もう直ぐ、横浜・崎陽軒本店で待ちに待った恒例のGM同窓会が行われる。
何と言っても、一緒に国産初の誘導(ガイデッド)ミサイル・システムを開発してきた仲間である。
今は、国内中の空陸主要基地に配備されている近距離防空ミサイルである。
その後継機を維持している現役も含め、皆んなそれを密かに誇りに思っている連中で、我が社関係だけで崎陽軒の大きい結婚式ホールも貸切にするほどの大所帯なのだ。
茨城県土浦、千葉県四街道、宮崎県新田、東京都新島、北海道静内、北海道千歳、などなどをはじめ、名だたる基地で、実用試験などを繰り返し、完成させたシステムである。その技術は今も新しく更新されている。
我が国では、何か肩狭い思いのこの種のシステムだが、悔しい思いも尋常一様ではないのも確かである。
2011年6月18日土曜日
2009年10月9日金曜日
あのころ
2009年1月23日金曜日
イージス艦事故の海難審判
TVやラジオは千葉・勝浦沖のイージス艦事故海難審判の判決が昨日出たことをラジオは伝えている。
制服姿で出頭したイージス艦の元艦長以下幹部の姿と、亡くなった漁船の親子の写真を見るにつけ、事故当時、それぞれの相手に対して取った行動は、それぞれの日頃の言動の見聞経験から想像できる。審判は公平に正しく行われるだろうから、自分のように直感と独断偏見による見方は参考にもならないだろうことは知っている。
漁船は漁場の好位置を獲得するために一刻も早くとフルスピードで急いでいた。急に右反転したのは直前を横切れば見張りの居る艦も少しはスピードを落すだろうし、交わせると思ったのだろう。
ところが艦の方は好成績を挙げたハワイ試験の帰りの高揚した油断もあって、入港モードでスピードも操舵も巡航していた。漁船群がレーダーで見えたが、いつものように「あいつらはしょーがねーな」と思っただけで、いつものように回避するだろうと高を括っていた。というのが本当のとこだろう。そういう意味では判決は自分にも正しいと思える。ノーブル・オブリッッジが働くのだ。
思い出すのは、海自に装備が配備され始めた当時、八戸の海自の司令部のある幹部1左(副指令か部長だったと思うが)の元へ表敬挨拶に伺った。海自OB顧問や営業部長、技術部長などの一群であった。アポが取ってあった。建物入り口両側に正装の幹部が数人整列しておられた。何方かの来客のお出迎えだろうと思い、われわれは裏口に廻ろうとした。われわれ会社員がお迎えを受けるなど考えられないのである。それでも「どうぞどうぞ」と言われて、お迎えの列の間をすり抜けて通ってご挨拶先の部屋に向かった。われわれは陸自、空自部隊表敬はしばしばであったが、海自表敬挨拶は初めてであった。やがて現れたその幹部に「お前ら帰れ!」と一喝された。キョトンとしたわれわれは意味不明だがスゴスゴ帰らざるを得なかった。
アメリカ映画などで海軍の乗艦客へのタラップ口での出迎え表敬の場面で見るように、海自でも同様の米軍伝統のしきたりがあるのだ。だから、袖口に階級章が付いているとも聞く。礼をしたり握手をする時階級が容易に判るためだそうだ。日本旧軍のしきたりは知らない。全て後から知った話しだ。あのお出迎えはわれわれのためであったのだ。迂闊と言えば迂闊。海自OB殿の失策と言えば失策。
軍人も会社員も分け隔てない表敬は立派!だが誰もが海自式を知るべきだと思う独断。知らない人への態度はあの幹部特有のものであろうが、海自の仕来りはこうなっているのですよ、と教えてくれる幹部も居るのを後で知ったが、自分には旧軍幹部の横柄な物言いや態度を髣髴とさせる。
自分は大勢の自衛隊幹部の方々のお世話になり、数々の技術試験や討論会などで一緒に学び、一緒の飯を食い、なかの数人はいまだに賀状などのお付き合いをしていただいている方々を知っているが、「運命を船と共に」という海自式の仕来りにはどうもなじめないでいる。かって読んだ Wind of war の自由と平和のために国際的に働いた海軍への憧れとは裏腹に、スマートさの裏の「唯艦独尊」的な頑なさがあの忌まわしい戦争を招いたのではないかと戦争被害者の自分は考えるのだ。
