2020年7月12日日曜日

⑯これも焚書坑儒

渡場にあった石原小学校は、我が国に学制が
出来た明治の初め設立された古い伝統があった。
蔵小田や渡場や掛渕が学区で、今の首相の父君
晋太郎さんや母の兄弟たちも卒業した。
敗戦難民の一人の僕も3年生秋から編入した。
その頃は隣の小学校、人丸神社がある啓テキ
小学校の学区にお使いに行こうものなら石礫が
飛んでくるほど他校イジメが日常だった。
だから、お使いでも何でも、他所の学区に入る
時には強そうな上級生に護衛を頼んだ。
母はその頃、菱海中学校に勤めていた。
徒歩だと、渡場から掛渕の太鼓橋を渡って、
昔の役所跡があった札場に出て右折し、数百米先
の左手の丘にあった。
ある秋、多分5年生の秋の日曜日、母の勤める
中学校の日直作業について行った。
学校では先生方総出で図書館の革表紙の本など
全部を棚から降ろして、選り分けて不要本を
山と積んで火をかけて焼いた。
思えば中国故事の焚書坑儒の再現だ。
敗戦国日本が連合国のGHQ(ゼネラル・ヘッド・
クオーター)に忖度して、都合の悪い旧軍国主義
的な本を焼いていたのだ。
母はその時、焼き本の山から革表紙の厚い本を取り
出し、草叢に置いた。
後で見たら堀内〇〇著「教育原論」だった。
母や僕らの時代はペスタロッチと言う教育学者が
「子供たちの遊ぶ場所は目を凝らしてガラス片を
拾ってやる/詰まり環境を整備してやる」的な
教育を良しとする教育論が流行っていた。
母はその本を焼くに忍びなかったのだろう。
後年、母の師範学校の級友OTさんが、その本の
著者堀内〇〇さんに嫁いで、宮崎県の小林市に
住まわれた。
須佐のOTさんは、時々親戚の吉村歯科に治療に
来られて家にも寄って母たちと歓談していた
から懇意だった。
これも人生の奇跡だ。
会社晩年に小林市の極低周波通信アンテナの
出張に行ったので、消息を探ってみたが果たせ
なくて、巨大男根岩を見学しただけだった。