駆け出しの頃(笑い話?・おとぎ話?)-1
入社して配属された工場の北側は、東京の大田区と神奈川県の川崎市を隔てる多摩川の川崎側の畔であった。
町の名が付くほどの広い敷地の東側は、国道1号線いわゆる「夜霧の第2国道」に面し、国道は多摩川大橋に続いている。
東側の県道は公園や民家を挟んで多摩川土手に面している。
西側にはNTTなどのビルや工場や民家などが続いて、3kmほど先のJR鹿島田駅に続く商店街である。
工場の敷地内は、当時西側にテレビを含む家電生産の小向工場、東側に総合研究所、北側に半導体開発・生産のトランジスタ工場に3分していた。
ワシたちが配属された無線機技術部レーダー課は南側の道に面した3階事務棟にあり、西側には6階建ての大生産棟が建っていて、当時はテレビ生産ラインも、電子計算機につかうビーズ上のコアをエナメル線でクロスに編み込むメモリ装置もここで生産していた。
この工場の屋上は展望が良く、南側に海こそ見えないが、川崎駅に続く家並み、西側には低い工場や民家の家並みが続き、比較的背の高いビルと言ったらわが社の女子寮くらいであった。
そのころオーストラリアの気象レーダーの提案話があり、主任格の藤井さんと、大越さん、伊ケ崎さんの先輩に付いていたが、今考えてみるとそれまで日本の気象レーダーの実績は殆ど無くて伝説クラスの室戸岬の気象レーダー位であった。
何も知識がなかったワシら新入課員に与えられた仕事は差し渡し40cm位のアルミ箔の3角4面立体タコのマイクロ波反射信号を捉えよ、というものだった。
実験に使う装置は、米国HP(ヒュウレット・パッカード)社のSG(シグナル・ジェネレーター)とラッパ状のマイクロ波アンテナとシンクロスコープとマイクロ波検波・受信機など。
今思うに、テーマを与える方も受け取る方も、噴飯もの!漫画だ!
1mmwのSG出力を小さいアンテナで発射して、シンクロで受信するという無茶なこと。
はじめ、信号が受からないのが距離が近すぎる所為かと思ったので、ラジオ・ゾンデに使う1mほどのヘリュウム気球にコーナー・レフレクターをぶら下げて凧揚げのように飛ばすことを思いついた。
真上に上がったのでは困るから、風のある日、屋上から西の方に上げた。
糸はドンドン伸びていく。
気球の高度は思ったほどの高さを取れない。
車往来が少なかったこの頃でも、糸は道路の車の上を伸びて行く。
アーッ!風船が落ちる!遂に1kmくらいの商店街の入口辺りに落下したようだ!
糸巻きの端に目印をつけてビルの下に投げ落とし、夢中で工場を飛び出し、一人は糸巻きを探し、一人は気球を回収に行く。
屋根や道路の上に落下している糸には人々はまだ気付かない!
早く気球を見つけて糸を切らないと!
やがて、気球とレフレクタが見つかり、糸を切り離して、手元の糸巻きに手繰り寄せれば万歳だ!
スルスルと無事手繰り寄せれば良かったが、実際は工場に近い女子寮の屋上で糸が何かに絡まってしまった。
これを解くには、女子寮の屋上に上がらせてもらう必要がある。寮長のおじさんは、昼間女子工員たちがいないとはいえ、女子寮の部屋を上から覗くのではないかと寮長のおじさんに疑われたり、散々な目にあったが、不幸中の幸い、町や車からクレームもなく、すべて世は事もなく!
