2020年4月23日木曜日

夢想カート王国㉒1953-55年ころ正明市駅前辺り

口上!  エー、お立合い!

話は少し長くなるかもしれないが
昔々正明市駅があったとさ、みたいな
65年近く前の大津高まわりの情景を
昔話語りのオジイサンになって問わず
語りに書いておくのも一興かと。

 山口県立大津高校に入学したのは

1952年(昭和27年)4月のこと。
1955年3月に卒業するまで駅前から
田屋の高校までの通学路や駅周りの
風景は変化が無かったように思う。
 毎朝通学のD51牽引の列車から
無舗装の駅前広場に降り立つと、
すぐ右脇の、雨の日は泥んこになる
小道に入り進み右手の農協前を過ぎ
ると農水路に沿った高校正門までの
道が続いた。
雨の日は、一本歯の桐下駄を履いて、
この泥んこ道を渡った。
昔の旧制高のバンカラの格好つけだ
 校門正面に玄関があり、右手奥に
体育館があり、その手前を入ると
下駄箱に続く教室が東西に並ぶ校舎で、
南側の松並木の向こうに運動場が見えた。
 その頃は美術の香月先生も在校で、
ずっと後に、先生が描かれた下駄箱や、
校舎随所のスケッチ・ハガキで雰囲気
が知れた。
そのころ香月先生は、シベリアからの
復員後の三隅での雌伏時代だったようで、
校舎列の東端にあった別棟の美術教室と
図書室前の花壇辺りを、後ろ腕で考え事
がありそうに、うつ向いて、歩いて
おられるのをよく見かけた。
有名なシベリア・シリーズ制作の前
だっただろう。
 数学の鬼村先生、化学の片山先生、
英語の岡田(あだ名クエッション)先生、
物理の三浦先生、社会の堀田先生、
国語の中原(あだ名チンハク先生、
体育の南野先生、漢文の(失念)先生
たちに教わった。
 僕らは高6期で、2級上の高4期が
入学時から新制高校生で、その前期
まで旧制中学校入学組だった。
 旧制中学バスケット部は全国レベル
強豪だったと聞く。
掛渕の東隣の鵜の石地区の背高い江原
先輩が選手だったけれどチラッと見た
ことがあった。
石原小学校の他の組の担任先生だった
渡場の江原先生の弟さんだったか。
美人で背の高かった江原先生は、
やがて三ノ瀬(ソウノセ)の窯元
板倉家に嫁入りされ、後にクラスで
見学に招かれて萩焼工程を見せて
いただいた覚えがある。
 僕らの大学受験は旺文社の蛍雪時代
という受験誌と韓国語の混信が多い
東京文化放送のラジオ受験講座だけで、
塾なんか無い田舎町だから知らぬが仏
呑気で、毎晩ラジオ講座を聞きながら
転寝ばかりの勉強で、蛍雪時代の添削
入選記事の入賞者生徒名の志望大学欄
にハーバード大だのオクスフォード大
だの書いてあるのが「ウソダロ?」
と思っていたくらいド田舎だったのだ。
 2級上の4期生の中野先輩(早大)、
峯田先輩(九大)、藤村(白木)先輩
(中大)、上山先輩(龍谷大)、上利
先輩(早大)等が、初代・純新制高の
リーダーたちで、進学適性検査という
論理記述式の試験の始まり時代だった
から、我々の目標になった。
進適と呼ばれたその試験は、文部省の
採点に苦労したらしく、僕らの時は
受験勉強はしたが直前になって〇✖式
試験に変わった。
それ以来、センター試験は、まだ迷い
続け漂流しているように見える。

 僕らの時代は4合3落とか言って、
毎晩3時間勉強では入試に落ち、
4時間勉強だ、などと言ったが、僕は
余裕が有る訳ではなかったが、夜
ラジオ講座が始まると眠たくなって、
受験勉強よりも、旺文社系の海外図書
輸入社に郵便で申し込んで、ロクに読
めもしないバートランド・ラッセルの
洋本  Conquest of happiness「幸福論」
を取り寄せて読んだり、長谷川書店や
白川書房でカフカ、トーマス・マン、
ロマン・ロラン、カミユ、ボーボワール、
ヘルマン・ヘッセ、等文庫本を読み
漁っていることが多かった。
 中学校の時に、正明市に勤めていた
親父が手に入れた大正ロマン古本や、
世に出始めの今東光のオトナ小説など
が載った、いかがわしい雑誌などを
わが家の2階で読んでいた反動だろう。 
 今でも、ボロボロになったが使って
いる岩波の島盛男編の英語辞典は、
輪転台があった国鉄機関庫裏近くの
白川書房で買ったものだ。
書房は、駅前から西に向かう長屋の国鉄
官舎並びと、ドブ川の間に沿った小道の、
コンクリ橋のたもとにあった。
 機関庫から何時も機関車の黒煙と汽笛が
鳴り、その東側、つまり駅ホームから南を
見渡す田んぼの遥か向こうに深川小学校
などの家並みが見えた。
今の長門病院辺りは何だったか記憶にない。
 長谷川書店の前の大通りの向こうには
旧長門病院があって、その入り口角に
中学からの級友高橋さんの父君の薬局が
出来たのを覚えている。
中学の時には日置上城の我が家の隣地区
亀山地区に住んでおられて、軟式テニス
のラケット・ガットを張って頂いた
ことがあった。
卒業式ころはみんな都会の受験に出払って、
兄弟が多いので余分の受験料が勿体なくて
2期校受験をしなかった僕が残っていたので
中原先生の指導で答辞を読んだ覚えがある。
 「思へば遠くに来たもんだ」と云う歌の
如くに茫洋とした高校時代だ。
 黒い石炭色の印象のうちにも、授業中
南側の窓から運動場を眺める振りをして、
窓際の女子生の姿をちらり見ていたことが
青春のほろ苦い思い出でもある。
庭のアマドコロ