2013年3月13日水曜日

東芝GM同窓会

2012年11月に投稿して以来、しばらく投稿を休んでしまった。
別に体調が悪いということではない。話題を昔の仕事について語るとしたから、話題が見つからなかっただけである。
「去るものは日々に疎し」である。話題をもっと広くすることにしよう。

今年も7月に東芝GM同窓会 が開かれる。昨年と同じく横浜駅東口前にある崎陽軒本店である。
日取りも去年から決まっていて、2013/7/7(日)である。
この会はわが国で独自に開発した国産短距離地対空誘導弾システム に端を発する(株)東芝誘導弾システム(GuidedMissileSystem)開発に関わった全部門のOB懇親会で、毎年同窓会を始めて今年で7,8年になる筈だ。いまだに毎回現役の面々を加えて結婚披露宴賀出来るような広い会場が一杯になるほど集まってくれる。
長い期間東芝をメインコントラクターとし飛翔体(ロケット)の川崎重工、(ランチャー)の富士重工、(ロケットエンジン)の日産、(ミサイルシステム、発射統制レーダー装置FCS、ランチャー)の東芝、(レーダー部分装置)の富士通など、各社が共に開発をし新島や北海道の発射試験を技本、自衛隊の人たちと、それこそ寝食を共にしてきた仲間意識が強いということもあるだろう。 
営業部門も含め、東芝の関係OBの会だけで続いているのである。  

 

2011年11月12日土曜日

1960年代はアメリカから学んだ

われわれが入社した1960年代は、日本の技術レベルもまだ途上国並だった。
例えば、レーダー技術でも、その中でもマイクロ波技術も、すべてアメリカに学んだ。

例えば、レーダーの技術はMIT(マサチュウセッツ工科大学)の戦時中の名著「RADAR HAND BOOK」に依ったし、時々刻々の現代技術はアメリカから来るBSTJ(ベル・システム・テクニカル・ジャーナル)はじめ、民間技術雑誌などに依るところ大きかった。
「マイクロウエーブ」誌、「マイクロウエーブ・ジャーナル」誌、「エレクトロニクス」誌、「IEEEジャーナル」誌、などなど、アメリカの現在技術が惜しげもなく入って来た。
大抵は、マイクロ波回路に使う部品(移相器や、マジックティや、サーキュレーターなどの導波管立体回路部品やXバンドやミリ波の精密導波管などの)の分厚いカタログが付いており、各種の技術データのチャートもふんだんに手に入った。日本の技術がいち早く伸びてきて、部品が必要になってきた査証だろう。

その頃、三鷹の天文台では、Cバンド(5GHZ帯)の各地の気象レーダーもやっていたが、天空の雑音レベルなどを大きいパラボラアンテナを使って測定していたが、ある年の夏だったか、BSTJ誌に、 当時画期的だったと言える「低雑音パラメトリックアンプ」を使った宇宙探査の記事が、われわれに衝撃を与えた。Xバンド(10GHZ帯)のアンプのNF(ノイズ・フィギャー=熱雑音に比較した信号検出の最小レベル値)を当時数デシベルの超低雑音パラメトリック・アンプで克服したと言う。一気に宇宙に目が開いた時点である。
Xバンドのパラメトリック・アンプには2倍の周波数のポンピングというエネルギー源が要る。当時はこの帯域の導波管や部品は総て輸入に頼っていたと思う。半導体ダイオードに印加したXバンド波に2倍の周波数を重畳すると、ある条件で負性抵抗が生じXバンドの波が低雑音で増幅される。

総研(東芝)では、林研で、村上純造さん(尾道高→東大の秀才だったが、残念ながら早世された)が取り組み始めた。徐々に必要帯域の開発をした。自分も社内留学の格好で、毎朝小向工場からお隣の総研へ通って、当時担当していた戦時中の米国製のLバンド分解可搬型サーチレーダー(LPS-1)のNFを改善して捜索距離を伸ばす実験をした。
4角いボックス型に納めたアンテナ部、送受信部、指示器部、などの人力で容易に運べる可搬のユニットを、移動先で縦に積み上げてパラボラアンテナをつけると、航空機捜索レーダーになった第2次大戦時代の名機であった。


以来ほぼ半世紀経った今、宇宙開発は急速の進歩を遂げているし、あれほどの沢山の技術開示をしてくれたアメリカも、技術開示を止めているかに見える。放送大学の講義によると、新しいチリの天文台や、ハッブル望遠鏡などの宇宙探査の周波数は既に何十何百GHZの領域になっているらしいし、日本の技術もアメリカに肩を並べるほどになって、
兄貴株のアメリカも世界中が競争相手になってきて、国が技術保護を始めたのであろう。
日本の技術者がコンピューター技術スパイの疑いで逮捕されたりした時代もあった。

