2008年3月15日土曜日

戦友再会


 3月2日~8日まで京橋で開いた自分たちの水彩画の展覧会に往時の仕事仲間fujituの「タモツちゃん」と「モリカワさん」が来てくれた。タモツちゃん夫妻には数年前相模湖畔の道志村への道の側の「ふれあい農園」に参加したところ、偶然彼も農場を借りていて再会した。磯子からは最低車で1時間半かかるから退職して暇な私でも、トマトや茄子や葉ものを栽培して農園に頻繁に手入れや収穫に行くわけに行かないから、通常はカボチャやサツマイモ、サトイモなど、ほとんど手入れをしなくても済むものを作っていた。それでも収穫時には車に積みきれないほどの収穫があり、ご近所に分けるほどだった。特にサツマイモの茎は戦後の食糧難の時代を思い出させるとともに、キンピラにすると美味しくて近所の奥さん方にも評判だった。

秋には収穫祭があって赤組だの青組みだのに分かれて収穫を競う収穫祭や、ビール会社の協賛で皆でわいわいやって楽しんだ。その会が主催者の側の人事によって中心編集長が更迭されて、解散同様になったが仲の良い数組の夫婦が自然発生的にそれぞれの家庭に集まって、懇親会を開いた。

自分が脳梗塞に罹って自然に間遠になってしまったが、ご近所に在住のオオツジさん宅には度々伺った。広い庭を「開墾」して野菜を作っておられたが、トラブルで隣家が次々に代わる場所だったらしく、家を売って別の市のアパートに越し、いずれは奥様の実家がある宮崎に越して農家になりたいそうである。偶然私と同じ会社に勤めたエンジニアーである。

 話は逸れたが、色分け組みは違ったが、みどり組のタモツちゃんはクロオト裸足の立派な野菜を作った。僕の病気で別れて以来、4年ぶりの再会である。

連絡が取れたモリカワさんを連れてきてくれた。彼とは随分会っていないのだ。ウン十年だろう。我慢強い彼は下請けの立場の会社代表エンジニアとしてよく頑張ったが、会社からは優遇されなかったように思う。その一端はわれわれプライム社にも責任があると今になって思う。兎も角タモツちゃんが入社して以来延々と開発に携わってきた殆ど二十数年はわれわれは戦友だったといってよい。

 新橋の焼き鳥屋に出向いたわれわれ(タモツちゃん夫妻、モリカワさん、わが夫妻の5人)は丁度ハナ金曜日で入れず、すし屋も入れず、別の焼き鳥屋で待ってようやく潜り込んだ。

 積もる話は延々と、明石時代の須磨のホテルでの設計会議の様子、奥様が眼科医の電子管エキスパートエンジニア・Aさんの話、亡くなったSさんMさんの話などなど、この人たちがいなければ自分でも忘れてしまう話が生き生きと現れる。

 ほんとうに青春そのもの、今となっては会社など違っていても共有する戦いの記憶がアフィニティだ。まだ現役であろう若い人たち(もう老年であろうが)の思い出も数々、次回はモリカワさんは夫妻で来ることを約して別れた。

 電車に接続するバスはも早なく、タクシーで帰った。バスだと酩酊が心配だった。