2020年12月7日月曜日

(58)体操日課

 いつの頃からか、町内の年寄りの会「第一クラブ」の

寄り合いや、第2,4週火曜日朝の公園清掃の時に元気

の良い93歳のAKさんのリードで軽い老人体操をする

ようになった

世話役の一人、僕と同い年のIUさんも市の方から老人

体操マニュアルなどを仕入れて来て披露する。

僕が二度目に倒れた頃、奇しくも世の中がコロナ禍で

一変した。皆”三蜜”を避けるため集まらなくなり、IU

さんも引き籠ってしまった。

何とか少人数で続けていたグラウンドゴルフ(以下G

ゴルフと書く)も一人故障すると、ゲームにならなく

なった。

体操もしなくなって「歩けなくなる?」という危機感

が生じた。

パソコンの机の前に殆ど一日座っていて、思いだした

時にスクワットを30回程度やったところで焼け石に水。

これはやはり、スポーツ選手のように計画を立てて

毎日決まった量の体操・トレーニングを日課とする

外ない! 

計画を立て始めてみる。

毎日の体操日課

14:55~15:00 TV体操

15:00~15:05 自由体操

15:05~15:10 スクワット

15:10~15:15 額押/ケツ締

と言うことになる。

毎日20分間だが続けることが大変である。


2020年10月21日水曜日

(57) 「三国志」三昧

amazon prime に加入すると盛んに見放題

という特典が付く。

最初のうちは山田洋二監督の寅さんシリーズを見て

いたが、それに飽きて小編映画も見て来たが、それ

も良作も無いし、迷っている所へ「三国志」が現れ

た。

中国映画で字幕は付いているが、原語のままである。

エピソードで区切られているが、全体のエピソード

がいくつあるのか、姿は見通せない。

 意を決して、見始めた。

 先ず、事情あって司馬家に預けられて、その息子

の弟分として身を寄せている青年が、現皇帝の要請

で秘かに奪われる。

実は、先行き長く生きられぬ皇帝の策略で双子で生

まれ、秘かに行方を眩ませていた弟を皇帝の身代わ

りにする策略が展開される。

回りの民族の治安や動静、駆け引きなどが展開される。

初めの内は、赤壁の腑で有名な曹操の軍は少し離れ

た所で威厳を奮っているが、その前後や周りの勢力

との間の智謀、謀略を尽くしながら曹操との対決に

誘われて行くのだろう。

エピソード1個で45分、エピソード36まで27時間

見たが、まだ赤壁に至らない。

エピソード37以降がprime会員に無料開放されるの

は来月3日以降うだそうだ。

漢民族の地縁、血縁に掛ける義侠の世界に圧倒される。

この合間を抜けて、吉川英治の三国志の世界を覗く

ことにした。

元々三国志の原本とされるのは三国志演義ともう一つ

あるらしいから、違った世界があるのだろう。

2020年10月11日日曜日

(56)クラシック三昧

 20201012(sun)は台風14号が伊豆半島沖で急に

方向を南方に変え衰退した日である。

三宅島、御蔵島他、伊豆諸島は豪雨に見舞われたと

いう。

日曜日の今日は、何時ものように早朝にfacebookを

投稿してから、2度寝をして6時過ぎに起きる。

訳もなく心に余裕があって、PCのメールチェックで

YOUTUBEのアナウンスに乗って何時ものクラシック・チ

ャンネルに接続。

①サンサーンス チェロ・ソナタを

 コペンハーゲン・フィルで聞く。

②モーアルトのフルートとハープ協奏曲を

 ズービンメーター指揮、

 J.ローヴィスターのハープと

 G.ホッシュドのフルートで聞く。

③ベートーベンのバイオリンコンチェルトを

 バレンボイム指揮のベル・フィルで

 パールマンのバイオリンで聞いた。

久しぶりに、演奏会に行った積りで3曲続けて聞いた。

心に笑顔が出来た。

Brooksのヨーロピアンブレンドが利いた。


2020年10月7日水曜日

(55)日々小さい新発見を探す



 毎日が引き算になりがちな


老いの日々を楽しくするには


何でもいい、小さい新発見を


探すに如くはない。


例えば、最近の例では16年前


に発症した右麻痺後遺症で、


自分の意思により動かすこと


が出来なかった右足首とその


先の親指などが、ある日突然


僅かだが動いたのだ。


その発見の喜びったらこの上


ない。持病の腰痛が長年治ら


ず、先ごろ飛び込んだ指圧施


術の効果の一部と思われるが


思わぬ新発見であった。


 僕の電動カート歴は、もう


6年以上になるが、この5月に


第2回目の脳梗塞軽発作による


不良機能のさらなる追加により


