2020年6月24日水曜日

真鍋達夫さんのこと(1)

    真鍋達夫さんのこと(1)
  奇跡の出会いのプロローグ
千葉の四つ街道という町はずれに、陸上自衛隊高射
学校がある。
戦後アメリカからホークという対空ミサイル供与を
受け、これを運用する生徒の教育を担う。
初期には、多くの自衛隊員が技術習得に渡米して
学んだ。
その頃の為替は、1ドルが360円というほど日本が
貧しかったから、学生たちのアメリカでの生活も苦
かった。
その時カルフォルニアで医師だったDr.古賀が影に
日向に学生たちを自費で助けたという。
高射学校の入り口左横にはDr.古賀の胸像がある。
お世話になった感謝を学生たちが捧げたのだ。
その頃、僕は高射学校に導入されていたL-90高射砲
システムの人力可搬型対空捜索レーダーの改良を
手掛けていて、よく出張していた。
その後、国産初の地対空短距離ミサイルシステムの
技術開発試験に北海道千歳市の空自基地に毎年の
ように通っていて、千歳基地の基地祭に招かれるよう
になっていた。
基地祭には米軍関係者や提携先のカナダ・バンクー
バーのミス・カナダ勢も大挙招かれて参加していて、
千歳市民も町を挙げてビール祭りを催し、第2空団
本部がある松島基地のBlue Impulse 飛行隊の展示
飛行もあった。
その中でバンクーバーのミス・カナダ一行をエスコート
して参加していたのが真鍋達夫さんだった。
東京外大のスペイン語科を戦前卒業され、商社の
ボリビア支店に行っておられて、戦時中の敵国日本人
が捉えられてカルフォニアの強制収容所に閉じ込められ
ていたということはよく知られている。
英語も堪能な真鍋さんも、大戦中の収容所でDr.古賀と
入魂になっていた。
運命の糸は思わぬいたずらをする。
僕は、その真鍋さんと千歳基地の航空祭ですっかり仲良
になり、真鍋さんの戦中の記録が掲載されていた
週刊誌特集を見せてもらう機会が出来たのだ。
そして僕の知っていた高射学校のDr.古賀の胸像の話を
伝えるに及んで、すっかり意気投合して以来、親子以上
に先輩の真鍋さんと深い付き合いになり、北海道新聞の
恵庭千歳版のエッセイ・グループに参加したり
札幌狸小路の、小さなフラメンコバーでフラメンコ・
ダンサーたちとスペイン語で歌ったり、
本格フラメンコを見せて貰ったりしたものである。
僕はスペイン語はだめなので、スペイン語の名曲は
丸覚えで歌った。
真鍋さんのその頃の本業は、千歳の町はずれの有名
だった本格的な西洋料理のマナベ・レストラン経営者
だった。
ご尊兄は千歳市の医者で有力一族だ。
程なく、高齢化でレストランを畳まれ、90歳を超えて
もなお、札幌でスペイン語学校で教育をしておられた。