2015年5月10日日曜日

敗戦前の外地の国民学校の友に出会った。

  敗戦前の外地の国民学校の友に出会った。

 ワシは数年前から近隣の”横浜タウン新聞”というローカル商業新聞に自分の「スロウライフあれこれ」についてエッセイを投稿していた。
何年か続けていたが、最近自分のブログやホームページの更新が忙しくなり、間遠になっている。

 ある日、新聞社から、エッセイにあった「植民地時代の朝鮮・京城(今韓国・ソウル)の桜ヶ丘国民学校」という名と敗戦に依って難民になって逃げ帰った「竜山駅」という当時の京城の貨物駅のこと、釜山(プーサン)港から「興安丸」という引揚船で山口県・「仙崎漁港」に引き揚げたというキーワードを偶然見つけた隣町港南台の紳士から問い合わせがあったので、連絡先をお答えして良いかとe-メールが入った。

 早速、お受けして数日後、拙宅に近い洋光台駅横のド・トール珈琲店で初めてお会いした。

 話は劇的とも言えるものだった。
桜ヶ丘国民学校にはそのSさんが敗戦当時4年生、ワシが3年生、住んでいた所は同じ新堂町、当時には珍しい新しいコンクリート建て3階ビルに暖房用煙突のあるの校舎や、校庭の藤棚の事など、ワシが持って行った通信簿などを交えて話した。

 さらに、ビックリしたのはSさんのお母さんの実家が神奈川県の小田原に近い山北というところで、高校を出てから東京芝浦電気株式会社(現東芝)小向工場に入社したという。

 何とワシが入社し配属されたところも同じ小向工場だったのである。ワシが小向工場無線機技術部に入った当時、Sさんは品質管理部を経て社内の専門校を志望し、上長に相談しながら、当時新設された中小企業診断士の資格を得て、さらに社外へと成長する過程だったらしい。

 当時の工場長や関係部課長の名前が共通記憶にあったのである。
それらの人々とのエピソードを交えて話し込み、時間はアッという間に経った。
Sさんには桜ヶ丘国民学校上級生のお姉さんがいるという。
早速ワシが参考に持参した京城の地図(ワシが京城中学生だった叔父からもらったいた)などをコピーして見せるのだという。

 こんなにご縁があった人が、すぐ近くに住んでいて、この歳になって偶然出会うことになるとは・・・人生面白いものだと思う。
喫茶店に行く前、自宅で先年まで続いていた桜ヶ丘国民学校の同窓会の資料を探したが、見当たらなかったのが残念だった。

 すぐ下の公園脇には桜ヶ丘国民学校卒の年配の奥さんが居られ、ワシのQ大の先輩の旦那さんは京中の叔父と同年の共通の友達がおられた。
その方は電通の会長さんだったが先年亡くなったのは残念である。
人間どこでどうつながっているのか、計り知れない気がする。