2021年7月31日土曜日

(90)リハビリ日記⑬ トロミ食も悪くない

  僕は大回目の脳梗塞を患って以降、


南部病院に何度も入院した。


 比較的に入院期間が長く大変だったの


が胸膜炎(昔は肋膜炎と言った)。


 風邪を引いたと思って家庭医に行っ


が南部病院のCT検査予約を取って


呉れたのは良かったが、抗生物質薬


も呉れなかって2,3日後の予約日


の早朝胸が息が出来ないほど苦しく


なって、救急車で南部病院に駆け込


んだ。


肺胞と胸膜の間に水(膿)が溜まった


という。


背中から大きい針先の丸い注射器をブス


ッ刺して膿を出した。


痛い長い入院で生死の間をさまよった。


 入院のたびに食事も変わった。


普通食もあったが、お粥食、流動食、絶


食、刻み食、など色々あったが、今回は


トロミ食、だった。


 大体病院食は塩量6ℊ程度の減塩食だ


から美味しいとは言えないが、朝食に多


く出る牛乳、ジュースなどを好んだ。


トロミ食は流動食に近いが田中ST.先生


が監修して下さって、汁物にはトロミ剤


を加えカレーなど本来からトロミがある


食物以外はすべてトロミ剤が加えてあり


総菜や肉魚は、すべて飲み込み易いよう


に刻んである。


 僕はお願いして、一口で食べやすい程


度の刻みにしてもらい、主食は粥にして


もらった。


 僕のお粥好きには、毎夏主に温泉巡り


の基地にした北海道の千歳ステーション


ホテルのバイキング形式の朝食でお粥に


納豆と生卵を入れ地元キッコーマン工場


製美味しい醤油と地元で作る豊富なイカ


の塩辛を採っている朝食の影響が大きい。


 退院後の自宅でのトロミ食は、病院の


田中ST.先生がトロミ食のいろいろを解


説した資料を参考にしながら、お茶、コ


ーヒー、煎じ薬、アイスクリーム、プリ


ン、こっそりワイン、などの飲み物に


トロミ剤を加え、食事は朝のバナナ食、


の他お粥に納豆・卵、中村屋のレトルト


カレー、レトルト雑炊にトロミを加える、


など、試している。


ワインやカルピスなどにトロミを加える


と初めはお茶と同様な要注意飲み物だが


時間が経つとお匙で食べるゼリー状にな


るのは面白い。




2021年7月30日金曜日

(89)リハビリ日記⑫ 比較的に恵まれている現代の老人僕のリハビリ生活模様例 

  16年前に第1回目の脳梗塞発症を経


験し、右麻痺後遺症つまり右足全体が


骨盤毎やや開いて左側の杖を突く必要


があったのと、右腕の痙縮(よく見か


ける三角巾で吊ったような曲がり)が


残った。


当初は右顔面が垂れさがる麻痺症状が


あったが、こちらは2,3年で自然消


滅したかに見えた。


 8月に退院して明何会と自称した水


彩画クラブの仲間と信州安曇野にスケ


ッチ旅行に遠征し、左手スケッチをし


て杖を突いて単独で数km歩き回り皆


を心配させた。


 もう再発はなかろうと油断したの


か、今年3月2度目の発症が来た。


 実は昨年秋、軽い発作があって言


葉不明瞭、足腰に弱りを感じ、通院


や民間整体士に掛かった時には、想


像した想定問診を印字して持って行


っていた位だから、正確には第3次


発症かも知れない。


 高老年下の今度の発症の後遺症は、


致命的というレベルの足腰のなえと


構音障害(dysorthria)と嚥下障害


が残った。


つまり、人に話言葉が伝わらず、ト


ロミが少ない食物は喉で気管の方へ


誤嚥する。


 ただ一つ、字を書く以外は使わな


かった右肩回りは、今度見て下さっ


たOT.の養老先生の肩甲骨周りの再


マッサージのお蔭で、動きが出て希


望を残している。


 自覚はなかったが、骨盤に圧迫骨


折があるらしく、毎日の病院リハビ


リ途中に腰痛が出てリハビリ効果が


出ないので、やむなく退院して訪問