制服姿で出頭したイージス艦の元艦長以下幹部の姿と、亡くなった漁船の親子の写真を見るにつけ、事故当時、それぞれの相手に対して取った行動は、それぞれの日頃の言動の見聞経験から想像できる。審判は公平に正しく行われるだろうから、自分のように直感と独断偏見による見方は参考にもならないだろうことは知っている。
漁船は漁場の好位置を獲得するために一刻も早くとフルスピードで急いでいた。急に右反転したのは直前を横切れば見張りの居る艦も少しはスピードを落すだろうし、交わせると思ったのだろう。
ところが艦の方は好成績を挙げたハワイ試験の帰りの高揚した油断もあって、入港モードでスピードも操舵も巡航していた。漁船群がレーダーで見えたが、いつものように「あいつらはしょーがねーな」と思っただけで、いつものように回避するだろうと高を括っていた。というのが本当のとこだろう。そういう意味では判決は自分にも正しいと思える。ノーブル・オブリッッジが働くのだ。
思い出すのは、海自に装備が配備され始めた当時、八戸の海自の司令部のある幹部1左(副指令か部長だったと思うが)の元へ表敬挨拶に伺った。海自OB顧問や営業部長、技術部長などの一群であった。アポが取ってあった。建物入り口両側に正装の幹部が数人整列しておられた。何方かの来客のお出迎えだろうと思い、われわれは裏口に廻ろうとした。われわれ会社員がお迎えを受けるなど考えられないのである。それでも「どうぞどうぞ」と言われて、お迎えの列の間をすり抜けて通ってご挨拶先の部屋に向かった。われわれは陸自、空自部隊表敬はしばしばであったが、海自表敬挨拶は初めてであった。やがて現れたその幹部に「お前ら帰れ!」と一喝された。キョトンとしたわれわれは意味不明だがスゴスゴ帰らざるを得なかった。
アメリカ映画などで海軍の乗艦客へのタラップ口での出迎え表敬の場面で見るように、海自でも同様の米軍伝統のしきたりがあるのだ。だから、袖口に階級章が付いているとも聞く。礼をしたり握手をする時階級が容易に判るためだそうだ。日本旧軍のしきたりは知らない。全て後から知った話しだ。あのお出迎えはわれわれのためであったのだ。迂闊と言えば迂闊。海自OB殿の失策と言えば失策。
軍人も会社員も分け隔てない表敬は立派!だが誰もが海自式を知るべきだと思う独断。知らない人への態度はあの幹部特有のものであろうが、海自の仕来りはこうなっているのですよ、と教えてくれる幹部も居るのを後で知ったが、自分には旧軍幹部の横柄な物言いや態度を髣髴とさせる。
自分は大勢の自衛隊幹部の方々のお世話になり、数々の技術試験や討論会などで一緒に学び、一緒の飯を食い、なかの数人はいまだに賀状などのお付き合いをしていただいている方々を知っているが、「運命を船と共に」という海自式の仕来りにはどうもなじめないでいる。かって読んだ Wind of war の自由と平和のために国際的に働いた海軍への憧れとは裏腹に、スマートさの裏の「唯艦独尊」的な頑なさがあの忌まわしい戦争を招いたのではないかと戦争被害者の自分は考えるのだ。
2008年12月28日日曜日
平成元年のころ
居酒屋えびすやのカウンターで焼き鳥を肴に飲んでいた。頭上の小テレビが昭和天皇の病状を伝えている。夜な夜な飲み歩いて・・・・・・、小遣いには不自由しなかったが、仕事も家庭も問題ばかりで、心は暗く救いもなかった。えびすやのママさんは浅草生まれ、女学生当時の空襲で命からがら生き延びた話をよく聞いた。店を手伝う気心の優しい高校生の娘さんは日産に就職が決まったと笑顔一杯だった。
テレビは天皇の容態が重いことを伝えていた。繰り返す輸血でほとんど望みがないと思えた。仕事の上では、すでに装備の配備が進んでいて、JDA各部隊の幹部との会合が多かった。
他社がプライムのSAM-Xの配備も始まっていた。われわれの経験を開示し、交換のようにしてM工場を見学した。
どういうわけか、平成元年の頃の印象はそんなものだ。平成20年(2008年)の暮れになって、はるかな昔を思い出すてみるのも一興か?