それはそれとして、われわれを育ててくれたアメリカへの恩は忘れてはならないと思う。
(2011/11/11)

2011年6月18日土曜日

もう直ぐGM同窓会

 もう直ぐ、横浜・崎陽軒本店で待ちに待った恒例のGM同窓会が行われる。
何と言っても、一緒に国産初の誘導(ガイデッド)ミサイル・システムを開発してきた仲間である。
 今は、国内中の空陸主要基地に配備されている近距離防空ミサイルである。
その後継機を維持している現役も含め、皆んなそれを密かに誇りに思っている連中で、我が社関係だけで崎陽軒の大きい結婚式ホールも貸切にするほどの大所帯なのだ。
 茨城県土浦、千葉県四街道、宮崎県新田、東京都新島、北海道静内、北海道千歳、などなどをはじめ、名だたる基地で、実用試験などを繰り返し、完成させたシステムである。その技術は今も新しく更新されている。

 我が国では、何か肩狭い思いのこの種のシステムだが、悔しい思いも尋常一様ではないのも確かである。

2009年10月9日金曜日

あのころ


 時々、自分たちの一生は何だったのかと思うことがある。歌舞伎舞台の黒子のように、青春を捧げた対象を語ることもない。「お父さんはこんなことをしてきたのだ」とも大きな声では言えない。

 馬鹿な話だ。最近は海外への平和支援で多少世の関心を惹くようになったが、自衛隊員も同様であろう。国家のために働いて、まるで認められないのだ。年を取るほどに腹が立ってくる。

2009年1月23日金曜日

イージス艦事故の海難審判

TVやラジオは千葉・勝浦沖のイージス艦事故海難審判の判決が昨日出たことをラジオは伝えている。
制服姿で出頭したイージス艦の元艦長以下幹部の姿と、亡くなった漁船の親子の写真を見るにつけ、事故当時、それぞれの相手に対して取った行動は、それぞれの日頃の言動の見聞経験から想像できる。審判は公平に正しく行われるだろうから、自分のように直感と独断偏見による見方は参考にもならないだろうことは知っている。

漁船は漁場の好位置を獲得するために一刻も早くとフルスピードで急いでいた。急に右反転したのは直前を横切れば見張りの居る艦も少しはスピードを落すだろうし、交わせると思ったのだろう。
ところが艦の方は好成績を挙げたハワイ試験の帰りの高揚した油断もあって、入港モードでスピードも操舵も巡航していた。漁船群がレーダーで見えたが、いつものように「あいつらはしょーがねーな」と思っただけで、いつものように回避するだろうと高を括っていた。というのが本当のとこだろう。そういう意味では判決は自分にも正しいと思える。ノーブル・オブリッッジが働くのだ。

思い出すのは、海自に装備が配備され始めた当時、八戸の海自の司令部のある幹部1左(副指令か部長だったと思うが)の元へ表敬挨拶に伺った。海自OB顧問や営業部長、技術部長などの一群であった。アポが取ってあった。建物入り口両側に正装の幹部が数人整列しておられた。何方かの来客のお出迎えだろうと思い、われわれは裏口に廻ろうとした。われわれ会社員がお迎えを受けるなど考えられないのである。それでも「どうぞどうぞ」と言われて、お迎えの列の間をすり抜けて通ってご挨拶先の部屋に向かった。われわれは陸自、空自部隊表敬はしばしばであったが、海自表敬挨拶は初めてであった。やがて現れたその幹部に「お前ら帰れ!」と一喝された。キョトンとしたわれわれは意味不明だがスゴスゴ帰らざるを得なかった。

アメリカ映画などで海軍の乗艦客へのタラップ口での出迎え表敬の場面で見るように、海自でも同様の米軍伝統のしきたりがあるのだ。だから、袖口に階級章が付いているとも聞く。礼をしたり握手をする時階級が容易に判るためだそうだ。日本旧軍のしきたりは知らない。全て後から知った話しだ。あのお出迎えはわれわれのためであったのだ。迂闊と言えば迂闊。海自OB殿の失策と言えば失策。

軍人も会社員も分け隔てない表敬は立派!だが誰もが海自式を知るべきだと思う独断。知らない人への態度はあの幹部特有のものであろうが、海自の仕来りはこうなっているのですよ、と教えてくれる幹部も居るのを後で知ったが、自分には旧軍幹部の横柄な物言いや態度を髣髴とさせる。