リハビリの道を選んだ。


 歩けないから、室内外も車椅子が


要る。


前々からハンドル操作の電動カート


をレンタルしていたが、車体も大き


く狭い我が家で動くのは無理で、狙


いを付けていたjoystickタイプ操作


のwhill電動椅子に鞍替えした。 


介護老人ホーム施設に入るには基本


の3倍料金を取られる年金収入だと


言われてそんな金力もないし、毎日


笑顔の老人たちと仲良くお遊戯をし


て過ごす生活は無理な自分は、自宅


を改修してwhillに乗ったままでどう


にか生活したいと準備に掛かってい


た矢先だったので、発症直ぐにwhill


出入りのスロープを道から玄関まで


付ける庭改修に掛かることが出来た。


 レンタルベッドの手摺を基点に


whillに乗り移る、デイサービス用の


車椅子に乗り換える、動作が基本に


なる。


 whillを動かして左手に少し進むと


パソコンとモニターやプリンターが


あるwhillでアプローチ出来る机、後


ろにバックして右に直角に向きを変


えると新聞を読んだり食事をしたり


の机、机の向こうはレンタル平行台、


居間を出てドアを直進すればwhillが


便器に横着け出来るように壁を開口


したトイレ。


 建築家の息子とワイフの計らいで


ある。 感謝に尽きる。


 ただ今のところの問題は長時間


whillに座って過ごす尻の痛さであ


る。 卵が割れないと宣伝する重


力分散のハネカム・マットを買い


込んだ。





2021年7月28日水曜日

(88)リハビリ日記⑪ 最後のアイヌ酋長の像のアーティスト故竹中敏洋さんの記憶。

  北海道新日高市静内の静内川を隔て


た対岸の丘に真歌(まうた)という西


の静内市街方向から攻めてきた松前藩


のアイヌ掃討作戦で戦った、最後の酋


長シャクシャインの銅像がある。


 北の同胞たちに決起の雄たけびを上


げる像と見える。


掲げる槍先が8m位あろうかという大


きい立像である。


 僕たちが長年、この先にある第7高


射連隊の海岸射場に手掛けた防衛器材


の実射試験の空を指しているような位


置関係だから、最初訪れた時から試験


の守り神みたいになっていた。


北海道・恵庭市に関連機材のメンテナ


ンス新工場を開くために赴任した僕は


新しく遊び友達なった地元の面々の飲


み会に加わっていた。偶々僕の隣に座


っていたのが竹中さんだった。


 話をするにつけ、彼は大分の教育大


出身で北海道で氷に魅せられ、東京で


夏に氷芸術祭りをやったこと(僕も


NHKの日曜芸術特集で見たことがあっ


た)し、千歳市支笏湖畔の冬の氷涛祭


りを立ち上げたとか、彫刻作品があち


こちにあるとか、地元のサッポロビー


ル工場のレストランの庭に毎年氷モニ


ュメントを立てているそうだった。


 竹中さんは元々札幌郊外の西岡とい


うリンゴ林地帯の奥にアトリエを持っ


たが、町が膨張して気が付いたら町中


になっていたので恵庭市の山奥の盤尻


にアトリエを建てたそうであった。


 知り合って間もなく、車で盤尻のア


トリエを訪ねた。


 広い家と鋳物アトリエがくっついた


建物で、彼が廃校の校舎廃材からの手


作りという。


漁川ダム下の流れに沿った裏と横の広


い庭には畑もあり、古いモーターボー


トや小型トラクターも置いてあり、ア


トリエの前に真歌のシャクシャイン像


の1/2アニール像が立ててあった。


大きい立像の建立前に銅像の鋳物が冷


却する際、部分歪みが出ないか、確か


めたのだという。


 クマが出るので、食べ物は置けない


という奥地だから、高校出てすぐ札幌


に朝早く軽で恵庭駅に出て、札幌まで


通っているそうだった。


 その頃、竹中さんは金属が溶融し液


体から固体に移る刹那の表情を追う仕