益々カート依存度が増えている。


 今までの最大連続運転距離は、


わが家から横浜元町公園までの


地図上の直距離、約13km往復


である。


kamomeESSの花見だった。


この月曜日10月5日には、僕の


カート歴上、初の大冒険、横浜


市営地下鉄にカート毎、乗って


横浜駅東口のSOGOビル9Fの


ヒアリングセンターに、補聴器


メンテに行った。


 2月の工場への郵送修理以来


やっていなかった事後メンテに


行きたがったがコロナ禍で延び


延びになっていた。


 行程は先ずブルーライン


上大岡駅路上エレベーター口


まで約4km、地下B1の改札口  


で行き先駅横浜駅を告げた後、


ホーム階B2にエレベーターで


降り、ホームの最前方にある


6番ゲートまで走行すると、


ホームと電車の渡し折り畳み


治具を持った駅員さんが待っ


ている。電車が来る。


乗客の降乗車の後、駅員さん


が渡し板をセットし、カート


で乗り込み適当なスペースに


駐車。一連の動作はたちまち


終わる。


乗りなれた地下鉄の揺れも、 


カート上だとまた違う


着いた横浜駅のホームも同じ


く6番ゲートだ。


なるほど全駅統一らしい。


熟知していたはずの横浜駅構


内も降りたホームからのエレ


ベーター探し、スロープ探し


で、中央広場辺りに出ると、


すっかり雰囲気が変わってい


るので方向音痴状態。


やっとB2階の東口に着くと、


ここも様変わり、SOGO正面


に繫がっている。


SOGO内のエレベーターで、


やっと9Fに着いた。


予約時刻15:00の30分前。


家を出てから約1時間かかっ


たことになる。


帰りは余裕ができB2の生鮮


売場で寿司折などを買った。


同じ帰路を通り家に17:00


帰着。この初冒険でバス


や電車を使わなくても僕の


歩けない身障者としての


行動範囲はうんと広がっ


たのである。


この新発見がもたらす新


心境地は大きい。

2020年9月16日水曜日

(54)藁にも縋る(すがる)思いの新境地。

 「藁にも縋る(すがる)思い」という


文章表現はもう死語かも知れない。


肝心の藁は、お正月の締め飾り以外に


生活に現れないし、溺れそうなときは


丈夫なテフロンロープに縋るだろう。


長男が小学校に上がる時、公団の住宅


予定地分譲に応募して補欠になり当選


者が辞退して買ったのが今住んでいる


洋光台で、家を建てた時ハリキリ過ぎ


て、庭の廃水口のコンクリ・マスを動


かそうとして腰をギクっとやった。


以来およそ30年、X線や鎮痛剤、マッ


サージなど整形外科に通い続けても効


果が無い。


遂に、この春、ネットで探し当てた近


所の上大岡に若い鍼鍼灸師たちの鍼灸


院を見つけて、健康保険の範囲の鍼灸


に通ってみた。


この時は保険の制約から、施術の時間


制限もあり、腰痛解放には至らなかっ


た。


そうこうしている内に、2度目の軽い


脳梗塞発作に見舞われ、足腰が更に弱


くなった上、腰痛が更に強くなった。


遂に、それこそ「藁にも縋る思い」で、


健康保険外の東洋式医学の施術をネッ


で探してみた。


幸か不幸か、カートでアプローチ出来


る港南台に一軒見つけた。


全国にチェーンがあるその施院の基本


は基本的には指圧の部類だと思われ、


50分間4000円の一律料金である。


初回だけ割引がある。


これまで、3回予約通院したが、毎回


ごたえ,いや、身ごたえがある。


第1回は腰痛が和らいだし、右足の浮


腫みを訴えた2回目は右足が痛いほど


の指圧の結果、16年間も自分の脳で


動かせなかった右足首を着地姿勢に、


意識して動かせた。


2度目の発作で、口がモトワラナク


なって先生に口頭説明が出来ないので


毎回word文書にして身の反応を書い


て持参するが、先生も喜んでくださ


るのは言うまでもない。


さて、次回は1週間後、身の応答が


楽しみではある。


2020年8月31日月曜日

(53)青海島共和国情報誌

 青海島共和国は旬刊で共和国誌を発行して


国内の動静を発信している。


勿論、共和国のホームページもあるが、


なかなか行き渡らない様に思う。僕も


私設応援団の一員として自分のブログ


にも共和国情報誌を発行の都度転載す


る積りである。




ちなみに、自分も青海島共和国の膝元、


至近の旧大津高校(現大津緑洋高校)


