2018年2月21日水曜日

駆け出しの頃

入社して数年、わが国で初めてフェライト位相器を備えたフェイズドアレイアンテナを備えた大電力マイクロ波送受信機を試作した。
その頃初めて出始めた米国デジタルイクイプメント社のマイコン(マイクロコンピューター)DEC-10を使ってそのお化けみたいな送受信機をデジタル制御したのもわが国初だった。
その頃米国では同じようなフェーズドアレイアンテナを備えたレーダー、SAM-Dが出来つつあると報じられていた。
それが今のPAC-3の原型だった。
ワシたちは発注元の研究所の技官の方々と器材を丹波半島経が岬近所に持ち込んで試験した。

その試験で官側の若い技官や制服組の方々と寝食を共に過ごしたようなものだから、その後も仕事での付き合いを通じて一生のお付き合いになった。

今日この項を書いたのは、先ほどTVの京都紹介番組で西陣織の話を見たからである。
その器材試験の時の任官したばかりの制服組の一人に西陣織元の出身だという人がいた。
彼は試験中も家を継ぐことに迷いがあった。
というより、任官したことに迷いがあったのだった。
ワシが会社の人間で、悩みや迷いばかりの所為か気が合ったのか、話込むことも多かった。

試験に切りが付いた頃、彼は退官して西陣織元を継いでワレワレから姿を消した。
西陣織の番組を見る度に、どうしているだろうかと、彼の顔を探す自分である。

2018年1月28日日曜日

厳冬で思い出すこと                     

今年は世界的にも厳冬だとか。
厳冬で思い出すのはミサイル射撃管制レーダーの試作機の初めての寒地試験を北海道千歳市祝梅の陸自第7師団基地内でやった時だった。もう40年くらい前だったろう。
その年も極端に厳冬だった。
いろいろなエピソードがあったが、毎朝試験場に着くと、ハットメントのドアノブが素手では触れない。
触ると手がドアノブに凍り付いてめくれるのだ。
温度計では-14,5℃だったが、新聞によると名寄で-30度だったという。
また、試験器材の基台に付けていた油圧水平脚が朝日が昇って日があたると、見る見る影側と日照側の脚に伸び差が出て、例えば1ミル(角度値1/1000)の基準が保てない。
温度傾斜が一様でないのには驚いた。

それでも、今年は首都圏近郊で朝-8、9℃を記録しているから厳冬というのも頷ける。

2018年1月11日木曜日

北海道日高山脈幌尻岳

夜中に目覚めてトイレに行った。
早く寝たせいか、日付が変わったばかりで、ベッドに戻らないでTVを点けた。
ちょうど百名山の北海道日高山脈幌尻岳特集だった。
幌尻岳に登ったことはないが、旧静内町の第7師団高射特科連隊に初めて行った頃の強烈な思い出がある。

そのころ、北海道知事は革新寄りの横道さんに代わったばかりで、特科連隊で新しいロケットの実用試験を始める環境は未知数だった。
砂川闘争などがあって間もないころだったから、自衛隊の官も試験に労務借り上げで参加する民=会社も騒ぎを恐れていたらしい。
わ々会社の出張員も旧静内町には泊まらず、隣の旧新冠町(ニイカップ)の古宿に泊まった。
特にその頃から静内には、競馬馬の市が立つっていたので、全国から博労が札束を立てるほどの金を持って集まるという噂で、静内の街は景気が良く見えた。 
ある朝、レンタカーで東静内の海浜の射場に行くと、連隊の人たちが実験のテントや器材に大きい対空偽装網(バラクーダ)を架けていた。
なんでも、札幌の北海道拓殖銀行の頭取さんが幌尻岳に単独登山してクマに襲われての遭難らしいというのである。
幌尻岳が静内の奥の日高ダムの更に奥にあるから、遭難救助ヘリや人員の基地になるらしいと知った。

そこで、実用試験が上空から見えるのを避けたのだろう。

その後、奥の日高ダムには何度もレンタカーを駆って危険な崖路や工事中の道を走ったのを思い出す。
タラの芽を採りに地元の人と更に奥に入ったことはあるが、幌尻岳には行き着けなかった。
しかし、TVの百名山のアプローチは全く違って、その頃鉄道があった終点の日高駅の方からだったようだ。
遭難を恐れてか、ルートは詳細には映していないように思えた。

