのだ。標準コーナー・リフレクターがあれば簡単だがいろいろな見込み角度に応じた測定値はデータとして見ることがあるものの標準値というようなものにはなっていないようだ。球状の標準金属反射目標があるのかもしれないが・・・・・。
 余談だが、近年も最新鋭のF-22ジェット戦闘機の技術機密情報を同盟国それもイギリスにでさえ開示しなくするという米議会の動きに軋轢が増えているというが、どうも機密情報はステルス構造にあるらしい。が、初期の空力的に構造的に無理がない、驚くほどスリムなT-33の機体は反射率から言っても驚くほど小さいかった印象がぬぐえない。国産のF-1やファントムF-4などと比べると大きさも違うが大きさ比より小さいような気がする。
 長ーい目で見ると、レーダーで見えない塗料を変えてみたり、実効反射電波が位相的に相殺されるような形を選んでみたり、いろいろ研究されてきたステルス技術だろうがレーダー波長に無関係に、となると軽くて表面構造が電波的に多層構造であるのかもしれない

2007年8月2日木曜日

台風とコーナーリフレクター

 タコ糸コーナー・リフレクター騒ぎを起こしてから、われわれ新入社員を含めたチームは本物のレーダーを使って試験をすることになった。
 ちょうど定期オーバーホールの時期になっていたMPQ-10というMSA援助(確か米軍の援助協定があった)でもらった2次大戦時代の高射砲システムのCバンド(5000Mhz帯)トラッキング・レーダーがあった。工場に入る前、自衛隊の訓練に参加してこれを使うことになった。日時計画は変更が出来ない状況だったが生憎計画の試験日には台風が来ることになっていた。
 部隊から程近い久里浜の背後の丘の上の広い畑の中で借り上げた空き地にレーダーを置き、準備をしてからタコ糸に風船つきリフレクターを上げた。風が強くリフレクターはほとんど真横に流れた。
ついにはタコ糸を諦めて切り離し、1回きりの試験になるがこれを追尾することにした。だがリハーサル無しで操作も満足に出来ない追尾レーダーで嵐の中で目標を捕らえるのは至難の業、この後もこのムツカシさを何度も味わうことになるのだが、思い出せば血気盛んの向学心が懐かしい。
このときの試験結果は覚えていないが、久里浜のあの辺りには今は畑などどこにも残っていないように見える。多分昭和40年の前38,9年じゃないかと思う。

 今だから白状するが、装置の防水ケーブルの接栓のゴツイ蓋をレーダー回転ペデスタルにはさんで潰してしまったり、直径2mはあろうかというアンテナを建物のシャッターにぶつけて凹ましたり、冷や汗ものの思い出があるのだが懐かしいレーダーである。