に学んだし、現浜野達男国王陛下は


同級生である。






2020年8月25日火曜日

(52)青海島共和国私設情報ページ・国立博物館開設記念編

山口県長門市にある青海島は約9千年前

の火山活動出来たと言われる岩石景観

と海文化、古くからの捕鯨文化と、金子

みすゞさんの詩にも歌われた情景と豊富

な海の幸の楽園です。

 僕の高校時代からの親友濱野達男君が

情熱を持って旧青海島小学校校舎を中心

に共和国を作り、国王に就任しました。

まだお許しを得ておりませんが、国王

陛下が下さった情報誌でPRのお手伝

いをします。



 2020年8月2日より一般公開 

開設展示します。


2020年8月15日土曜日

(51)思い出;敗戦の日

サンルームは開け放ってあった。


サンルームから防空壕に入る入り口も


跳ね上げ戸も開いていた。


朝日は燦燦と輝き、何故か風は暑くは


感じなかった。


お昼にラジオで天皇陛下の勅語が放送


になるということで、日本がこの戦争


に負けるとは思ってもいなかった。


サンルームからは町内の家の屋根越し


に、お寺があった生駒山が見えた。


オンドル部屋の西の窓からは、目の前


に父が招集されていた南山の陸軍高射


砲陣地が見えた。


外に出て、石炭置き場とその横の物置


小屋の前の塀から南山と、北の方には


東大門の城壁と新堂町の電停方向の街


並みが見えた。


お昼になって、ラジオ放送を聴きに


大人たちが集まったが、再生式ラジオ


のフェージング交じりの音は子供の耳


には聞き取れなかったが、祖母、父母、


オモニ(朝鮮人の若いオバサンのお手


伝いさん)などの大人には聞こえた


らしい。


戦争に負けた、それだけはハッキリ分


かった。


直後、町の方から「マンセー(日本語


の万歳)」の声が上がった。


驚くほど大勢の声だった。


父は外に出ると危ない ! と言って、


玄関入り口の戸を閉めて、窓も閉め


始めた。


西側の窓から、いつもの「赤トンボ」


とアダナが付いた複葉の陸軍練習機


が飛んできた。


何時ものように、威勢よく宙返りなど


を繰り返していたが、何か様子が違う


なと思っていた矢先、急に爆音を上げ


て真っ逆さまに、町の中へ消えて行っ


た。黒煙が上がった。


ハワイ・マレー沖海戦の映画を見に行


った劇場の方だった。


「自爆だ」と父が言った。


「マンセー」の声もひと時収まったか


に見えたが直ぐに復活した。


驚くほどの速さで、家の周りにも


カーキ色の見たことの無い軍服と、


色紙で折ったような小さい四角帽を


チョコンと頭に乗せた若者たちが集


まって来た。


地下で用意してきた、今で言うボーイ


スカウトの制服だった。


そのうち「路面電車は朝鮮人に占拠さ


れて、日本人は乗れない」とか「日本


人が金品を強奪された」などのデマが


聞こえてきて、日本人はビクビクし


いた。


オモニも旦那を連れて来て「日本に帰


る時は家具を下さい」と言う。


売れと言うのではない、どうせタダだ


と見くびっているのだ。


父の会社はアジアの日本の植民地を


経営する、東洋拓殖株式会社(公社)


(略称;東拓)だから敗戦で襲われる


恐れはあっても、自動消滅みたい


もので資産は現地に残るだけで危害は


ないから救われたのだろう。


1991年に友人YNさんと、この家に


再会した時もサンルームも、西側の窓


も、石炭置き場と倉庫小屋も残っていた。


訪ねて行ったお礼に、ホテルの花屋


さんから、お祖母さんに贈っておいた


花束のお礼に、翌日流暢な英語だけ


お孫さん夫妻がロッテホテルに来た時


に、持参してくれた、我々の引き揚げ


後に残っていた分厚い青磁の小皿が、


わが家の宝物になって、今も故郷の


仏壇脇に鎮座している筈である。




2020年8月4日火曜日

㊿ The youngest friend of main.