2016年5月8日日曜日
2015年6月28日日曜日
第11回目のGM同窓会
第11回目のGM同窓会
天気予報は終始雨だったので雨の中、頭から被る簡易合羽を着て最低バス停までは歩くのを覚悟していた。
しかし、当日になってみると幸い門を出てバス停に歩く段には曇で助かった。
10:17の上大岡行きに乗り2つ先のバス停で10:37の横浜駅行きに乗り換えると1本でいつもの会場に行ける。
今年も去年と同じ参加者は最高の55名だという。
1年ぶりに会う皆の無事を喜び合った。
この会員ではない物故Y大先輩の仏前のタブレット写真を見せてもらいながら、奥さまは入院で日頃はお宅は無人だと聞くと、人事ではないなあと天ならぬ天井を見上げる。
去年はイベントに部にまつわる歴史クイズが座席グループ対抗であったが問題作成の幹事団も答えるグループも疲れ果てて、今年は長年夏秋の新島試験場や静内射撃場での思い出のトピックを数十分の音声入りのスライド・ストーリィに幹事の一人Mさんがまとめてくれたのを上映してくれた。
一部ワシの当ブログなどの引用をしてくれて(事前了解もとってくれた上で)久しぶりに皆んなと共有した「試射場で、ひたすら空と海を眺めた日々」を思い出した。
このような共通の思い出を持ち現在に至っている事業の大きな流れがあるからこそGM同窓会なのだと皆と喜び合うことが出来る。
そろそろ?・・・などという声もありそうだが、来年も日取りと会場予約は済んでいるそうな。
天気予報は終始雨だったので雨の中、頭から被る簡易合羽を着て最低バス停までは歩くのを覚悟していた。
しかし、当日になってみると幸い門を出てバス停に歩く段には曇で助かった。
10:17の上大岡行きに乗り2つ先のバス停で10:37の横浜駅行きに乗り換えると1本でいつもの会場に行ける。
今年も去年と同じ参加者は最高の55名だという。
1年ぶりに会う皆の無事を喜び合った。
この会員ではない物故Y大先輩の仏前のタブレット写真を見せてもらいながら、奥さまは入院で日頃はお宅は無人だと聞くと、人事ではないなあと天ならぬ天井を見上げる。
一部ワシの当ブログなどの引用をしてくれて(事前了解もとってくれた上で)久しぶりに皆んなと共有した「試射場で、ひたすら空と海を眺めた日々」を思い出した。
このような共通の思い出を持ち現在に至っている事業の大きな流れがあるからこそGM同窓会なのだと皆と喜び合うことが出来る。
そろそろ?・・・などという声もありそうだが、来年も日取りと会場予約は済んでいるそうな。
2015年6月21日日曜日
パリのエアショウ
パリ・エアショウ
facebookに今年のパリエアショウに公開されるというボウイングのアクロバット797モデルの軽快なフライト動画が出ていた。
それを見て、1989年のパリのエアショウに行ったことを思い出した。
その時にはまだ米ソ冷戦が続いていた時代で、ソ連の巨大な貨物ジェット機が公開されていた。
10輪もあろうかという巨大車輪に支えられた胴体に巨大エンジンが4つも付いていたか?巨大な翼の下には大型のヘリコプターがそっくり駐機していたっけ。
スペースシャトルも運べそうな貨物機だった。
ソ連は本気で運ぶつもりだったかもしれないと思ったものだ。
またその年、ソ連は多分最後のMIGになった機を2機ドゴール空港に持ち込んだ。
空中で垂直に立って居ることが出来、その姿勢から反転し急降下爆撃姿勢に移るという離れ業が出来たという触れ込みだった。
デモンストレーション・フライトも見たように思うが、滞在中に1機がフライトに失敗して地上に墜落したというニュースが流れ、デモは中止になった。
ソ連のいろいろなピンバッチを貰ったパリのエアショウには思い出がたくさんある。
パリに初めて行ったのもその時だし、フォンテンブローの森の近くの古館でスエーデンの航空機メーカーのレセプションに出席し、そこで驚きの偶然にワシが北海道でかねてより親しくしていた千歳の老友人の友人だという米国人に会ったりした。
空いた時間に同行のMさんとパリ南部近郊の古城めぐりを楽しんだのもその時だった。
facebookに今年のパリエアショウに公開されるというボウイングのアクロバット797モデルの軽快なフライト動画が出ていた。
それを見て、1989年のパリのエアショウに行ったことを思い出した。
その時にはまだ米ソ冷戦が続いていた時代で、ソ連の巨大な貨物ジェット機が公開されていた。
10輪もあろうかという巨大車輪に支えられた胴体に巨大エンジンが4つも付いていたか?巨大な翼の下には大型のヘリコプターがそっくり駐機していたっけ。