テレビは天皇の容態が重いことを伝えていた。繰り返す輸血でほとんど望みがないと思えた。仕事の上では、すでに装備の配備が進んでいて、JDA各部隊の幹部との会合が多かった。
他社がプライムのSAM-Xの配備も始まっていた。われわれの経験を開示し、交換のようにしてM工場を見学した。
どういうわけか、平成元年の頃の印象はそんなものだ。平成20年(2008年)の暮れになって、はるかな昔を思い出すてみるのも一興か?
2008年3月15日土曜日
戦友再会

3月2日~8日まで京橋で開いた自分たちの水彩画の展覧会に往時の仕事仲間fujituの「タモツちゃん」と「モリカワさん」が来てくれた。タモツちゃん夫妻には数年前相模湖畔の道志村への道の側の「ふれあい農園」に参加したところ、偶然彼も農場を借りていて再会した。磯子からは最低車で1時間半かかるから退職して暇な私でも、トマトや茄子や葉ものを栽培して農園に頻繁に手入れや収穫に行くわけに行かないから、通常はカボチャやサツマイモ、サトイモなど、ほとんど手入れをしなくても済むものを作っていた。それでも収穫時には車に積みきれないほどの収穫があり、ご近所に分けるほどだった。特にサツマイモの茎は戦後の食糧難の時代を思い出させるとともに、キンピラにすると美味しくて近所の奥さん方にも評判だった。
秋には収穫祭があって赤組だの青組みだのに分かれて収穫を競う収穫祭や、ビール会社の協賛で皆でわいわいやって楽しんだ。その会が主催者の側の人事によって中心編集長が更迭されて、解散同様になったが仲の良い数組の夫婦が自然発生的にそれぞれの家庭に集まって、懇親会を開いた。
自分が脳梗塞に罹って自然に間遠になってしまったが、ご近所に在住のオオツジさん宅には度々伺った。広い庭を「開墾」して野菜を作っておられたが、トラブルで隣家が次々に代わる場所だったらしく、家を売って別の市のアパートに越し、いずれは奥様の実家がある宮崎に越して農家になりたいそうである。偶然私と同じ会社に勤めたエンジニアーである。
話は逸れたが、色分け組みは違ったが、みどり組のタモツちゃんはクロオト裸足の立派な野菜を作った。僕の病気で別れて以来、4年ぶりの再会である。
連絡が取れたモリカワさんを連れてきてくれた。彼とは随分会っていないのだ。ウン十年だろう。我慢強い彼は下請けの立場の会社代表エンジニアとしてよく頑張ったが、会社からは優遇されなかったように思う。その一端はわれわれプライム社にも責任があると今になって思う。兎も角タモツちゃんが入社して以来延々と開発に携わってきた殆ど二十数年はわれわれは戦友だったといってよい。
新橋の焼き鳥屋に出向いたわれわれ(タモツちゃん夫妻、モリカワさん、わが夫妻の5人)は丁度ハナ金曜日で入れず、すし屋も入れず、別の焼き鳥屋で待ってようやく潜り込んだ。
積もる話は延々と、明石時代の須磨のホテルでの設計会議の様子、奥様が眼科医の電子管エキスパートエンジニア・Aさんの話、亡くなったSさんMさんの話などなど、この人たちがいなければ自分でも忘れてしまう話が生き生きと現れる。
ほんとうに青春そのもの、今となっては会社など違っていても共有する戦いの記憶がアフィニティだ。まだ現役であろう若い人たち(もう老年であろうが)の思い出も数々、次回はモリカワさんは夫妻で来ることを約して別れた。
電車に接続するバスはも早なく、タクシーで帰った。バスだと酩酊が心配だった。
2008年2月12日火曜日
九州宮崎は酒造元隣の旅館
マイクロ波を使ったレーダーの苦労することの1つに低空目標の探知がある。
原因はいろいろあるが、一般に使用周波数が高いほど難しくなると言われている。アンテナで作る電波のビーム幅は、光学レンズで作る光の束に似て、細くなるほど地面からの反射エコーと目標機からの反射エコーは見分けやすくなるのだが・・・・・・・いろいろの設計上のトレードオフがあるのだが、それをさて置き、一般にはMTI(移動目標識別技術)というのがある。これは移動目標からの反射電波は、必ずドップラー周波数偏移があるからこの違いを検出するのである。ところが低空になればなるほど、航空機などからの反射は地面からの反射に比べて圧倒的に相対量が小さくなってしまうので識別が難しくなる。
