2020年7月18日土曜日

㉙ 回想・下関

facebookで現在の下関の様子を多々見せても
らっている。
彦島のページで過去の写真データも見せてもらって
いる。
過っての街の写真も良く見せてもらう。
僕にも下関の思い出が沢山ある。
中でも強烈な思い出は、夜の関釜線波止場の情景だ。
昭和17年(1942年)僕が国民学校入学の前年、
父に連れられて京城から母の日置・渡場の実家に
来た時のことだ。
来た時の下関港は丸で覚えが無いのは、唯昼間の
通過だけだったのだろう。
帰り、人丸駅から列車で下関の駅に着いたのは
夜遅く、駅から桟橋までは点々と裸電球が並んだ
屋根付き渡り歩道だった。
今で言えば駅から唐戸に向かう方向の専門大店
(今はないかも知れん)の裏の海岸辺りだ。
夜更けの乗船デッキは2階だったのだろうが、
ずいぶん高かった記憶である。
出航のドラが鳴って、興安丸が桟橋を離れる様子
が脳に焼き付いている。
下関駅の日本食堂は今も残っているだろうか?
大正のウイルス禍・スペイン風邪で日置で農家を
営んでいた祖母が夫とその弟を同時に失い、12歳
の長男(僕たちの父)を京城の新婚の叔父叔母に
託し、下関の日本食堂に働きに出たのだ。
祖母がやっと京城の僕ら一家と一緒に住むように
なったのは、この年1942年だったろう。
帰りの興安丸には渡場の祖父ちゃんに貰ったランド
セルを担いでいた。