事をしておられた。


 その話ばかりだったが、仲間はこの


庭で夏は川までの道を作り水場でビー


ル缶を冷やしバーべキュウをし、冬場


は庭に大きい氷室を作り中でバーべキ


ュウをした。


 奥様から「もう竹中を悪い遊びに誘


わないで!」と言われ敬遠された。


 それから人事異動で恵庭から去って


年賀状の付き合いが続いたが、ある年


奥様から年始の挨拶を断る訃報が届い


た。


詳しいことは書いてなかったが、脳卒


中だったらしかった。 


お世話になっていながら、あっけない


お別れであった。


その後奥様はお嬢さんと札幌への道が


貫通したこの地で喫茶店を開かれたと


いうが病勝ちになった僕には行ってみ


ることもできなくなった。





2021年7月26日月曜日

(87)リハビリ日記⑩ 心の支え、右まひのピアニスト館野泉さん。

  現在日本にも導入されているアメリ


カの「パック-3」という防空ミサイル・


システムが、まだSAM-Dと呼ばれてい


た時代から、小型ではあるがコンセプ


トも似ているとも思われる、わが国初


の防空ミサイル・システムの開発設計・


試作・実用試験・全国配備・メンテナ


ンスという器材の全工程に、自分の会


社生活のすべてを捧げて来た僕の言わ


ば会社生活終着駅の北海道恵庭市の市


民公会館で「ピアニスト館野泉とゆか


いな仲間」という地元婦人会主催の演


奏会が開かれて、婦人会の唯一男性顧


問であった僕の悪友”春さん”(近藤春


夫)に司会役が回ったらしく、ウブな


僕を言葉巧みに乗せて僕が司会をさせ


られる羽目になった。


 格安実現のため、チケット販売から


地元婦人たちのステンドグラス作品で


デザインの舞台まで手作りだった。


 ちょうどその日11月10日(日)が


さんの誕生日にあたっていて、演


奏会後に会館広間で手作りお祝い会


が開かれた。


 札幌から来日中の声楽家の奥様ヤ


ンネンさん、バイオリニストのご子


息も駆けつけて盛り上がった。


 札幌で別のグループの会があると


うご一家が去られた後、残った


北欧の若い男女の音楽家を日曜休み


の市内老舗陶器店を開けてもらいお


土産買いや食事に誘った。


 そんなことがあって数年後、僕が


橋の居酒屋での親友4人仲間の飲


み会でロレツガ回らくなり、友人の


一人がタクシーで横浜の家まで送っ


てくれて、目がロンパリ(目が右は


パリを、左目がロンドンを向いたよ


うな状態を、昔の人はそう言った)


なのを妻が見つけ、南部病院救急窓


口に電話し、息子の車で入院した。


 リハビリも含め3か月後に、右ま


ひ後遺症で退院し、暗澹と過ごして


いた僕はインターネットで、僕と同


年の館野さんが僕の発病の2年前に


北欧での演奏会の舞台で倒れ、ピア


ノ演奏家としての危機に立たされて


いるのを知った。


 僕と同様、残った左手だけで必死


音楽の道を探っておられる館野さ


んに感銘した僕はホームページを開


いてリハビリの道を公開することを


思いついたが、10月になっていた。


 もとより、コンピューターには無


だった僕が日経パソコン誌などの


独学でホームページを曲りなりに開


けたのは館野さんのお蔭だともいえ


る。


 今、館野さんは「左手だけで音楽


楽しむ」道に新境地を開いたピア


ニストとして一家をなしておられる。


 勿論、ご友人の作曲家たちの作曲や


ご支援もあってのことだろうが、ちっ


ぽけな僕の生き甲斐にも、大きな励ま


しである。


 今回、長い入院でサーバーを失った


ホームページは消滅してしまったが、


リハビリ・ブログの道は大切にして行


こうと思っている。

 

2021年7月24日土曜日

(86)リハビリ日記⑨痙縮のリハビリは発病後何時頃から始めて間に合うか?