もう10年近くなろうか?箱根仙石原の

リソートクラブに通っていた頃、小田原

から桃源郷行きのバスに乗るのが普通

だった。30分に1本のこのバスは混む

ことが多く、発車予定30分前のバスに

乗る積りで並んで待つのが普通だった。

発車間際に大きい旅行ラゲッジ押した

上に、大きいバッグ2個を抱え、首に

長いレンズを付けた一眼レフを下げた

明らかに中国人と分かる大きい体格の

色白の青年が乗って来た。

当然のように空いた席がない上にコロ

付きのラゲッジは箱根の坂を上がる時

は椅子に固定しなければ、揺れで走り

回るから何処かへ固定しなければなら

ない。

僕は取り敢えず英語でラゲッジを僕

の席の取っ手に結ぶことを伝えた。

大きい手荷物も僕の膝の上に置か

せた。聞けば上海から東京の仕事

で着いたばかりで、第一日に箱根

に泊る計画だと言う。

日本は初めてではないらしいが、

いつもは仲間と団体で来ること

が多いので、今回が単独で歩く

のが初めてだそうだ。

途中で降りる人もあって、バス

が空いてきて、やっと車窓の景

色などをワイフ共々、説明して

いるうちに仙石原で我々は降りた。

バスの中で自分のホームページの

URLとメールアドレスだけは伝え

ておいた。

メールを交換しているうちに、彼

がマレーシアの華僑の息子でクア

ラルンプールの大学を出て上海の

米系会社のソフトエンジニアーを

勤めていることが分かった。

日本が好きで、余暇があると全国

の温泉や日本の名所に行っている

と言う。

それからというもの、箱根や伊豆

や湯河原の温泉を案内して歩いた。

マレーシアにはご両親も健在だそう

で、年は僕より若そうだった。

親は早く所帯を持てと言うそうだが

まだまだ一人で旅行している方が良

いと言う。

熱心に僕のホームページのエッセイ

を残らず彼のタブレットにストアし

て、日本語の勉強に使っていると言

う位僕を信奉してくれている。

日本に来るたびに、僕の趣味を忖度

して中国の牡丹の掛け軸だとか現代

の画家の大判絵図だとか、一番驚い

たのが中国の古くて分厚い蘇州絵図

一巻を抱えて日本に持って来てくれ

たのである。

現代日本の青年で、年寄りの友達に

古典の蘇州絵図大冊を携えて来れる

人がどのくらいあるか、想像もつか

ないが、あんな大冊の古典が買える

財力と言い、手土産にする発想を持

てる教養と言い、年寄りの僕が驚く

くらいだから、そんなに多くは無い

だろう。

僕が何かにつけ「ありがとう」と言

うと「そんなこと言わないでくださ

い」と言う。

目上の人から「ありがとう」と言わ

れる習慣が無いのだ。

僕との会話は主に英語だが、彼の使

う漢字は台湾の繁字体で、僕が筆記

文を書くと非常に喜ぶ。

論語の文を書いてやると、話が弾む。

5,6年前に僕の年が78歳、彼の歳が

39歳、丁度半分になった。

最後に案内したのが富士山で予てより

SNSで知古であった富士吉田市の温泉

付き貸別荘Pクラブに案内して、この年

のシーズン最終のバスで5合目まで案内

した。PクラブのTY社長にもずいぶん

お世話になった。

これを最後に、この友人に体力的にも

ついて行けない自分を感じ、決別を申

しでて、了解してもらったと思っている。

思えば上海で米系会社で働くマレーシア

の青年と知り合えて、親戚の様に行動を

共にするなど、非常にラッキーな出会い

であった。

C.Cさん、ありがとう。

いや、何時までも忘れないよ。

ご両親にもよろしくお伝えください。


2020年8月1日土曜日

㊾夢は正夢?

気分が週末は特にキツイ。

何もすることがなくなるから。

2nd stroke の前は何かとすることが

あったような気がするが今はイケナイ。

体に力が無いと、何もやる気がしない。

詰まり気で負けているのだ。

座り続けていると、腰が痛い。

つい、脇のベッドに横になる。

と、眠くなる。夢を見る。

今、ネットでは仏像のレプリカが売れ

ているそうだ。

夢だから、真偽は分からないが、本当

なような気がする。

コロナ禍で不安一杯の人には、祈り

が必要だろう。

約20年前の一頃、韓国に行くと松

に手で彫った高さ30㎝程の観音像

がお土産に沢山出ていた。

僕も買ったが、ふさわしい人に

上げてしまった。

故竹中敏洋さんの恵庭・盤尻の

アトリエ裏の川のほとりに立って

いたアニール確認用の静内真歌

(マウカ)のシャクシャイン立像の

1/2像が思い出されて、祈りを感じた

ように、祈りに何かアイコンが必要

なのかもしれない。

西洋彫刻も考えられるが、コロナ禍に

は仏像がよく似合うような気がする。

月曜日からはリハビリ病院に通って

みる積りだ。

気が取り戻せれば、すべてが動く。


2020年7月28日火曜日

㊽先輩三宅明画伯の残した明何会の思い出



三宅 明画伯は大分県竹田市の岡城趾に

生まれ明治専門学校(現在九州工業大学)

