2020年7月10日金曜日

⑬新堂町の家探し

僕が旧朝鮮京城府生まれだと知っている会社の

友人YM君は、定年も近いのを機に韓国ソウルに

行って見ようではないかと提案してくれた。

丁度ANAが「ソウル美味しい物ツアー」を募集

していた。

予約して当日成田空港に行って見るとツアーに

参加したのは我々二人だけだった。

ソウルの金浦空港には若い女性ガイドのキムさん

とマイカーを提供したオジサンが迎えに来ていた。

ツアー客は我々二人だから、ツアーの行先は旅行

事務所と電話連絡で変えても良いということに

なった。

ロッテホテルを拠点に、ソウル市内の観光地や

レストランなどを一通り巡って、敗戦まで僕ら

一家が住んでいた家を車で探すことになった。

朝鮮戦争でもう無くなっているかも知れない。

3年生まで通っていた桜ケ丘国民学校はすでに

前日探し当てていたから、通学路の地形など

思い出しながら、派出所などに聞きまくって

探したが全然判からない。

もう諦めて帰ろうとしたとき、住宅街の坂下を

通りかかった。

アッ、久子ちゃんちの前の坂だっ。

僕は車から飛び出して、もう駆けだしていた。

坂のてっぺんは島田の洋ちゃんち前の十字路、

右に下ると右が僕んちだ。

ソウルツアーの頃は敗戦後50年位経っていた

だろうか?

門構えも、高さは高くなってはいたがブロック

塀もそのまま、平屋もそのまま、キムさんが

呼び鈴を押して、出てきた上品な老婆に招じ

られて中に入った。

格子のシャッターは付いたがサンルームも

ベランダも残っていた。

キムさんと老婆は韓国語で話している。

「あの旧生駒山にあったお寺は残っています

か?」しかし、山は現代(ユンダイ)の

アパートで埋め尽くされていた。

帰りに近くのホテルに寄って、お礼の花束を

贈って置いた。

夜、我々のホテルに電話が掛かってきた。

知った人もいないのに?

電話は日本語だった。

「今日は立派な花束をお寄せいただき有難う

ございます。この家には45年住んでいます。

あなたはその前住んでおられたそうですね。

私、日本語は長らく話していません。孫たち

も私の日本語初めてだて言いますの。・・・

それではごきげんよう」

「花束を寄す」だの、「ごきげんよう」だの、

キット日本の学校で教育を受けたに違いない。