 僕の第1回の脳梗塞発病は2004年


5月16年前になる。


当時は血栓を溶かす応急処置の特


効薬は日本では許可されていなか


った。


現在ではかなりの人が、この薬の


お蔭で腕が三角巾で吊ったように


痙縮した人を見かけることが少な


くなったように思うが実際にはど


うだろうか?


リハビリ病院ではこの症状の人が


まだ多い。


僕の第1回発病の2004年ころは、


脳卒中に罹ったら、絶対安静と言


われた古い知識からリハビリ開始


は発病後なるべく早く、と方向変


換して間もないころで、理学療法


士制度も今ほど発達していなかっ


たような気がする。


僕の右腕と右手の痙縮リハビリは


自分の衣服の着脱と、机上に置い


たタオルを両手で向こう側に押し


進めることが印象に残っている。


だから、この16年間右腕は痙縮し


たままだった。


ただ、字だけはキャリアーが無い


左手字は練習してもダメだと悟り


必死に名前と住所だけは右手で書


こうと決めて猛練習をした。


一番効果があったのは、般若心経


の写経であった。


以来、字だけは右手で書いてきた。


今度の2度目の発症でリハビリ病


院に入院して今回が初めてという


具合に肩甲骨のリハビリを始めた


ら、驚くなかれ、右手の痙縮がだ


んだん解れて来たのである。


まだ腕の筋肉が力の改善が伴わな


いから制約はあるが、希望が出て


きて嬉しい。


今回の脚のダメージは大きいが、


専門の理学・作業療法士(PT.と


OT.)の骨盤や肩甲骨周りの矯正


で効果を上げている。


リハビリは早い方がいいと言われ


ているが、時間が経ってしまって


も諦めずにリハビリすることだと


強く思う。




2021年7月22日木曜日

(85)リハビリ日記⑧圧迫骨折の心当たり

 今回のリハビリで、終始リハビリの施術中や


食事中に、座った状態が一定の時間経過すると、


腰に痛みが表れて我慢が出来なくなって作業を


中断した。 


ロキソニン、カロナール、などの処方薬でも


軽減しない。


前々から鎮痛剤の連用は好ましくないことは


知っている。


その点、漢方薬に近い富山の痛散湯がある。


もともと、煎じ薬の様だが、長く飲んで効く


ような気がする。


それはそうとして、圧迫骨折は何時だろうか?