電気科を卒業後、武田ハネウエル(株)

勤務の後、画業諦めきれず美術結社に

所属して、パリのドウトンヌ展を

はじめ数々の展覧会に出品し美術

年鑑誌にも常連の地位を築かれた。

九工大の東京新橋の同窓クラブ、鳳龍

クラブ会員を中心に「銀座を描こう会」

「鳳龍水彩クラブ」を中心に、京橋に

あった喫茶店での三宅画伯の個展に

便乗して初めてのグループ展を

立ち上げて、3年後には三宅画伯の

個展に併設する明何会グループ展を

開くようになった。ホームページも

自分が新設し、それ以後の約10年間の

活動も記録してきた。財力もあって、

茅ケ崎の家庭は顧みず、海外取材旅、

銀座など酒、仲間、女と徹底的に自分に

生きたので、合気道指南や書道指南の

奥方やお二人の息子さんたちに疎まれた。

三宅先輩のすねを齧って毎年京橋の貸し

ギャラリーでグループ展を開いてきた

歴史は忘れがたいものになった。

その間に広くグループに参加する人も

増えて来たが、かねてより食道過活動

に悩まされていたのが元に、平成22年

3月6日ご逝去された。享年85歳,

死因は急性白血病とのこと。

生前賜ったご厚情に感謝し、謹んで

ご冥福をお祈り申し上げます。

とは言うものの、海外取材旅、酒と

女、仲間に生きたので仲間も家庭から

疎まれてご霊前のお参りも未だ許され

た人はいない。

(水彩画明何会)のメンバーでも

あった三宅画伯の中学校以来の友人

であったサントリー社の「山崎」の

ブレンダーとして名高い佐藤乾博士

(京大農)は当時の状況を次のような

手記に書かれました。
4月27日友人の

賀状に水彩画
明何会の展示会がある

との連絡を受けていたので医者に行く

ついでに寄ってみましたが、それらしい

会がないので不思議に思い帰家後, 友人に

問い合わせた処三宅兄のことを知りました。

絵のことでお世話になりましたナア、

しかも絵の具等一式頂き、感謝。

2月までは電話連絡があったのに残念。

家に連絡しても応答なし。
この水彩画は

大分県竹田市
岡城の本丸の石垣と横の路の

絵であります。西の夕焼けしている

ところのに竹薮があり、その中に
画伯の

生家があります。
恐らく先祖は家老職で

有ったので
しょう。この家から中学に通学

していました。このような石垣の絵が
割りに

多いようです。
画を疎開した旧友も

わたしの良く知った友達の一人でした。

合掌。

京橋での遺作展に展示の佐藤乾氏の
三宅氏追悼の栞集。原画は各10号。




岡城石垣





















































































































































































































































































2020年7月26日日曜日

㊼ モンターニュおじさんのポストカード

モンターニュおじさんは長年僕に夢を運んで

くれた親友である。




モンターニュおじさんのあだ名は、彼の名前


をフランス風にして僕がつけた。


初めて僕と韓国ソウルに海外旅行したのを切っ


掛けに?、世界を駆け巡る旅行家になった。


彼の世界旅行は芸大を出て個人アトリエで腕を


磨いておられた奥方が、酷いリュウマチに罹り、


何度となく入院を迫られ、彼の言葉によれば全身


の手足の指関節はすべてチタン合金に替えられた


そうで、その奥方が動けるうちに世界を見せて


やろうと決心したそうである。


それからというもの、一年の少なくとも1/3は


お二人で海外に旅している様子だった。


僕も片麻痺になって慰みにホームページを開設した


ので、お二人が旅先から送って来る写真入りポスト