スペースシャトルも運べそうな貨物機だった。
ソ連は本気で運ぶつもりだったかもしれないと思ったものだ。
またその年、ソ連は多分最後のMIGになった機を2機ドゴール空港に持ち込んだ。
空中で垂直に立って居ることが出来、その姿勢から反転し急降下爆撃姿勢に移るという離れ業が出来たという触れ込みだった。
デモンストレーション・フライトも見たように思うが、滞在中に1機がフライトに失敗して地上に墜落したというニュースが流れ、デモは中止になった。
ソ連のいろいろなピンバッチを貰ったパリのエアショウには思い出がたくさんある。
パリに初めて行ったのもその時だし、フォンテンブローの森の近くの古館でスエーデンの航空機メーカーのレセプションに出席し、そこで驚きの偶然にワシが北海道でかねてより親しくしていた千歳の老友人の友人だという米国人に会ったりした。
空いた時間に同行のMさんとパリ南部近郊の古城めぐりを楽しんだのもその時だった。
2015年5月10日日曜日
敗戦前の外地の国民学校の友に出会った。
敗戦前の外地の国民学校の友に出会った。
ワシは数年前から近隣の”横浜タウン新聞”というローカル商業新聞に自分の「スロウライフあれこれ」についてエッセイを投稿していた。
何年か続けていたが、最近自分のブログやホームページの更新が忙しくなり、間遠になっている。
ある日、新聞社から、エッセイにあった「植民地時代の朝鮮・京城(今韓国・ソウル)の桜ヶ丘国民学校」という名と敗戦に依って難民になって逃げ帰った「竜山駅」という当時の京城の貨物駅のこと、釜山(プーサン)港から「興安丸」という引揚船で山口県・「仙崎漁港」に引き揚げたというキーワードを偶然見つけた隣町港南台の紳士から問い合わせがあったので、連絡先をお答えして良いかとe-メールが入った。
早速、お受けして数日後、拙宅に近い洋光台駅横のド・トール珈琲店で初めてお会いした。
話は劇的とも言えるものだった。
桜ヶ丘国民学校にはそのSさんが敗戦当時4年生、ワシが3年生、住んでいた所は同じ新堂町、当時には珍しい新しいコンクリート建て3階ビルに暖房用煙突のあるの校舎や、校庭の藤棚の事など、ワシが持って行った通信簿などを交えて話した。
さらに、ビックリしたのはSさんのお母さんの実家が神奈川県の小田原に近い山北というところで、高校を出てから東京芝浦電気株式会社(現東芝)小向工場に入社したという。
何とワシが入社し配属されたところも同じ小向工場だったのである。ワシが小向工場無線機技術部に入った当時、Sさんは品質管理部を経て社内の専門校を志望し、上長に相談しながら、当時新設された中小企業診断士の資格を得て、さらに社外へと成長する過程だったらしい。
当時の工場長や関係部課長の名前が共通記憶にあったのである。
それらの人々とのエピソードを交えて話し込み、時間はアッという間に経った。
Sさんには桜ヶ丘国民学校上級生のお姉さんがいるという。
早速ワシが参考に持参した京城の地図(ワシが京城中学生だった叔父からもらったいた)などをコピーして見せるのだという。
こんなにご縁があった人が、すぐ近くに住んでいて、この歳になって偶然出会うことになるとは・・・人生面白いものだと思う。
喫茶店に行く前、自宅で先年まで続いていた桜ヶ丘国民学校の同窓会の資料を探したが、見当たらなかったのが残念だった。
すぐ下の公園脇には桜ヶ丘国民学校卒の年配の奥さんが居られ、ワシのQ大の先輩の旦那さんは京中の叔父と同年の共通の友達がおられた。
その方は電通の会長さんだったが先年亡くなったのは残念である。
人間どこでどうつながっているのか、計り知れない気がする。
ワシは数年前から近隣の”横浜タウン新聞”というローカル商業新聞に自分の「スロウライフあれこれ」についてエッセイを投稿していた。
何年か続けていたが、最近自分のブログやホームページの更新が忙しくなり、間遠になっている。
ある日、新聞社から、エッセイにあった「植民地時代の朝鮮・京城(今韓国・ソウル)の桜ヶ丘国民学校」という名と敗戦に依って難民になって逃げ帰った「竜山駅」という当時の京城の貨物駅のこと、釜山(プーサン)港から「興安丸」という引揚船で山口県・「仙崎漁港」に引き揚げたというキーワードを偶然見つけた隣町港南台の紳士から問い合わせがあったので、連絡先をお答えして良いかとe-メールが入った。
早速、お受けして数日後、拙宅に近い洋光台駅横のド・トール珈琲店で初めてお会いした。
話は劇的とも言えるものだった。