数年前、昔のベッドから常用していた回転事


務椅子に乗り移るのに失敗して、狭い空間に


床に尻もちを搗いたことがあった。


この時は、腰が痛くて家から遠い5丁目の「や


そだ整形外科」に駆け込んだ。


この頃の医者は触診はしないし、X線撮影で異


常なしと言われ、痛いブロック注射と、マイク


ロ波温やマッサージのはリハビリに通った。


ところが、ある日入浴中に背中を流しに来た


妻が、僕の腰に大きな黒あざを見つけた。


これこそ、この間の尻もちの時、固いベッドの


脇に打ち付けたらしい。


もう一つ最近では、3月7日の早朝5時頃、その


頃の朝のパソコン作業を終えて、後ろのベッド


に戻ろうとして失敗し、床にドスンと尻もちを


搗いた。


自力では立ち上がれないのは知っていたから、


床暖房は入っていたので、家人が起きてくるま


で床に寝ていることにした。


その日は、先日南部病院で受けた皮膚腫瘍除去


手術の抜糸の日だった。


皆が起きてきて、立たせてくれたが、抜糸に行


く気もしないので翌8日延期を申し込み、昼頃


先々のカート生活を予想して、家を改装する計


画を妻と話している途中に、口がモトワラなく


なった。


予感がして筆談で訝る妻に頼んで、南部病院へ


の救急車を呼んでもらった。


救急車まで杖で歩いて乗ったのが、歩きの最後


だった。


朝の床への尻もちが梗塞があったのか?昼頃に


梗塞があったのか?わからないが、骨盤圧縮骨


折があったのが一番クサイ。右足に体重を架け


てのスクワットが、当面の目標である。

2021年7月19日月曜日

(84)リハビリ日記⑦リハビリ病院の良いところ体験記

入院 リハビリ病院の良いところは、毎日少しずつ


ではあるが毎日理学療養PT.と、作業療養OT.、言語


聴覚ST.専門指導先生のリハビリを受けることが出


来ることだ。


中途で退院して訪問リハビリの道を選んだ者には


思わぬ伏兵が居た。


PT.とST.各週に1回の訪問指導と毎日では雲泥の差


だ。


僕の場合、腰がダメージを受けたので立つ力が弱く、


ベッドから車椅子に移るときの立つ動作、車椅子で


トイレに行って、便器の前で手すりに摑まって立ち


上がり、ズボンを下ろして便器に座る、用を足して


から、また立ち上がり、尻を拭きズボンを履く動作


が必須であるが難関だった。


家やデイサービスではこの動作だけを繰り返すが、


回数が繰り返されるが回数は少なく、せいぜい維持


か劣化である。


平行棒を借りて自主歩くトレーニングが重要だが、


十分ではない。

2021年7月13日火曜日

(83)リハビリ日記⑥リハビリ病院体験記

 16年前、5月のある日、しばらく会っていな


かった会社時代の、歳も部門も違う仲良し友達


たちと会うことになって、元赤坂の「ままや」


の板さんの店に集まっていた。 


「ままや」は、言わずと知れた不慮の飛行機事故


で早世した作家向田邦子さんの店だった。


向田さんの亡き後、しばらく妹さんが店を引き継


がれたが、閉店されて板さんも新橋に店を持たれ


いたのである。


集まった友人の一人が、かねてより「ままや」の


常連だった縁で、この板さんも知り合いだったのだ。


さて一杯!とカップを合わせ、いつもの焼酎の水


割りに移ったところで、僕のロレツが回らなくな


ったらしい。


急に酩酊状態になった僕を近くの病院でなく横浜


の自宅に同乗して連れ帰ってくれた友人の気転に


今でも感謝する。


門扉を通り、数段の石段を登れなくて転倒した。


妻が僕の顔を見るなり、南部病院に電話して自家


用車で救急窓口に来るように言われた。


右目がパリ向きゃ左目はロンドンを向いた「ロン


パリ」状態だったのだ。


当時はいわゆる脳血栓を溶かす特効薬は日本では


認められていなかった。


すぐにリハビリは開始されてはいたが、リハビリ


自体も、制度が出来て揺籃期で未熟でもあったよ


うだ。


南部病院にも理学療養士PT.と言語療法士ST.だけ


が配置された状態だった。


3か月の入院とリハビリの後、右足のマヒと右手


が縮こまる後遺症のまま退院して16年間過ごし


てきた。


そこへ来て、昨秋言語がやや不明になったなど予


兆はあったものの、本年3月になって第二次発症


が起こった。


今度は腰から下のマヒと言語発音が出来なくなっ


た。


1ケ月弱の南部病院入院で、3ケ月強のリハビリ


病院磯子中央病院への転院があったが、脊椎の圧


迫ぱく骨折があった所為で処方鎮痛剤が効かない


腰痛がリハビリ施療の妨げになり途中退院し、訪


問リハビリを続ける道を選んだ。


それなりに、車椅子スロープの設置や家屋内の


whill生活への改修等をしてもらった。


妻や息子に感謝する。


リハビリ病院でのリハビリの様子は、それぞれ述


べてきたが、全体的に入院中は不便はあるものの


毎日施術が受けられるという利点が大きい。


自発的リハビリと言っても、安全を考慮すると、


どうしても単独では無理があることも悟る。



2021年7月11日日曜日

(82)リハビリ日記⑤田中ST.先生

 今度の16年経ってからの第2回ストロークのダ


メッジの最大は構音障害(dysorthria)(言葉の発


音が出来なくなること)と誤嚥が常習になったこ


とだ。


発音が呼吸の長さが保てなくなるので発音が正し


く伝わらない。


息を貯めて「あー」と長く小さい声で発声しよう


としても最初は3秒程度しか続かない。


誤嚥の方は、喉の筋肉が働かなるのに応じて、舌


の機能が劣化して、トロミをつけた飲み物や食事


でないと、呑み込みの対応が間に合わなって、い


わゆる誤嚥むせぶになる。


田中ST.先生は最初出会った時から僕の発声の言


葉を聞き取って呉れた。


ST.先生らしく僕の口と舌を観察して読み取って


くれたのだろう。


思わずいろいろな話に飛んだ。


この先生も美人でドイツのペンパルと英語で文


通しているという。


僕のkamome-ESS英語クラブのホームページ


を紹介したら見てくれて、朝夕のST.リハビリ


の挨拶はHow are you today! など、短い英語


を楽しんだりした。


I'm fine thank you. とウッカリ返すと「And 


you too? 」が抜けてるんじゃない?