カードを公開することにした。


僕の病後の闘病ホームページ「アトリエ家庭菜園」


の中の特設ページ「モンターニュおじさんの


ポストカード」に殆ど収録してある。


ぜひご覧になっていただきたい。


彼の絶妙なポストカード旅日記は僕を癒し元気


づけてくれた恩人でもある。


彼は奥方の出入ごとに必要になった、空港での


金属探知機を通過する際に、関節のチタン合金


の医学的な訳を世界の空港で説明するのに多国


の語学が出来るようになったと喜んでいた。


全身チタン合金関節と言い、年間の二人外国旅行


と言い、尋常の財力で出来る技ではないが、大阪


の実家の事業を彼が仕切っていたせいもあると思う。


仲良し4人組が集った森もついた追分の別邸では


奥方専用のアトリエも出来、小鳥たちのえさ場に


モービル飾をセットし、森の空き地にバーべキュ


ウ炉を作ったり、老後を謳歌している様子を見せ


て頂いて間もなく、ウツ?の病に臥せって久しい。


「アトリエ家庭菜園」の中の(モンターニュおじ

さんのポストカード)をぜひご覧ください。

世界めぐりが出来ますよ。


http://pcwnh186.sakura.ne.jp







2020年7月25日土曜日

㊻ ビワの葉の効用

子どもの頃から、ビワの木はどこの庭にも植わって

いたのを思い出す。

いつもGゴルフをプレイする児童公園の土手にも2本

あったし、何年か前山梨県の北杜市のアトリエ民宿

の庭にも大きいビワの木が沢山植わっていた。

子どもの頃、大家さんでもあった渡場の母の実家の

庭にも生えていた。

どうしてだろうか?昔からビワの葉は薬効が優れて

いると伝えられていることが知られる。

ビワの薬効研究家の説をそのまま頂くと、古い仏典

や漢方の「本草綱目」にも書かれているそうだし、

日本でも奈良時代の聖武天皇の妃、光明皇后がビワ

の葉で人々をいやしたことが教科書にもあったよう

な気がする。

ビワの葉を熱湯で温めたコンニャクで裏から裏打ち

してタオルで包んで腰痛個所に充てるとか、ビワの

葉1㎏を洗って1.8リットルの蜂蜜ホワイトリカー

に漬けて半年置いたのを水で割って飲むとか、お湯

2リットルにビワの葉12,3枚の刻みを煎じて飲む

とか、効用があるそうである。

自分は先程の母の実家の庭のビワの葉を思い出して、

その頃元気だった叔母に頼んで、ビワの葉を盛んに

送ってもらいお湯で煎じた褐色の茶をたくさん飲んだ。

僕の記憶では糖尿の指針、HbA1c値が今も

<7mmg/lなのは薬の所為でもあるが、ビワの

葉薬効があったのだと思っている。

その後、叔母は亡くなったし、母屋も取り壊されて

しまったそうだし、ビワの木がどうなったか聞かず

にいる。

わが家の庭にもと思って苗を探しているのだが、

ありそうでないのが、紺屋のフンドシ、「誰か苗

を分けて呉れんかの―」

㊸ 思い出 浜鳥

横浜西口相鉄口の近く、商店街に向かう橋の手前

の商店の並びに焼き鳥「浜鳥」があった。

僕がグルメのYNさんに連れられて行った頃、敗戦

後の開店から35周年記念パーティーを高島屋の

サロンで開くほどの老舗だった。

入り口に女将さんが焼く鶏焼きコンロがありコンロ

から板さんの調理場を囲むように客席台が続く直ぐ

に満席になる人気店だった。


客は知り合いも多く、初めての客も直になじみに


なる風だった。


KNさんは菊名の独身寮時代からの長い付き合いで、


女将さんからも信頼を受けていた。


僕がその店に行くようになって直ぐに35周年記念


パーティあった時、女将がYNさんにKYさんも一緒


にいらっしゃい、と声を掛けたのに「お前さんは


良いよなあ、直ぐに35周年記念に招かれるんだ


からな」とヒガミッポク言ったが、それは違う、


YNさんがそのくらい信用されいたかってことだ。


板さんの悩みも聴いてやったり、女将さんの苦労


も担いだりしていたのだろう。


頭脳明晰愉快上品な女将さんには成長した娘さん


が二人あり、上の嬢さんは横浜国大出の先生か?