あれから20年以上も経ち、毎年の第7高射特科連隊のミサイル発射実用試験は公開され、市長さんたちも招待されて一般市民も見学出来るようになったのだから、隔世の感がある。


2017年6月22日木曜日

2017年GM同窓会(第13回)を終えて

 6月17日土曜日、天候に恵まれ、予定通り直通バスで横浜駅東口改札前まで行き、杖突歩きで広場を横切り崎陽軒本店の同窓会場に定刻に到着。
仲間たちと1年振りの再会を喜び合う。
今年はOB出席者が49名、現役を加えて60名の大会合。
幹事団が作った会の冊子を手に、和気あいあいの会は最後の集合写真まで乱れなかった。
冊子に乗っている集合写真は、当然去年のもの。


2017年5月28日日曜日

’70年万博の頃(4)

’70年万博の頃(4)
明け方珍しく夢を見た。
どこに行っているのか分からないが、パートナー他社と組んでの受注プロジェクトの現地指揮を執っている。
執務室は受注先の近くの駅構内に借りた電車車両の中で、必要な情報を携えた自社パートナー社の人たちが西から東から電車の乗って行き来する。

電話はあるが、パソコンもないメールもない。
’70年万博の頃のままである。
受注のための良いアイデアを次々に繰り出して、実現のために必死になっている。

自分だけが中心になって出張員だけを頼りに指揮しているが、パソコンやメールを使えば
列車を借り切ったり、出張費も出さずに済むではないか。
何と無駄なことをやっているんだろう?
いや、本音を言うと出張が楽しいんじゃないのか?

そこで目が覚めた。ラジオ深夜便のイヤホンが何やら「私のがむしゃらな時代」的な話をしているようだ。

2017年4月9日日曜日

’70年万博の頃(3)

’70年万博の頃(3)
 明石に工場があった会社と共同開発することになったレーダーの初回設計会議が舞子の旅館で開かれることになった。
両社の担当事業部長、部長、課長、主任、担当が泊りがけで顔見世を兼ねシステム検討をする会だった。
 業界はまだ余裕があったものと見え、全部で20名ほどが加わった。
新しいレーダー設計の主な点でわが社が提案した方式について論争があったりしたが、先ずは和やかな会だった。
ワシら最も若く生意気だった同僚二人は、彼が買った新しいカローラに乗って出来たばかりの東名高速と、名神高速を走って参加した。帰りに’70年大阪万博に寄ろうとの魂胆からだった。
マイカーで万博に行く人は少なかったのか、駐車に苦労した覚えもないが、馬鹿でかい太陽の塔と、凄まじい人数の印象だけが残っている。
夕方に出発した帰り道も交代運転で真夜中まで走ったが、電車もない時間、どうやって家に帰り着いたのかサッパリ記憶がない。
その頃ワシは、日産の弟の紹介で中古スバル360から新車サニーに乗り換えたばかりだった。

2017年3月8日水曜日

’70年万博の頃(2)

      ’70年万博の頃(2)

ECM/ECCMというのはElectronical coutermeasure/Electronical couter-
countermeasure電子妨害・電子対抗妨害と言い、相手の探知電波を妨害したりその妨害に対抗手段を使う技術で現代電子戦では高度の不可欠技術である。
例として戦闘航空機の電波的形状を極度に電波反射を少なくし、レーダーに探知されないようにするステルス技術なども含まれる。
当時でも言葉としては流布していても、性格上具体的技術は開示できないからすべての電子的技術には必ずそれに対抗技術があるから、その研究は電子技術研究そのものということになる。

総合研究所で米国の電子通信学会誌をむさぼり読んで、ECM/ECCMの研究が出来たのも後々非常に役に立った。

まず最初に、防研の依頼でアンテナのレーダー電波の走査方向を電子的に制御出来るフェーズド・アレイ・アンテナを試作し、黎明期時代の米国デジタル・エクイプメント社のマイクロ・コンピューターDECー10を使ってわが国初のマイコン制御機器を試験した。