と手厳しい。


あいうえおかきくけこの発音、ぱらからの発


音など上前歯と下前歯の裏側に舌を付ける所


からスタートして次に舌の使い方でラとカの


音が出るなど昔の英語教育ではあまりやって


来なかった発音の基礎からやる。


次に誤嚥が起こる舌の力をトレーニングする。


舌の先を下顎のほうに思い切り伸ばす。


アインシュタインが来日の折茶目っ気で長い


舌を出した写真が思い出される。


トロミ食やごはんや粥の選択など病院食の


面倒も見ていただいた。


それどころか、退院後の妻の食事作りの指


導手引書などまで細かく準備して下さった。


感情失禁という無意味に笑顔と泣き顔の表


情の使い分けができない状態の症状を教え


てくれた。

2021年7月9日金曜日

(81)リハビリ日記④養老OT.先生

 僕のカルテが既に行きわたっていると見え、リハ


ビリの担当先生は金子PT.先生、養老OT.先生、


田中ST.先生と決まっていた。


初日からこの順番でリハビリが進んだ。


養老OT.先生のリハビリはいきなり健全だと思われ


ている左肩甲骨の方から始まった。


16年前の初回脳梗塞発症以来、右肩甲骨のマヒに


ついてはテーブルの上に乾いたタオルを置き、両


腕をその上に置き、タオルと共に体ごと前屈し両


手を遠くへ伸バス運動と、シャツの着換え方練習


くらいしか覚えがないから、立って歩くことが重


点のリハビリだったのだろう。


最初から絵も字も左手の練習から始めた。


ややあって、左手文字練習は上手く行かず、過去


の字の膨大な記憶が脳のどこかに残っていると思


い込み、姓名と住所だけは右手による漢字で書く


ことに決め、猛練習をした。


だんだん右手で書く字数が増えてついには般若心


経の写経用箋を使うことを思いつき練習した。


お蔭で右手作業は何もできなかったが、字だけは


右手で書いていたから今回の再発症で養老OT.先生


の右腕のリハビリが始まった。


養老OT.先生は若くて可愛い小柄なチャーミングな


お嬢さんって感じで、構音障害の僕の話を聞き取


って呉れ、直ぐに僕のホームページを見てくれる


ようになった。


リハビリで、まずトイレに行く方法を伝授してく


れたのも養老OT.先生だった。


足腰が極端に萎えた僕を車椅子でトイレに連れて


行きトイレの補助バーを使って立ち上がりバーに


掴まって立っている間にズボンやパンツを下げて


便器に腰をかけて用を足す。


済んだらまた前の補助バーに掴まって、立ってい


る間に尻を拭いてもらってズボンパンツを上げて


もらう。


立っていられる動作に余裕が出てくると、自分で


尻を拭き、ズボンを上げることが出来るようにな


ると言うが、尻拭きは難しい。


水洗シャワー付きのトイレだと、楽である。


金子PT.先生にもリハビリ室への行き帰りにトイレ


に寄って貰った。


尾籠な話になったが、右肩甲骨の筋肉緊張がマッ


サージによってほぐれると、あら不思議、右手の


機能が少しづつ回復してきた。


右手の握りこぶしや開閉が出来るようになり、筋


力はないものの、動く範囲が広がりつつある。


養老OT.先生のリハビリで、体を机に長時間ベルト


で固定して長時間辰訓練と机で作業する訓練があ


り、懐かしい般若心経の写経をした。


何日かに分けて、どうにか完結したのもいい思い


出だ。


途中退院の今も、週一回の訪問リハビリで、自分


で訓練するしかない。


入院中、夜間は紙おむつにしてトイレに車椅子で