で、下のお嬢さんは女優の卵だと言うことだった。


そうこうしている内に西口界隈も焼き鳥屋を続

けるのも難しくなったのだろう。

板さんも仕事が続けられなくなったのを機に?で

あろう、店を畳むことになった。

毎日会社の帰りに「西口」の浜鳥に寄って帰るのが

常連あった僕も行き場がなくなって、西口の東側

の狸横丁のトンコツ屋に行くようになった。


ここも、もとはと言えばYNさんのテリトリーだ。


NHKのTV番組で「family history」と言うのが


あるが、女優の余貴美子さんが出場した。


何と、浜町の女将さんが余貴美子さんのお母さん


だった。


そのことは前からYNさんから知らされていたから、


ビックリはしなかったが、ご一族の苦難の歴史と


現在の安寧とが思い起こされて、拍手した。


女優余貴美子さんの上品で控えめの人柄と、他人


に好かれる気の良さがお母さん譲りであることは


間違いないと思う。


ファンの一人として誇らしい。


その後女将さんとその後なん回か、YNさんを含


めて仲良し4人組で食事会を持ったが、YNさんが


病に伏せるようになって、消息が途絶えている。


YNさん、女将さん、若手のみんな、また横浜に

集まろうぜ。





2020年7月24日金曜日

㊹ 思い出ローレライ

覚えておられる方もあると思うが、大好きな札幌

に過って「ローレライ」というミュージックビアー

レストランがあった。

あの大きなウイスキーの王様看板のあるススキ野の

交差点の丁度対角線にあたるビル地下にあった。

千歳の真鍋さんが連れて行ってくれた。

真鍋さんは伝統があるサッポロビール会の千歳支部

の分団長を長く勤めてこられたらしく、サッポロの

大きいホテルを借り切って行われるオール北海道

サッポロビール会のレセプションでもドイツ語の

乾杯の歌を高らかに歌われていたくらいである。

ご自分は東京外大なのに気分は北大の様だった。




ローレライには「ローレライリゾスデン」という

専属バンドを持っていて、北海道交響楽団や

北海道女声合唱団のメンバーが加わっていると

いうことだった。

ヨーロッパ民謡を中心にタンゴ、クラシック、

ジプシーバイオリン、シャンソン、ラテン音楽

と多彩な楽団だった。

バイオリン、クラリネット、チェロ、ピアノ、

女性ボーカル数名の特徴ある明るい雰囲気の

楽団で、僕も東京から来たお客さんをよく連れて

行った。




料理も特徴がありドイツ、フランス、イタリア、

北海道コースなどコース料理に特徴があった。

僕が札幌を離れる頃、20数年の歴史ある店を

閉じることになって、また一つ北海道や札幌

らしい、札幌農学校や北海道大学の伝統ある

特徴が消えてしまうような寂しさを覚えた。

しかし、羊ヶ丘のクラーク博士像や島松の

クラーク博士決別の記念碑などと、札幌植物園

に続く北大構内は開拓精神にあふれた時代の

面影を残していると感じる。

時計台の下で~🎵 カラオケの好きな札幌♬

の歌も歌えなくなってしまった。

2020年7月23日木曜日

㊸ 遊びをせんとて

遊びをせんとや生まれけむ
                                
 とうの昔に定年になって、通勤が必要

ないのに朝早く目が覚めて「さあ今日は

何をする?」って考える日も多い。
 
ワイフには申し訳ないが「何を?」と言っ

ても家事の手伝いではなく「何かオモロ

イこと、遊び」なんである。


現役の頃、シゴトオタクで全く家のことを

省みなかったことはすっかり忘れ、賞味

期限を過ぎたポンコツ・ジイに残ってい

る楽しみは、「遊び」だけなんである。
 自分の言い訳に都合よく引き合いに

出すのが、平安時代に書かれた「梁塵

秘抄」と言う書物にもあるように、人間

「遊びをせんとや生まれけむ」である。

それでも、遊びが思い浮かぶ日は、

どちらかと言うと体調もまあまあ、気分

はポジティブで、天に感謝したい望ま

しい日ではあるのだが。

 脳梗塞で倒れてからもう16年になる。
 
机に向かってパソコンでインターネット・

サーフィン(一頃使った語)を楽しんだり、

自分のホームページやブログを編集

したり、本を読んだり、絵を描いたりし

ている室内遊びは出来るが、片麻痺

になる前に北海道で春秋やったゴル

フやテニス、冬は毎週やったスキー

など、体育系の遊びは出来なくなった。
 
スポーツ以外でも、北海道で毎日温泉

に入る癖が付いたので、家で遊んでい

るだけでは、ストレスが溜まる。


数年前まで趣味の水彩画を描く会の

面倒をみていて「人との会話」を定期

的に楽しんでいたが、指導の画伯の

急逝で止めたし、つい先日の2次梗塞

のため電動カート無しでは歩くことも

ママならぬようになると、杖を付いて

家の周りを散歩することも出来ない。

スキーなんて夢のまた夢である。

つい先頃まで、横浜駅(SOGO横)