桜ヶ丘国民学校にはそのSさんが敗戦当時4年生、ワシが3年生、住んでいた所は同じ新堂町、当時には珍しい新しいコンクリート建て3階ビルに暖房用煙突のあるの校舎や、校庭の藤棚の事など、ワシが持って行った通信簿などを交えて話した。
さらに、ビックリしたのはSさんのお母さんの実家が神奈川県の小田原に近い山北というところで、高校を出てから東京芝浦電気株式会社(現東芝)小向工場に入社したという。
何とワシが入社し配属されたところも同じ小向工場だったのである。ワシが小向工場無線機技術部に入った当時、Sさんは品質管理部を経て社内の専門校を志望し、上長に相談しながら、当時新設された中小企業診断士の資格を得て、さらに社外へと成長する過程だったらしい。
当時の工場長や関係部課長の名前が共通記憶にあったのである。
それらの人々とのエピソードを交えて話し込み、時間はアッという間に経った。
Sさんには桜ヶ丘国民学校上級生のお姉さんがいるという。
早速ワシが参考に持参した京城の地図(ワシが京城中学生だった叔父からもらったいた)などをコピーして見せるのだという。
こんなにご縁があった人が、すぐ近くに住んでいて、この歳になって偶然出会うことになるとは・・・人生面白いものだと思う。
喫茶店に行く前、自宅で先年まで続いていた桜ヶ丘国民学校の同窓会の資料を探したが、見当たらなかったのが残念だった。
すぐ下の公園脇には桜ヶ丘国民学校卒の年配の奥さんが居られ、ワシのQ大の先輩の旦那さんは京中の叔父と同年の共通の友達がおられた。
その方は電通の会長さんだったが先年亡くなったのは残念である。
人間どこでどうつながっているのか、計り知れない気がする。
2015年2月28日土曜日
昭和というたからもの
昭和というたからもの
2015年も2月が終わった。 何時もはあまり気に留めないカレンダーをめくろうと、ふと絵を見ると懐かしい谷内六郎の絵だった。
各月の絵にコピーライターの岩崎俊一のコピーが入った「昭和というたからもの」という題名のカレンダーである。
2月末に辻堂の岡田稔さんが亡くなった。早稲田の理工出身で、偶然亡弟の泰夫が日産に入社した時、同期に早稲田理工のKUROIWAさんが岡田さんの親友だったご縁があった。
入社は一年先輩だった。 放送機部門からGM部門に換わってこられた。
GM部で永らく一緒に働きゴルフの行き帰りなどに辻堂のお宅にもよく遊びに行ったが、会社を卒業してから病気がちになられ心配していた。
亡弟泰夫が古希前に亡くなってもう10年になるから、喜寿になられたであろう。
ここ数年の内に会社同僚の昭和生まれの若い人も含め数人失ったが、あらためて昭和という時代を思い出すことが多くなった。
2015年も2月が終わった。 何時もはあまり気に留めないカレンダーをめくろうと、ふと絵を見ると懐かしい谷内六郎の絵だった。
各月の絵にコピーライターの岩崎俊一のコピーが入った「昭和というたからもの」という題名のカレンダーである。
2月末に辻堂の岡田稔さんが亡くなった。早稲田の理工出身で、偶然亡弟の泰夫が日産に入社した時、同期に早稲田理工のKUROIWAさんが岡田さんの親友だったご縁があった。
入社は一年先輩だった。 放送機部門からGM部門に換わってこられた。
GM部で永らく一緒に働きゴルフの行き帰りなどに辻堂のお宅にもよく遊びに行ったが、会社を卒業してから病気がちになられ心配していた。
亡弟泰夫が古希前に亡くなってもう10年になるから、喜寿になられたであろう。
ここ数年の内に会社同僚の昭和生まれの若い人も含め数人失ったが、あらためて昭和という時代を思い出すことが多くなった。
2014年11月11日火曜日
ススキ野のローレライ
ときどき思い出すのだ。札幌ススキ野のローレライ。
サッポロビール全盛の頃、札幌のビヤホールNO.1だった。
ドイツ風のセミクラシック音楽演奏の専用ステージと楽団員
中央に見えるバイオリニストのXさん、右端に見えるアコーディオンのIさんは札幌交響楽団員だった。XさんもIさんも他の楽器も熟した。
乾杯のビールを掲げている女性たちが札幌女性合唱団員だとか、この写真にはピアノは出ていないが、皆明るく愉快な人たちだった。
1899年(明治32年)に出来たというから凄い。
この店を紹介してくれたのは札幌・千歳の眞鍋さん(今年確か96歳か)だった。
ご本人は東京外大スペイン語科ご出身だが、古くからの札幌愛好家だ。
残念ながら、時代の波に抗し難く、私が恵庭を離れた頃、この人達とのお別れの会とサインとを貰って、お店は消えてしまった。
あれから既に十数年経ってしまった。 皆んなどうしているだろうか?
