2015年6月28日日曜日

第11回目のGM同窓会

第11回目のGM同窓会
 天気予報は終始雨だったので雨の中、頭から被る簡易合羽を着て最低バス停までは歩くのを覚悟していた。

しかし、当日になってみると幸い門を出てバス停に歩く段には曇で助かった。

10:17の上大岡行きに乗り2つ先のバス停で10:37の横浜駅行きに乗り換えると1本でいつもの会場に行ける。

今年も去年と同じ参加者は最高の55名だという。
1年ぶりに会う皆の無事を喜び合った。
この会員ではない物故Y大先輩の仏前のタブレット写真を見せてもらいながら、奥さまは入院で日頃はお宅は無人だと聞くと、人事ではないなあと天ならぬ天井を見上げる。
幹事団紹介

去年はイベントに部にまつわる歴史クイズが座席グループ対抗であったが問題作成の幹事団も答えるグループも疲れ果てて、今年は長年夏秋の新島試験場や静内射撃場での思い出のトピックを数十分の音声入りのスライド・ストーリィに幹事の一人Mさんがまとめてくれたのを上映してくれた。
一部ワシの当ブログなどの引用をしてくれて(事前了解もとってくれた上で)久しぶりに皆んなと共有した「試射場で、ひたすら空と海を眺めた日々」を思い出した。
このような共通の思い出を持ち現在に至っている事業の大きな流れがあるからこそGM同窓会なのだと皆と喜び合うことが出来る。

そろそろ?・・・などという声もありそうだが、来年も日取りと会場予約は済んでいるそうな。

2015年6月21日日曜日

パリのエアショウ

パリ・エアショウ

 facebookに今年のパリエアショウに公開されるというボウイングのアクロバット797モデルの軽快なフライト動画が出ていた。
それを見て、1989年のパリのエアショウに行ったことを思い出した。
その時にはまだ米ソ冷戦が続いていた時代で、ソ連の巨大な貨物ジェット機が公開されていた。
10輪もあろうかという巨大車輪に支えられた胴体に巨大エンジンが4つも付いていたか?巨大な翼の下には大型のヘリコプターがそっくり駐機していたっけ。
スペースシャトルも運べそうな貨物機だった。
ソ連は本気で運ぶつもりだったかもしれないと思ったものだ。

またその年、ソ連は多分最後のMIGになった機を2機ドゴール空港に持ち込んだ。
空中で垂直に立って居ることが出来、その姿勢から反転し急降下爆撃姿勢に移るという離れ業が出来たという触れ込みだった。
デモンストレーション・フライトも見たように思うが、滞在中に1機がフライトに失敗して地上に墜落したというニュースが流れ、デモは中止になった。

ソ連のいろいろなピンバッチを貰ったパリのエアショウには思い出がたくさんある。
パリに初めて行ったのもその時だし、フォンテンブローの森の近くの古館でスエーデンの航空機メーカーのレセプションに出席し、そこで驚きの偶然にワシが北海道でかねてより親しくしていた千歳の老友人の友人だという米国人に会ったりした。

空いた時間に同行のMさんとパリ南部近郊の古城めぐりを楽しんだのもその時だった。


2015年5月10日日曜日

敗戦前の外地の国民学校の友に出会った。

  敗戦前の外地の国民学校の友に出会った。

 ワシは数年前から近隣の”横浜タウン新聞”というローカル商業新聞に自分の「スロウライフあれこれ」についてエッセイを投稿していた。
何年か続けていたが、最近自分のブログやホームページの更新が忙しくなり、間遠になっている。

 ある日、新聞社から、エッセイにあった「植民地時代の朝鮮・京城(今韓国・ソウル)の桜ヶ丘国民学校」という名と敗戦に依って難民になって逃げ帰った「竜山駅」という当時の京城の貨物駅のこと、釜山(プーサン)港から「興安丸」という引揚船で山口県・「仙崎漁港」に引き揚げたというキーワードを偶然見つけた隣町港南台の紳士から問い合わせがあったので、連絡先をお答えして良いかとe-メールが入った。

 早速、お受けして数日後、拙宅に近い洋光台駅横のド・トール珈琲店で初めてお会いした。

 話は劇的とも言えるものだった。
桜ヶ丘国民学校にはそのSさんが敗戦当時4年生、ワシが3年生、住んでいた所は同じ新堂町、当時には珍しい新しいコンクリート建て3階ビルに暖房用煙突のあるの校舎や、校庭の藤棚の事など、ワシが持って行った通信簿などを交えて話した。

 さらに、ビックリしたのはSさんのお母さんの実家が神奈川県の小田原に近い山北というところで、高校を出てから東京芝浦電気株式会社(現東芝)小向工場に入社したという。

 何とワシが入社し配属されたところも同じ小向工場だったのである。ワシが小向工場無線機技術部に入った当時、Sさんは品質管理部を経て社内の専門校を志望し、上長に相談しながら、当時新設された中小企業診断士の資格を得て、さらに社外へと成長する過程だったらしい。

 当時の工場長や関係部課長の名前が共通記憶にあったのである。
それらの人々とのエピソードを交えて話し込み、時間はアッという間に経った。
Sさんには桜ヶ丘国民学校上級生のお姉さんがいるという。
早速ワシが参考に持参した京城の地図(ワシが京城中学生だった叔父からもらったいた)などをコピーして見せるのだという。

 こんなにご縁があった人が、すぐ近くに住んでいて、この歳になって偶然出会うことになるとは・・・人生面白いものだと思う。
喫茶店に行く前、自宅で先年まで続いていた桜ヶ丘国民学校の同窓会の資料を探したが、見当たらなかったのが残念だった。

 すぐ下の公園脇には桜ヶ丘国民学校卒の年配の奥さんが居られ、ワシのQ大の先輩の旦那さんは京中の叔父と同年の共通の友達がおられた。
その方は電通の会長さんだったが先年亡くなったのは残念である。
人間どこでどうつながっているのか、計り知れない気がする。



2015年2月28日土曜日

昭和というたからもの

 昭和というたからもの

2015年も2月が終わった。 何時もはあまり気に留めないカレンダーをめくろうと、ふと絵を見ると懐かしい谷内六郎の絵だった。
各月の絵にコピーライターの岩崎俊一のコピーが入った「昭和というたからもの」という題名のカレンダーである。

2月末に辻堂の岡田稔さんが亡くなった。早稲田の理工出身で、偶然亡弟の泰夫が日産に入社した時、同期に早稲田理工のKUROIWAさんが岡田さんの親友だったご縁があった。
入社は一年先輩だった。 放送機部門からGM部門に換わってこられた。
GM部で永らく一緒に働きゴルフの行き帰りなどに辻堂のお宅にもよく遊びに行ったが、会社を卒業してから病気がちになられ心配していた。
亡弟泰夫が古希前に亡くなってもう10年になるから、喜寿になられたであろう。

ここ数年の内に会社同僚の昭和生まれの若い人も含め数人失ったが、あらためて昭和という時代を思い出すことが多くなった。