その頃国の研究機関の試験に「労務借り上げ」であちらこちら試験条件が整った場所に出張してデータを取っていた。試験機は我々が納めたトラックに搭載された移動用のレーダー。レーダーといってもランチャーと連動して小型地対空誘導弾の発射制御をする機能を備えている。
目標機を識別する試験をする航空機はかっての花形練習ジェット機T33、パイロットはかなり低空を飛ぶのでベテラン航空隊長I大佐が自ら飛ぶそうだ。機材の展開試験は宮崎県新田原(ニュウタバル)基地。天気の日もあり、雨の日もあり、あるときはハチの巣別れの大群にであったり広い飛行場の中で何週か過ごしたものだ。
中でも思いで深かったのは会社員試験隊が泊まった駅前の旅館であった。老舗の旅館の隣は宮崎が誇る焼酎の醸造元、朝から焼酎の匂いが流れてくる。まだ若かったので今のようには呑む習慣はなかったが、今となってはもっと呑めばよかったと残念。というのは店先に並べてある一升瓶が驚くほど安かった。
試験の打ち上げを旅館でやったとき、旅館の台所でよく切れるプロの包丁でO君が指先を大きく切って失神した。丁度休日だったが近くの医院に連れて行き、老先生に縫ってもらった。焼酎を少し飲んでいたので「危ないな」とは思ったが、手元が狂ったらしい。
飛行場は駅前のいわば海岸レベルから坂を上って上の台地にあり海上から見れば「航空母艦」に見えるような立地であろう。雨が降ると飛行場に降る雨水を直接下に流すと水害になるらしく、一旦大きい貯水池に溜めてから徐々に放水する調整池方式になっているらしい。基地前の一っ軒家が酒店で焼酎が置いてあり、親父さんが家の前の松の新芽を摘んでいるのを見て、なるほど家の松もこういう作業が要るのかと思ったのを妙に覚えている。
新婚の部下U君に来た奥さんからのラブレターを「みどりちゃんのラブレター」と皆で囃したのも昨日のようだ。お子さんももう社会人になっていることだろう。
なにはともあれ、懐かしい日々である。
原因はいろいろあるが、一般に使用周波数が高いほど難しくなると言われている。アンテナで作る電波のビーム幅は、光学レンズで作る光の束に似て、細くなるほど地面からの反射エコーと目標機からの反射エコーは見分けやすくなるのだが・・・・・・・いろいろの設計上のトレードオフがあるのだが、それをさて置き、一般にはMTI(移動目標識別技術)というのがある。これは移動目標からの反射電波は、必ずドップラー周波数偏移があるからこの違いを検出するのである。ところが低空になればなるほど、航空機などからの反射は地面からの反射に比べて圧倒的に相対量が小さくなってしまうので識別が難しくなる。
その頃国の研究機関の試験に「労務借り上げ」であちらこちら試験条件が整った場所に出張してデータを取っていた。試験機は我々が納めたトラックに搭載された移動用のレーダー。レーダーといってもランチャーと連動して小型地対空誘導弾の発射制御をする機能を備えている。
目標機を識別する試験をする航空機はかっての花形練習ジェット機T33、パイロットはかなり低空を飛ぶのでベテラン航空隊長I大佐が自ら飛ぶそうだ。機材の展開試験は宮崎県新田原(ニュウタバル)基地。天気の日もあり、雨の日もあり、あるときはハチの巣別れの大群にであったり広い飛行場の中で何週か過ごしたものだ。
中でも思いで深かったのは会社員試験隊が泊まった駅前の旅館であった。老舗の旅館の隣は宮崎が誇る焼酎の醸造元、朝から焼酎の匂いが流れてくる。まだ若かったので今のようには呑む習慣はなかったが、今となってはもっと呑めばよかったと残念。というのは店先に並べてある一升瓶が驚くほど安かった。
試験の打ち上げを旅館でやったとき、旅館の台所でよく切れるプロの包丁でO君が指先を大きく切って失神した。丁度休日だったが近くの医院に連れて行き、老先生に縫ってもらった。焼酎を少し飲んでいたので「危ないな」とは思ったが、手元が狂ったらしい。
飛行場は駅前のいわば海岸レベルから坂を上って上の台地にあり海上から見れば「航空母艦」に見えるような立地であろう。雨が降ると飛行場に降る雨水を直接下に流すと水害になるらしく、一旦大きい貯水池に溜めてから徐々に放水する調整池方式になっているらしい。基地前の一っ軒家が酒店で焼酎が置いてあり、親父さんが家の前の松の新芽を摘んでいるのを見て、なるほど家の松もこういう作業が要るのかと思ったのを妙に覚えている。
新婚の部下U君に来た奥さんからのラブレターを「みどりちゃんのラブレター」と皆で囃したのも昨日のようだ。お子さんももう社会人になっていることだろう。
