2020年8月15日土曜日

(51)思い出;敗戦の日

サンルームは開け放ってあった。


サンルームから防空壕に入る入り口も


跳ね上げ戸も開いていた。


朝日は燦燦と輝き、何故か風は暑くは


感じなかった。


お昼にラジオで天皇陛下の勅語が放送


になるということで、日本がこの戦争


に負けるとは思ってもいなかった。


サンルームからは町内の家の屋根越し


に、お寺があった生駒山が見えた。


オンドル部屋の西の窓からは、目の前


に父が招集されていた南山の陸軍高射


砲陣地が見えた。


外に出て、石炭置き場とその横の物置


小屋の前の塀から南山と、北の方には


東大門の城壁と新堂町の電停方向の街


並みが見えた。


お昼になって、ラジオ放送を聴きに


大人たちが集まったが、再生式ラジオ


のフェージング交じりの音は子供の耳


には聞き取れなかったが、祖母、父母、


オモニ(朝鮮人の若いオバサンのお手


伝いさん)などの大人には聞こえた


らしい。


戦争に負けた、それだけはハッキリ分


かった。


直後、町の方から「マンセー(日本語


の万歳)」の声が上がった。


驚くほど大勢の声だった。


父は外に出ると危ない ! と言って、


玄関入り口の戸を閉めて、窓も閉め


始めた。


西側の窓から、いつもの「赤トンボ」


とアダナが付いた複葉の陸軍練習機


が飛んできた。


何時ものように、威勢よく宙返りなど


を繰り返していたが、何か様子が違う


なと思っていた矢先、急に爆音を上げ


て真っ逆さまに、町の中へ消えて行っ


た。黒煙が上がった。


ハワイ・マレー沖海戦の映画を見に行


った劇場の方だった。


「自爆だ」と父が言った。


「マンセー」の声もひと時収まったか


に見えたが直ぐに復活した。


驚くほどの速さで、家の周りにも


カーキ色の見たことの無い軍服と、


色紙で折ったような小さい四角帽を


チョコンと頭に乗せた若者たちが集


まって来た。


地下で用意してきた、今で言うボーイ


スカウトの制服だった。


そのうち「路面電車は朝鮮人に占拠さ


れて、日本人は乗れない」とか「日本


人が金品を強奪された」などのデマが


聞こえてきて、日本人はビクビクし


いた。


オモニも旦那を連れて来て「日本に帰


る時は家具を下さい」と言う。


売れと言うのではない、どうせタダだ


と見くびっているのだ。


父の会社はアジアの日本の植民地を


経営する、東洋拓殖株式会社(公社)


(略称;東拓)だから敗戦で襲われる


恐れはあっても、自動消滅みたい


もので資産は現地に残るだけで危害は


ないから救われたのだろう。


1991年に友人YNさんと、この家に


再会した時もサンルームも、西側の窓


も、石炭置き場と倉庫小屋も残っていた。


訪ねて行ったお礼に、ホテルの花屋


さんから、お祖母さんに贈っておいた


花束のお礼に、翌日流暢な英語だけ


お孫さん夫妻がロッテホテルに来た時


に、持参してくれた、我々の引き揚げ


後に残っていた分厚い青磁の小皿が、


わが家の宝物になって、今も故郷の


仏壇脇に鎮座している筈である。