2014年7月14日月曜日
GM同窓会が、はや10年!
毎年七夕のころ心待ちにしていた仲間に会える。
ミルキーウエイ(銀河)を遠くから新幹線や高速バスやロケットに乗って渡って来るように、あちらこちらから仲間を求めて集まってくる。
隠居もいるし、まだ講釈垂れているおじさんもいる。元気のいい会社現役のお偉いさんもいる。今も綿々と続く、夢工房みたいな会社事業の戦友たち仲間たちである。
今年は過去最多55名が集まったそうな。
横浜駅東口にある中華本店の結婚式場を借りて、それぞれ受付でクジを引いて座る中華丸テーブルで、幹事団が用意するイベントを楽しみ、やがて席を回って久しぶりの歓談をする。
GMといういわば新しいシステムだから先頭に立ってきたインテリ・ボス猿たちも昭和一桁後半だ。
気が付くと、ワシより年上は2人しかいない。
この仲間には、会場で大声を出す人もいないし、飲みつぶれるのもいない。
喧嘩をする仲間もいない、むしろあちこちのテーブルから時折笑い声が起こるくらいだ。
昔のオンナノコの顔も見える。
名店の若い男女の接客係たちも、毎年一目を置いてくれる会合なのだ。
「さすがTOSHIBAだ」と係の人が囁くのを聞くと嬉しい。
天下一の可愛い誇るべき優れた仲間たちなのである。
気が良いので今年も下の名売店で、おみやげに伝統的な中華焼売の小折を2個買った。ジンは今年も「またカッテキタノネ」と苦笑いだろう。
2階の息子たち一家は、ここの焼売の大フアンなのだ。
ミルキーウエイ(銀河)を遠くから新幹線や高速バスやロケットに乗って渡って来るように、あちらこちらから仲間を求めて集まってくる。
隠居もいるし、まだ講釈垂れているおじさんもいる。元気のいい会社現役のお偉いさんもいる。今も綿々と続く、夢工房みたいな会社事業の戦友たち仲間たちである。
今年は過去最多55名が集まったそうな。
横浜駅東口にある中華本店の結婚式場を借りて、それぞれ受付でクジを引いて座る中華丸テーブルで、幹事団が用意するイベントを楽しみ、やがて席を回って久しぶりの歓談をする。
GMといういわば新しいシステムだから先頭に立ってきたインテリ・ボス猿たちも昭和一桁後半だ。
気が付くと、ワシより年上は2人しかいない。
この仲間には、会場で大声を出す人もいないし、飲みつぶれるのもいない。
喧嘩をする仲間もいない、むしろあちこちのテーブルから時折笑い声が起こるくらいだ。
昔のオンナノコの顔も見える。
名店の若い男女の接客係たちも、毎年一目を置いてくれる会合なのだ。
「さすがTOSHIBAだ」と係の人が囁くのを聞くと嬉しい。
天下一の可愛い誇るべき優れた仲間たちなのである。
気が良いので今年も下の名売店で、おみやげに伝統的な中華焼売の小折を2個買った。ジンは今年も「またカッテキタノネ」と苦笑いだろう。
2階の息子たち一家は、ここの焼売の大フアンなのだ。
登録:
投稿 (Atom)