なにはともあれ、懐かしい日々である。
2007年10月31日水曜日
七賢人事件
研究所の室長は穏やかで面白い方だった。われわれにとって「世紀の」と言ってよいほどの大事件だったが、ビリビリとしているわれわれを笑わせるほど余裕がある方のように見えた。われわれが数社の力を合わせて開発中の機材が装備されるかされないかをテストされるノッピキならない局面に達していて、明日はそのテストの日だという夜は昼間一日中リハーサルや問題解決に夢中になっていて疲れ果てて余裕などあろうはずもない。ここ1週間というもの近辺の旅館に泊まってここに通いつめているのだった。
「七賢人」といわれる有識者の面前での首実検であるから、失敗など許されるものではない。山ほどあった問題点も少しずつ解決してきたが、まだ完璧とは行かなかった。が、ついにその局面の日になったのである。隊員が操作するFCS、LCHなど入場から機材展開、飛翔体入りコンテナー搬入、コンテナー開、飛翔体自動装てん、擬似目標機飛来、FCS捕捉、ロックオン、LCHスレーブ・・・・・・一連のシステム動作を披露する過程で、何度かに一度は自動装てん動作の途中で飛翔体のシューをキャッチアップする動作が上手く行かない事象が出ることがあった。隊員はすでに諸試験に参加して熟練している。とはいえ、問題が発生したとき応用動作で対処するほど期待はできない。
「民間人」のうち応用動作に長けた隊員服の男を1人、控えのテントに待機させておいた。
擬似発射行程が進み、装てんになったとき、隊員の動きが一瞬止まった。待機の助っ人隊員がLCHの背後、観客からの死角になろうかという目立たない位置に予定していた伝令のようにスルスルと走り寄り、シューのキャッチアップにオマジナイをかけた。発射準備行程は何事もなく進んだ。
システム展示は大成功であった。七賢人の「おおむね良好」という評価もいただき装備化のきっかけになった。あの問題点もまもなく解決できた。
その夕、研究室に戻られた室長はお疲れもないかに見え、非常に喜ばれてわれわれをねぎらっていただいた。工学博士の室長はいささか武人離れの面影があった。やがて教育隊の校長に栄転され、官舎に隊員用のカラオケセットを設けるなど、親しく部下の育成にも努められておられると伺い、そのうち伺おうと思っていた矢先、官舎で急逝されたという訃報に接した。 懐かしく思いで深い学者肌で磊落な陸将であった。
「七賢人」といわれる有識者の面前での首実検であるから、失敗など許されるものではない。山ほどあった問題点も少しずつ解決してきたが、まだ完璧とは行かなかった。が、ついにその局面の日になったのである。隊員が操作するFCS、LCHなど入場から機材展開、飛翔体入りコンテナー搬入、コンテナー開、飛翔体自動装てん、擬似目標機飛来、FCS捕捉、ロックオン、LCHスレーブ・・・・・・一連のシステム動作を披露する過程で、何度かに一度は自動装てん動作の途中で飛翔体のシューをキャッチアップする動作が上手く行かない事象が出ることがあった。隊員はすでに諸試験に参加して熟練している。とはいえ、問題が発生したとき応用動作で対処するほど期待はできない。
「民間人」のうち応用動作に長けた隊員服の男を1人、控えのテントに待機させておいた。
擬似発射行程が進み、装てんになったとき、隊員の動きが一瞬止まった。待機の助っ人隊員がLCHの背後、観客からの死角になろうかという目立たない位置に予定していた伝令のようにスルスルと走り寄り、シューのキャッチアップにオマジナイをかけた。発射準備行程は何事もなく進んだ。
システム展示は大成功であった。七賢人の「おおむね良好」という評価もいただき装備化のきっかけになった。あの問題点もまもなく解決できた。
その夕、研究室に戻られた室長はお疲れもないかに見え、非常に喜ばれてわれわれをねぎらっていただいた。工学博士の室長はいささか武人離れの面影があった。やがて教育隊の校長に栄転され、官舎に隊員用のカラオケセットを設けるなど、親しく部下の育成にも努められておられると伺い、そのうち伺おうと思っていた矢先、官舎で急逝されたという訃報に接した。 懐かしく思いで深い学者肌で磊落な陸将であった。
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