自分は大勢の自衛隊幹部の方々のお世話になり、数々の技術試験や討論会などで一緒に学び、一緒の飯を食い、なかの数人はいまだに賀状などのお付き合いをしていただいている方々を知っているが、「運命を船と共に」という海自式の仕来りにはどうもなじめないでいる。かって読んだ Wind of war の自由と平和のために国際的に働いた海軍への憧れとは裏腹に、スマートさの裏の「唯艦独尊」的な頑なさがあの忌まわしい戦争を招いたのではないかと戦争被害者の自分は考えるのだ。

2008年12月28日日曜日

平成元年のころ

 居酒屋えびすやのカウンターで焼き鳥を肴に飲んでいた。頭上の小テレビが昭和天皇の病状を伝えている。夜な夜な飲み歩いて・・・・・・、小遣いには不自由しなかったが、仕事も家庭も問題ばかりで、心は暗く救いもなかった。えびすやのママさんは浅草生まれ、女学生当時の空襲で命からがら生き延びた話をよく聞いた。店を手伝う気心の優しい高校生の娘さんは日産に就職が決まったと笑顔一杯だった。

 テレビは天皇の容態が重いことを伝えていた。繰り返す輸血でほとんど望みがないと思えた。仕事の上では、すでに装備の配備が進んでいて、JDA各部隊の幹部との会合が多かった。

 他社がプライムのSAM-Xの配備も始まっていた。われわれの経験を開示し、交換のようにしてM工場を見学した。

 どういうわけか、平成元年の頃の印象はそんなものだ。平成20年(2008年)の暮れになって、はるかな昔を思い出すてみるのも一興か?

2008年3月15日土曜日

戦友再会


 3月2日~8日まで京橋で開いた自分たちの水彩画の展覧会に往時の仕事仲間fujituの「タモツちゃん」と「モリカワさん」が来てくれた。タモツちゃん夫妻には数年前相模湖畔の道志村への道の側の「ふれあい農園」に参加したところ、偶然彼も農場を借りていて再会した。磯子からは最低車で1時間半かかるから退職して暇な私でも、トマトや茄子や葉ものを栽培して農園に頻繁に手入れや収穫に行くわけに行かないから、通常はカボチャやサツマイモ、サトイモなど、ほとんど手入れをしなくても済むものを作っていた。それでも収穫時には車に積みきれないほどの収穫があり、ご近所に分けるほどだった。特にサツマイモの茎は戦後の食糧難の時代を思い出させるとともに、キンピラにすると美味しくて近所の奥さん方にも評判だった。

秋には収穫祭があって赤組だの青組みだのに分かれて収穫を競う収穫祭や、ビール会社の協賛で皆でわいわいやって楽しんだ。その会が主催者の側の人事によって中心編集長が更迭されて、解散同様になったが仲の良い数組の夫婦が自然発生的にそれぞれの家庭に集まって、懇親会を開いた。

自分が脳梗塞に罹って自然に間遠になってしまったが、ご近所に在住のオオツジさん宅には度々伺った。広い庭を「開墾」して野菜を作っておられたが、トラブルで隣家が次々に代わる場所だったらしく、家を売って別の市のアパートに越し、いずれは奥様の実家がある宮崎に越して農家になりたいそうである。偶然私と同じ会社に勤めたエンジニアーである。

 話は逸れたが、色分け組みは違ったが、みどり組のタモツちゃんはクロオト裸足の立派な野菜を作った。僕の病気で別れて以来、4年ぶりの再会である。

連絡が取れたモリカワさんを連れてきてくれた。彼とは随分会っていないのだ。ウン十年だろう。我慢強い彼は下請けの立場の会社代表エンジニアとしてよく頑張ったが、会社からは優遇されなかったように思う。その一端はわれわれプライム社にも責任があると今になって思う。兎も角タモツちゃんが入社して以来延々と開発に携わってきた殆ど二十数年はわれわれは戦友だったといってよい。

 新橋の焼き鳥屋に出向いたわれわれ(タモツちゃん夫妻、モリカワさん、わが夫妻の5人)は丁度ハナ金曜日で入れず、すし屋も入れず、別の焼き鳥屋で待ってようやく潜り込んだ。

 積もる話は延々と、明石時代の須磨のホテルでの設計会議の様子、奥様が眼科医の電子管エキスパートエンジニア・Aさんの話、亡くなったSさんMさんの話などなど、この人たちがいなければ自分でも忘れてしまう話が生き生きと現れる。

 ほんとうに青春そのもの、今となっては会社など違っていても共有する戦いの記憶がアフィニティだ。まだ現役であろう若い人たち(もう老年であろうが)の思い出も数々、次回はモリカワさんは夫妻で来ることを約して別れた。

 電車に接続するバスはも早なく、タクシーで帰った。バスだと酩酊が心配だった。