行くことのないようにしていたのはトイレに二人


がかりで対応する手間を省くことだったのだ。


実際ナースコールも頻繁だし、少ない人数ですべ


てをこなすのは、大変だろう。


リハビリの先生方も、時々応援に参加しておられ


る。


実に多岐にわたる細々とした作業の連続に、


不平を時々漏らしながらも笑顔で勤めておられる


姿を見るにつけ報酬も十分であることを願うばか


りだ。


養老OT.先生も僕の中途退院の行く末に金子PT.先


生とともに事前視察や退院後のリハビリにも配慮


くださった。


改めて謝意を申し上げたい。

2021年7月8日木曜日

(80)リハビリ日記③金子PT.先生

 南部病院で約1か月入院後、リハビリの磯子中央


病院へ転院した。


車いすごと乗れる福祉タクシーで転院した。


自宅は途中にあるので、途中寄って貰ってスロー


プ工事中の玄関周りだけ見えた。


コロナ消毒など長い手続きを終えて病室に案内さ


れたのが5時過ぎ、ややあって大勢が夕食を待っ


ているTVがある広間に車椅子で連れて行かれた。


車椅子での待機は1時間にも及び、スマホで遊ん


でいたが腰痛は耐えられないほど酷くもう懲り懲り。


口が利けないので、メモを書き以後はベッドで食べ


るよう嘆願した。


食事盆が到着するまで、ベッドで寝て待つ利点があ


る。


毎朝7時ころ2人の看護師さんが来て紙オムツの尿


パッド点検が来て、朝食後9時前に、リハビリの


便利のために看護師さんたちが紙おむつから紙パン


ツに交換する。


一方、その前に各リハビリの先生方がベッド脇の



予定表に今日の予定時刻を書いていく。


午前9:20金子PT.先生、午後2:00OT.養老先生、


午後4:20田中ST.先生という具合である。


金子pt.先生は美人で背が高い方で姿勢が良い。


足の脆弱を骨盤姿勢や筋肉の凝りから見抜きマッサ


ージしていかれる。


小田原の国際医療大学出身らしいベテランとお見受


けした。


僕の骨盤右足関係は前回の後遺症発生から16年間


も足が開く現象が欠点であったらしい。


立ったり歩いたりするときの重心安定の元になるこ


とを教わった。


そういえば、16年前のリハビリで大きい右足の装


具を作ったことがあった。


靴が履けないや邪魔くさいので自然着けなかったが


この時、既に欠陥があったのだろう。


金子先生の素晴らしいところは患部の欠点の説明と、


リハビリの次の手を常に予定されていることには驚


く。


口が碌に利かなくなった僕の意見も文字盤を使って


聞き取ってくれた。


今も毎朝ベッドからwhillに移る度に、左足で立って


次に左足の向きを確認しながら左右に体の重心移動


を確かめるのである。


訪問家庭リハビリ退院を調査から終始援助いただい


たのは金子PT.先生と養老OT.先生だった。 


入院中各先生に大学在学中の実習生が付いたが、自


分の学生時代の工場実習が思い出されて、一人前に


付き合ったつもりだ。

2021年7月5日月曜日

(79)リハビリ日記②

 16年前の脳梗塞発祥の時と同じく、入院一週間


くらいは後遺症は軽いように感じられる。


今回も発音障害はともかく、救急車に自力で乗った


から歩けるものと思っていた。


ところが初期の排泄はおむつだけで、トイレに初め


て行く段になって、足腰が全く役に立たないのを悟


る。


リハビリの療養士が病室が来るようになってようや


