2013年4月14日日曜日

378Q会

1962年(昭和37年)の無線機技術部レーダー課には、学卒が6人も配備された。
当時としては珍しいことだった。
昭和34年に1人入社しただけだったのだから。
ある大きい国の防空プロジェクト受注に参加予定だったのだろう。
昭和38年には3人だったし、39年には1人であったことを見ても、新入社のものにも受注に敗れたとわかる。その後はまた暫らく配属はなかった。

そのころは、日本にもレーダーを開発する腕のある会社は少なかった。皆、駆け出しレベルだったと思う。
米軍が持ち込んだレーダーを見本にMITのレーダー教科書”Rader Handbook”を参考にして技術習得に励んだ。 

同じ課に新入生が6人も居て、仕事が少ないとなると、上長は困っただろう。
牧野課長を筆頭に主任が1人、総勢30人くらいだったろう。
当然、気象レーダー、空港管制レーダー、くらいに大雑把に分かれて配属されたが、まだ手がけたレーダーも数少なかった。米軍が持ち込んだレーダーサイトのFPS-20捜索レーダーや測高レーダーの維持管理は設計製造元のGE社が提携した下請け会社が引き受けていた。
夥しいマニュアル類はconfidencial(秘)が多く、特別の扱いだったのだ。

ともかく、6人居れば集まっては酒を飲んだ。当時葉山の森戸神社横に「はやま荘」という3階建ての?鉄筋コンクリートビルの保養所があって、5時に会社仕事を終えてから電車に飛び乗り横須賀線逗子駅に行き、バスでアブ鐙摺海岸や葉山マリーナを通って森戸神社前バス停に7時ごろ着いた。それから宴会をして、翌朝は朝6時ころからバスで逗子駅に行き逗子始発の横須賀線で会社に行ったものだ。

そんな訳ありで、37,38,39年仲間は固まって動いたせいか、会社定年後も毎年同窓会をやる。
そのころの優秀な女子事務員も加わって、今年も10人の同窓会を横浜駅ビルの店でやった。