2007年7月24日火曜日

電気通信学会の思い出

 入社の頃、最初に与えられた仕事は、

オーストラリア(多分気象庁)が募集

中の気象ラジオ・ゾンデ追跡用の追尾

レーダー(トラッキング・レーダー)

の提案書書きであった。

しかし、わが国のレーダーも緒に就い

たばかりで、その頃の国産では唯一M

電機(株)の渡部さんという人の書い

た電気通信学会(そのころはまだ電気

学会と分離していなかったかもしれな

い)の試験機と論文のみが知られてい

た。 

実績のないわれわれは、せめてデータ

だけでもとばかり、久里浜の陸上自衛

隊通信学校のMPQ-10という米軍が

2次大戦で使用した追尾レーダーを使

用させてもらってデータを取った。

このレーダーはSバンドの組み立て式

捜索レーダーFPS-1(だったと思う)

と組にして高射機関砲システムの基幹

をなす有名レーダーだった。

久里浜の台風の日にコーナー・レフレ

クタを飛ばしての実験のことは別に書

いたかもしれないが、ここでは割愛する。

次に富士山気象レーダーの設計チームに

加わったが、わが社は受注できなかった

ので再び仕事が変わった。

すでに仕事が始まっていた羽田空港AS

R(空港監視レーダー)の手伝いをしな

がら日を過ごしていた。

このころ印象深かったのはASRのアン

テナ・ペデスタル(基台)のメインテナ

ンスのため羽田の旧タワーに登り空港

エリアを一望し「この空港の発着航空

機を見守っているのだなあ」と感慨を

深くしたことであった。  

そうこうしているうちに、箱根観音山

のARSRレーダー(空路監視レーダ

ー)の受注合戦が始まった。

 このレーダーはLバンド(波長は約

24,5cm)で、ここでも国産技術

はまだなかった。

自分は担当の一員になって特にマイク

ロ波部品の開発をするよう命じられた。

大電力マイクロ波の送信-受信切り替

え器(サーキュレーター)と終端器

(ターミネータ)であった。

特にサーキュレーターはLバンドの

大きい銅の導波管の立体回路でフェ

ライト移送器を含む、如何にもマイ

クロ波回路らしい知恵の結集のよう

なものだった。

フェライトは自前の研究所で栗原博

士や徳永さんたちに徹夜で焼いても

らったり、研磨も特別に工程に入れ

てもらったり、実験も徹夜などして

作り上げた。    

仙台の東北大学工学部で電気学会が

開かれた。

自分たちはサーキュレータの論文を

提げて参加した。

あのころまでは学会も盛況で各方面

の技術動向も風通しがよかったよう

な気がした。

 各社の技術者にも知り合えたし、

なにより先端にいるという励みに

なった。

しかし、仙台を最後に学会には無

縁になった。

学会の範囲が広範囲になったこと、

企業秘密というか先端技術を学会で

オープンにする意味がなくなったこ

と、などが原因であろう。  

これに比べると米国の技術雑誌例え

ばマイクロウエーブ・ジャーナル誌、

マイクロウエーブ誌など技術誌はた

だ同然で先端技術を公開し、これに

よって米国の業界に部品発注が来る

と見込んでの自信満々の政策かもし

れないが、この面で世界に及ぼした

影響力は絶大なものがあったと思う。

日本もこのお陰をこうむっていると

思うと、いつの日にかある面ででも

日本にもこういう世界をリードする

ことが出来るのだろうかと、思わざ

るを得ない。

あるいは環境改善技術、原子力発

・・・・・・・。  

そのころから業界は深い秘密と各社

各様の方針による閉鎖社会になって

しまったようだ。

技術者たちは発表の場を奪われ、若

者たちの理科嫌いを造出する一原因

になったようだ。

要するに理科系などは面白くないの

だ。

もっと若いうちに仕事を変えて置け

ばよかったと思うこともある。