く事態を受け入れざるを得ないのだ。


3月7日の入院から3月末になって、リハビリ転院


を告げられた。


磯子中央病院、家の近くで一番条件が良いと南部病


院が選んでくれた。


以前から病院の名は知っていたが新しく転院の介護


タクシーで着いたのは、新装の病院だった。


入った病院は3Fで、100人位の入院患者4人


部屋や集会室風呂場などがある。


2Fにリハビリ室がある。


最初の日夕食は全員が集まるらしい集会所に車椅子


に乗せられて5時半ごろ連れてこられた。


初めのうちはスマホで遊んでいたが、右腰が痛くな


り、我慢できなくなったが、6時半ごろやっと食膳


が来た。待ち時間が長すぎて苦痛である。


口では言えないので、文を書いてベッド食に変えて


もらった。


食事が来てから座ることができる。


病院では食事から入浴、トイレに至るまでよく面倒


を見てくれる。


少ない人員で交代に一日中昼夜を問わずナースコール


に応えてくれる。


どちらかというと、若くない女看護師さんやフィリッ


ピンからの外国人などで構成する軍団が笑顔で働いて


いて頭が下がる。


一方、リハビリ病院として、男女の若い理学療法士


PT.(フィジカルテラピー)、作業療法士OT.(オク


ペイテラピー)、言語療法士ST.(スピーキング


テラピー)などが大勢いる。


16年前の僕の初回発症のころとはリハビリ技術も


始まったばかりで隔世の感があり、例えば今まで使


わないようにしてきた右足のマヒ部や多くは3角布


で吊ったような右手のチジミ込みを矯正してくれた。


入院中、30分以上座った姿勢でいると、鎮痛剤の


効果がない腰痛に悩まされるのがリハビリ効果の阻


害要因になり、従来飲んでいた漢方薬やで市販薬が


恋しくなり、途中退院で訪問リハビリを受ける道を


選びwhillカートで自主的に生活をさせてもらうこと


にした。家の改造や、前庭の車椅子アプローチ改造


など息子やワイフなどの理解に助けられての余生で


感謝に堪えない。


パソコンのブログやホームページの発信やfacebook


活動など、従来からの生活 Arts for Life's sake(人生の


ための芸術)を続けたいのも、我が儘の一つである。



2021年7月1日木曜日

(78)救急入院とリハビリ転院

 (78)救急入院とリハビリ転院①



20210307は南部病院での皮膚腫瘍の小手術の後の


抜糸の予約があった。


早朝と言っても午前2時過ぎ、起きてベッドから


回転事務チェアーに移り、床暖のスイッチを入れて


から何時ものfacebookへの日記投稿した。


腰が痛くなってベッドに戻ろうとして失敗してズル


ズルと床にずり落ちた。


独力ではベッドに戻れないし、夜中に家人をたたき


起こすのも大騒ぎになる。


 幸い、床暖swは入れてあるから、寒くはないの


で床で皆の起床を待つことにした。


7時ごろ家人が起きてきて息子や孫の助けでベッド


に戻り2度寝。昼頃起きて、ワイフと丁度改装計画


中の玄関前の車椅子スロープの話をしている最中に


ロレツガ回らなくなった。


自分で気が付いたので、直ぐに救急車を呼ぶように


ワイフに頼んだ。


救急車が来て自分で歩いて乗った。


担ぎ込まれた南部病院の応急処置が済んで病室に


入れられて、翌日には構音障害(言葉を話せない


障害)が顕著になり食料に「トロミ」を付けない


と誤嚥するようになった。


歩けない、立てないと自覚したのは1週間後だった。