直行の江ノ電バスに敬老パスで

乗って、美術館や画廊を覗き段差

のないフロアーを杖突き歩いて、

歩数を稼いだり、惣菜売り場でワイフ

の買い物に付いて歩くこともあった

が、利用者減でバス便も無くなった。
 
 他に、近場の温泉場にも無料の

バスで行くことも出来し、旅行社の

格安の交通費と宿だけのツアーに

参加して温泉を楽しむこともあったが、

このコロナ禍ですっかり事情が変わっ

てしまった。

7年前から、町内シニアー会の「グラ

ウンド・ゴルフクラブ」に入いり、近く

の一丁目公園で、子供たちが使用

しない月曜と金曜の午前、1週間に

2日は仲間が集まりのんびりプレイ

の後仲間と四方山話などを出来、

杖を置いて球を打つ木のパターを

持って歩くだけでも、リハビリ運動

にはなったがみんな高齢化で参加

者が減って来た。
  
ところで、話は飛ぶようだが、自分は

このように不具でも恵まれた運動遊び

場が見つかる境遇にあるから幸せだ

が、田舎にいる弟や友人たちはどう

しているだろうか?という思いが起こっ

てくる。

車があって、自分で運転できる人た

ちは良いが、出来ない人や自分のよう

に車の運転を止めた人たちが故郷

に住んでいると夢想して、遊びを計画

してみるのも、郷里の思い出遊びの

1つで、故郷の遊びの環境を開発する

ヒントになりはしないかと勝手に考えて

みたりする。
現役時代に赴任した北海道の恵庭市

に定住する積もりがあった頃、恵庭の

活性化に欲しい環境を考えて、地域

のコミュニティバスを提案したことが

あった。


 














今では、旅行の先先の加賀温泉の

キャンバスや、能登の和倉温泉の

ふるさとタクシー、病院通院に便利な

コミュニティバスなどのシステム例が

各所にあって、企画力の差が成功に

つながっているように見える。

さて昔、故郷の山口県の今は長門市

になった田舎のわが家の前の国道に

サンデンのバス停があった。

もう半世紀以上前だから、今もあるか

どうか怪しい。
早速インターネットで調べてみると、

数年前には、嬉しいことにブルー

ラインバスというのが走っていて、

田舎の小さいバス停でも詳しい時間

表がインターネットですぐ知れた。

経路の両端、長門病院前と大浦・油谷

島の長い路線に、朝7時前後から、

夕方17時台まで、工夫をして平日1日

10便程度のバスが走っていた。

主にお年寄りの通院用と知れる。

またバス停の名を読むと、昔の土地勘

から路線がわかる。

他にも加えて欲しい路線も考えられる

が、最低限このバスがあれば、不便

だった油谷湾の奥深く、川尻漁港に

住んでいるお年寄りも、街にある長門

病院にも一日がかりではあるが、通院

できるだろうし、我が家の前からバスで

新しく出来た油谷湾沿いの温泉にも行

けるだろうと想像できる。
長門市駅に出て、乗り継げば、祖母と

よく行った昔からの温泉地、長門湯本

温泉にも行けそうである。

昔に負けないほど田舎が便利になっ

ているのが知れて、嬉しくなった。

都会に住んでいる僕らだけが、楽を

しているのは申し訳ないと思うから。
 
こんな情報がパソコンで直ぐに手に

入り楽しめるのも遊びといえば遊び

で、こんな遊びが可能になった現代

に生きているのも、ありがたい。

思えば、われわれの世代は、祖父母、

父母が明治生まれ、叔父たちに大正

生まれがいて、自分ら親子が昭和で、

孫たちが平成生まれと、敗戦の時から

の日本の生活文化や科学進歩の急激

な移り変わりの先端をずっと経験し、見

てきたという思いがある。
自分は都会に死ぬとしても、遊び心を

忘れないで、故郷の今を思いやる気

持ちは持ち続けたいものだ。
                              2013/2/14第1稿、2020/7/23補稿

追記: 《16年前に「闘病記」と称し病後

に始めた自分のホームページに、

「つれづれなるままに」いろいろ遊びを

記録してきたが、読んでもらえれば皆の

何かの慰めになるかもしれない。

http://sakura.ne.jp/pcwnh186 

またはGOOGLEYAHOOの検索欄に

「アトリエ家庭菜園」と名前を入力して

「検索」していただければ、直ぐに見つ

かるはずである》